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アニヤの鉄拳

 金庫バアに与えられた1か月の特別休暇が終わった。


 シェイドは、フロウとミカエルに、忙しくなるからこれまでのようには会えないと話した。


 フロウはひどく切ない目をしていた。シェイドが迷ううちは、あんなに求めてきたフロウであったが、覚悟を持って伝えたことには、それ以上、押してくることはなかった。


 そんなフロウを知り、余計に心が乱された。


「お別れっていうことじゃないよね」


 ミカエルは、フロウが恐れて口にできないことを、さらりとシェイドに確かめた。


「いつなら会えるの、会える日が少なくなってもいいから約束しようよ」


 ミカエルが言うたびに、フロウが小さく頷いた。


 2週間後の金曜日、3人で会うことを決めた。


「来週の金曜も僕は来られるけど、フロウ、遊ばない?」


 ミカエルがフロウにそう問いかけるのを聞いて、シェイドは胸がぎゅっと締めつけられた。

 フロウがミカエルを見て小さく頷いたので、もっと胸が苦しくなった。

 かすかないら立ちが混じっていた。


 シェイドは懸命に心をなだめ、二人と別れた。





 フロウやミカエルと過ごすことを楽しく思うほど、タタやカラカラへの申し訳ない気持ちも増していた。


 タタとカラカラは、家族、守るべきもの、運命共同体であった。

 シェイドは、自分の生きる世界を忘れてはならないと戒めた。

 浮ついた気持ちでいては、すぐに足元をすくわれて、傷つけられて、蹴落とされてしまう。

 自分だけではなく、大切なタタとカラカラを巻き込んでしまう。


 シェイドは、フロウとミカエルの存在を心の奥に封印して、仕事に向かわなければならないと思っていた。










 金庫バアのアジトの5階、503とプレートのかかった部屋で、シェイドとタタとカラカラは、久しぶりに顔を合わせた。絨毯敷きの6畳の真ん中に四角いテーブルがあり、それを囲むように座っていた。


「1か月ぶり。今日は集合しようって約束した日だ」


 シェイドはそう言って、タタとカラカラを見た。

 タタは、苦い顔をしてあさっての方向を向いていた。

 カラカラは、そんなタタをちらっと見てからシェイドに言った。

 

「いつもの生活に戻るんだね」

「そうだよ。3人でまた仕事をするんだ」


 答えたシェイドの様子を見て、カラカラは少し眉をひそめた。


「何かさ、声と顔が固い」

「え、そうかな」


 体を引き、ひるんだ様子のシェイドに、カラカラは笑いかけた。


「久しぶりのせいかもね」

「うん、たぶん」


 シェイドは照れるように笑った。

 カラカラは、タタに顔を向けた。


「私、あんたの顔ちゃんと見るの、だいぶ久しぶりな気がする。タタ、今日からちゃんと部屋に戻ってくるんでしょうね」

「んあ?んん。たぶんな」


 仏頂面のまま、タタは気のない声で言った。


「あれ?タタ、どっか具合悪い?」


 タタの様子に今気づいた風なシェイドに、カラカラはぎょっとして言った。


「シェイド、まさか、今まで気づいてなかった?こいつ、最近ずっとこんな調子で、部屋にも戻って来てないんですけど」

「ええ!嘘、いつから?大丈夫?」


 思わずシェイドはタタの額に手を当てた。タタは反射的にその手を強くはねのけた。


「触んな!」


 反射的にそうしてしまい、タタは一瞬ハッという表情をしたが、唇を噛んですぐ苦い顔に戻った。シェイドはぽかんとした顔をし、ぴしゃりとはねられた右手をゆっくり引っ込めた。


 カラカラは二人を見て、ため息をついた。


「タタは具合が悪いんじゃなく、機嫌が悪いんだよ。何でか知らないけど、仕事はちゃんとやろうよ。っていうか、シェイドは仕事があると、私たちのこと結構見てるけど、仕事がないと、私たちのこと全然見てないんだね」


「見てない?タタとカラカラを?」


「うん。この1か月、ぼんやりしっぱなし。タタの分かりやすい不機嫌にも気づいてなかったんでしょ。しかも、タタがどっかに泊り歩いてたことも分かってなかったなんて」


「姿があんまり見えないのは、休暇でいろいろ出歩いているんだなと思ってたから」


 言いながら、シェイドの表情は苦しそうに曇っていった。


 タタがチッと舌打ちをした。


「俺の行動、いちいち監視してるおめえがきもい。ほっとけよ。やることはやるさ。うるせえんだよ」

「はあ?監視なんてしてないし。あんたの行動がうざいから言ってんの。もうそんなことが言いたいんじゃなく、二人とも、初めての休暇で変になったって言いたいの」


 タタはカラカラをにらんだ。


「人のことばっか、ガーガー言ってんじゃねえよ」

「だって、そうじゃない。この1か月、二人ともどんどん変わっていって、このままどうなるんだろうって、私」


「うるせえ女。おめえだって、こんなにしつこい女じゃなかった気がするけど」

「しつこいって言われてもいいよ。言うこと、ちゃんと言うって決めたんだから」

「うぜえ!むかつく、やる気しねえ!」

「いい加減にして!不機嫌まき散らすの迷惑なんですけど!」


 タタとカラカラのヒートアップしていく言い合いを、シェイドは衝撃を持って見つめていた。

 それは、いつもの軽口ではなく、二人とも本心からのいら立ちであることが伝わってきた。


 二人を全然見ていない、と言われたこともショックだった。実際、見えていなかった。


 シェイドはいつも、大切な人に何か起こるとしたら、自分のせいではないかと恐れていた。

 この1か月、シェイドの心は明らかに、タタとカラカラから離れていた。

 この争いは、その報いではないのかと、シェイドの中の罪悪感が自動的に罪を引き寄せた。


「ごめん」


 謝罪の言葉がシェイドの口から滑り出た。それにタタが鋭く反応した。


「シェイドは関係ねえ!」

「タタ、俺は」

「おめえには何も関係ねえんだよ!これは俺のことだ!適当にごめんとか言ってんじゃねえ!上から見やがって。何でも知った顔しやがって!そういうとこがイラつくんだよ!」


 眉間にしわを寄せ、苦しげに口をつぐんだシェイドを見て、タタは歯を食いしばりガバッと立ち上がった。そのまま踵を返し、足を踏み鳴らして扉へ向かった。


「逃げるの!?仕事はどうすんのよ!」


 カラカラが立ち膝になって、タタの背中に激しく言葉をぶつけた。


「今日は無理だ!分かんねえのか、バーカ!てめえらで話してろ!」


 タタは振り返らずに、扉から出ていった。バタンッという強烈な音がした。


「何よ、もう!」


 カラカラは悔しそうな表情で、テーブルに視線を落とした。目にはうっすら涙が浮かんでいた。


「タタに一体何があった」


 シェイドは息苦しい思いでカラカラに尋ねた。


「分かんない。聞いても言わないんだもん」


 カラカラは、泣きそうな目で怒った風にシェイドを見た。


「シェイドに話したくても、シェイドはぼんやりしてた」


 シェイドの胸がずきんと痛んだ。


「シェイド、特別休暇の間、何考えてたの?」


 カラカラは責めるような口調になる自分を止められなかった。どうしても知りたかった。


 困惑したようにシェイドは両手で頭を抱えた。そのまま手をずらし、自分の両目を押さえた。

 やがて、大きくため息をつき、シェイドはその手を外して両膝を抱くように座った。


「夢を、見てた」

「夢?」

「うん」


 シェイドは膝の上に頭を寝かせるようにのせて、隣のカラカラを見た。

 カラカラは、シェイドが寂しそうな顔をしているので、どきっとした。


「夢を見てた。俺が、オウド地区の人間じゃなくて、普通に親がいて、もしかしたら学校とか行ってて、帰りに友達と遊んだりして。そんな生活なら、俺はどうしてるんだろうって。つまんない夢見てた」


「休暇中ずっと?」

「うん。あるわけないのに、気づいたらそんなつまんない夢に、夢中になってた」

「それだけ?」

「うん。それだけ。くだらない。仕事休みになったら俺、現実が見えなくなったんだ」


 シェイドは顔を膝にふせた。カラカラは、少し悪いことをした気持ちになった。


「苦しんでるタタとカラカラが見えてなかったなんて」


 シェイドの苦痛に満ちた声は、カラカラの心をみるみる軽くしていった。

 シェイドは変わらず、チームのことを一番に考えてくれていると思えた。もう十分だった。


「ガーガー言って、ごめんなさい」

「カラカラは悪くない」


 顔を上げてシェイドは即座に言った。カラカラの心に喜びが湧いた。


「タタのこと、私、ちょっと思いついたことがあるから、行ってくる」


 カラカラはパッと立ちあがり、扉へ向かった。


「カラカラ?」

「仕事の話は、明日、3人でしよう」


 シェイドの返事も聞かず、カラカラは部屋を飛び出したのだった。









 カラカラは、7階の705号室へ向かった。階段を上がって、アネモネの部屋と逆方向に廊下を進んだ先の部屋だった。


 ベルを押すと少し間があってからドアが開き、アニヤが顔を出した。

 シャワーを浴びたばかりのようで、濡れた天然パーマが伸びて、少し印象が違っていた。

 その上、下はハーフパンツをはいているが、上半身裸でバスタオルを首からひっかけただけの格好だった。


 カラカラは、真っ赤になって頭を下げた。


「ごめんなさい!こんな時に。また来ます!」

「いや、いいよ、今で。どうした?」


 いつもと同じのんびりした声だった。カラカラは顔を上げることができず、赤い顔でうつむいたまま、早口で用件を伝えた。


「ありがとうございます。あの、実は、タタのことです。タタの様子が変なんです。最近ずっとです。私にもシェイドにも、訳を言ってくれません。それであの」


 カラカラは顔を上げないと失礼だと思い、アニヤを見た。

 濡れ髪をタオルでこすりながら聞いているアニヤと目が合った。

 やはり、いつもと違う印象のアニヤがそこにいて、一気に緊張が高まり、カラカラは顔をふせた。


「今までなかったんです。こんなにタタがずっと怒ってて、私たちを避けてて、部屋に帰って来ないなんて、初めてです。特別休暇が終わって、今日から仕事の話をするはずだったのに、タタは怒って、出て行っちゃいました」


 カラカラは胸の前で手を組みながら、緊張のあまり震える声で続けた。


「タタに何かあったんです。たぶん、誰にも言えないんだと思うんです。怒ってるから、こっちはむかつくけど、あれ、たぶん、タタがピンチなんだと思うんです。今までにないピンチで、このままだとやばいと思うんです」


 カラカラの発言の隙間で、わしわしという髪をふく音がしていた。

 カラカラは、アニヤの反応を知るために顔を上げたかったが、やはりできなかった。


「それで、あの、アニヤさんに頼むしかないって思って。お忙しいのに、よくないって思ったんですが、他にどうしていいか分かりません。タタは、アニヤさんになら、何があったか言えると思うんです。それで、タタとお話してもらえないかと思って」

「いいよ」


 驚くほどあっさりとアニヤは言った。


 カラカラは、びっくりして顔を上げた。また、アニヤと目が合った。すぐに恥ずかしくなって目を逸らした。アニヤの目は優しかった。


「カラカラに頼まれごとするの初めてだ」

「すみません!ご迷惑はかけたくないんですが」

「タタのためでしょ」

「はい」

「できるだけ今日中にタタをつかまえて、話してみるよ」

「ありがとうございます!では失礼します」


 顔を伏せたまま、カラカラは深くお辞儀をした。そして、そのまま回れ右をして、もと来た廊下を帰っていった。





 アニヤは、カラカラを見送ると、部屋の扉を閉めた。

 玄関から続く廊下を歩きながら、リビングに声をかけた。


「聞こえた?」


 リビングから声が返ってきた。


「聞こえた」


 アニヤはモノトーンを基調としたリビングに入り、黒いソファに座るアネモネに微笑みかけた。


「あそこのチームが、がたつくのは初めてだ」

「そうだね。やっぱり、いろいろあるよ」


 アネモネは微笑み返しながら言った。

 アニヤは、アネモネの向かいのソファに腰かけ、背もたれにゆったりともたれかかった。


「シェイドじゃなく、カラカラが頑張ってる」

「教育係は私だから。相手を選んで、助けてって言える女の子に育ったでしょ」

「お、そうきたか。俺も教育係ですが」


 アニヤは黒いクッションを向かいのアネモネに投げた。キャッと笑って、アネモネはクッションをキャッチした。


「タタをよろしく。私じゃたぶん、だめだから」

「男は見栄っ張りだからね。俺が締め上げて吐かせる」

「優しく」

「優しく締め上げる」


 アニヤは、背もたれに肘をついて、こめかみを支えた。クッションを抱えるアネモネを、斜めの姿勢から目を細めて見た。


「アネモネのことも締め上げたい」


 一拍、間があった。

 フッと笑って、アネモネは言った。


「優しく」


 アニヤは、こめかみを支える手のひらで、自分の髪をぎゅっと握った。


「無理。きっと止まらない」


 アネモネは困ったように、小首を傾げた。

 アニヤはゆっくり立ちあがった。


 二人はじっと見つめ合った。


 アネモネのクッションを抱く腕に、力がこもった。

 それを見て、アニヤは深く呼吸をした。


「タタを、探さないと」


 アニヤは静かに視線を外し、寝室へ着替えに向かった。

 アネモネの体から、力が抜けた。


 アネモネは、ここにはいないカラカラに、やっぱりいろいろあるよね、と心の中で話しかけたのだった。










 すり鉢広場と呼ばれる遊び場があった。

 土手に囲まれた広場で、整地もされていない草も生え放題、小石もごろごろした場所であった。


 近所の子どもたちにとっては遊ぶのに適当な広場で、金庫バアの組織の子どもたちもしばしば訪れていた。

 今日も10人近い子どもたちが、サッカーをして遊んでいた。





 タタは、広場を見下ろす土手で体育座りをしていた。

 いつもなら広場で自分も遊んでいるところだ。

 しかし、今日はそんな気になれなかった。とはいえ、大した行くあてもなく、離れた土手に座って、見るともなしに、広場に視線を投げていたのだった。


 よく晴れた日だった。

 汗ばむ陽気の中、歓声を上げて走りまわる仲間たちを妬ましく思った。

 タタの内側はイライラしてモヤモヤする、言葉にできない不快でいっぱいだった。逃れようのない感触が苦しくてたまらなかった。


 ブレンダにふられた日から、シェイドやカラカラとなるべく顔を合わせないようにしてきた。


 時間も過ぎ、友達とはしゃいだりして、心は少しずつ落ちついたように感じていた。

 だが、休暇の終わりが近づき、仕事が始まることを意識すると、心はざわざわと騒いだ。


 そして、今日という日になり、実際にチームで集まると、もうだめだった。


 こんなに長く、強い負の感情を引きずったことはなかった。それ自体が非常にかっこ悪い執念深さと思えて、またタタを傷つけた。


「くそ」


 苦々しい思いでつぶやいて、タタは背中を倒した。


 タタは足を伸ばし、右腕を目の上にのせて目を閉じた。

 下から土手の熱さと、上から太陽の熱を感じた。耳には熱気あふれる友達の声が聞こえた。


 なんもかんも焼かれちまえとタタは思った。


 歯を食いしばり、眉間にしわがより、左手はつかめる限りの草をブチブチと引きちぎる強さでつかんでいた。


 タタは苦しくて身動きが取れなくなった。


 どれだけそうしていただろうか。


 急に頭上から、ザッザッと草と砂利をかきわけて歩いてくる音がした。おや、と思う間もなく、目を覆って横になるタタの右にきて、とんと腰を下ろす気配がした。


 タタは右腕の下で眉間のしわを深くした。

 サッカーをしていた友達の誰かが来たのだと思った。


「消えろよ。俺は一人でいてえんだ」


 タタは相手を確認するのも億劫で、目を閉じたままそう言った。

 隣は立ち去る様子もなく、今度はタタと同じように寝転ぶ気配がした。

 タタの怒りに容易に火がついた。


「てめえ」


 タタは右腕を目の上からのけて、相手を確認しようとした。

 そのはずだった。


「うわっ!」


 何が起こったのかよく分からなかった。

 あれよあれよという間に、タタの右腕は捕えられ、体は豪快にひっくり返された。


「なに?なに?あ、いてててて!」


 右腕を背中にねじあげられていた。鼻先に土と草の匂いがした。


「誰だ!何しやがる!」


 あっという間にねじ伏せられた今の状態の訳が分からず、タタは混乱しながら必死に問いかけた。


「タタ、誰に向かって消えろって?」


 タタの頭上から、のんびりした聞きなれた声が降ってきた。


「え?え?なに?今の声、ええ!アニヤさん?」

「うん」


 タタから血の気が引いた。


「すみません!俺、知らなくて、間違えて、まさかアニヤさんが、すみませんでした!」


 タタはうつぶせに押さえつけられた姿勢ながら、懸命に顔を横に向け、アニヤに届くようにと血相を変えて謝罪した。


「反省してる?」

「はい!」

「悪かったと思ってる?」

「はい!」

「俺の言うこと聞く?」

「はい!」


 アニヤの問いに必死に返事をすると、タタを押さえつけていた力が緩んだ。タタは慌てて体勢を立て直した。アニヤののどかな笑顔に迎えられた。


「タタ、斜めの土手で正座は無理だから。普通に」


 ビシッと正座しようとしてぐらつくタタに、アニヤは笑いを含んだ声で言った。


「すみません。まさか、アニヤさんだとは思わなくて。とんでもない失礼なこと」


 ジンジンする右腕を感じながら、タタはできるだけ背筋を伸ばして頭を下げた。


「いいの、いいの。俺の言うこと、聞くんでしょ?」

「はい!」


 土手で張り上げられたタタの声に気づいて、サッカーをしていた数人が足を止め、タタとアニヤのほうを見上げていた。

 タタは見られていることに気づき、恥ずかしい気持ちになった。


 アニヤは彼らににこやかに手を振った。サッカーをしていた子どもたちは、慌てて次々とアニヤにおじぎをした。

 おじぎを終えても様子を窺っている数名に、タタは苦い顔でシッシッと追い払うような手つきをした。


 広場の皆がサッカーに戻ると、アニヤは言った。


「タタと話がしたくて探してたんだ」

「え?俺?」


 初めてのことで、タタは驚いた。アニヤとわざわざ話すことなど、まったく心当たりがなかった。


「なんの話っすか?」

「タタさあ、最近、何かあった?」

「え?」


 タタは、何を聞かれているのかよく分からなかった。困っていることがアニヤにも伝わった。


「自分のことだ。タタの知らないことを聞いているんじゃない。タタ自身のことだ」


 タタは目を丸くした。


「俺のことっすか?」

「そう。ずいぶん、イラついてるみたいだけど、何があったわけ?」


 タタの表情がこわばった。


 何を聞かれているのかが分かった。しかし、タタは、すぐに言葉が出てこなかった。

言いたくない意地と、適当にごまかしたい気まずさと、そうはいっても聞いているのが他ならぬアニヤであるということと、さまざまな思いが頭をよぎった。


 全身を固くして口を閉ざしたタタを見て、アニヤは声のトーンを落とした。


「言えよ。俺の言うこと、聞くんだろ?」


 ややまなじりの下がったアニヤの目は、笑みを消すと、射るような迫力をまとう。タタは、恐ろしくて顔を上げることができなかった。


「タタ、聞こえてんの?」


 タタは、体中から冷や汗がにじみ出すのを感じた。どうしようという問いが渦巻いた。


「タタ、まさか、俺に、質問を、繰り返させる気か?」


 逆らえるはずもなかった。どうしようという迷い自体が畏怖の前に吹き飛んだ。


「女にふられました」


 タタの頭は真っ白になり、気づくと口から言葉がこぼれていた。だが、そこから先、どう言っていいのか分からなくなった。

 また黙ってしまったタタに、アニヤの冷えた声が落ちてきた。


「顔上げろ」


 考えるよりも体が指示に応じた。

 顔を上げた先で、アニヤの鋭い視線がタタを貫いた。背筋が震えた。アニヤは、タタを視線で射抜いたまま、短く言った。


「話せ」


 思考停止したままのタタの目から、なぜか涙が出てきた。それは、次々出て止まらなかった。


「女が、シェイドを好きだと」


 タタの言葉はうまく出なかったが、涙は滝のように流れ落ちた。


「1年、一緒にいた俺より、ろくに知りもしねえシェイドを好きだと」


 アニヤは黙って聞いていた。


 タタは、勝手に涙が出て、勝手に口がしゃべっているような感じがした。頭は真っ白なのに、胸には激するような渦巻くものがあった。


「組織の奴ら、俺は、シェイドのおまけだって。シェイドの言いなりで、いてもいなくても同じだって」


 息が苦しくなってきて、鼻をすすりあげた。泣き声になり、のどの奥が引きつった。


「俺、かっこ悪すぎて。分かってたけど、シェイドに勝てることねえし」


 声も体も震えた。おまけに声はひっくり返った。タタにはもはや制御不能だった。


「あんな奴がいるから、俺、みじめになるばっかで。俺、だせえと思っても、シェイドがずるいって、どうしてもそう思って」


 アニヤは頬杖をついて、うながすように軽く顎を上げた。タタは吐き出すように続けた。


「俺、そんな自分も嫌で、小せえって思うのに、くそ、何で俺、シェイドじゃねえんだろう。いや、あんな奴、この世から消えてくれ。見てるだけでムカつく。目の前から消えてほしい。いや、でも、違うんだ。本当は、違うんだ。もう、訳わかんね。俺、シェイドのことは大事なんです」


 タタは混乱のまま、あふれ出るままに、言葉を連ねた。


 それから、女への恨み事とシェイドへの嫉妬と羨望と愛情、自己否定と自己卑下が、タタの口からは繰り返された。

 ループするそれらの言葉に、アニヤはしばらく黙ってつき合った。


 やがて、大粒の涙が引き、タタの勢いもおさまってきた。


「すみません、すみません」


 その頃には、タタは半ば放心状態であった。ただアニヤに申し訳ない気持ちでいっぱいになり、なぜか分からないままに謝っていた。


 急にアニヤが立ち上がった。


「行くぞ」


 タタは、頭がついていかなかった。


「え、どこに」


 アニヤは伸びをして、体をほぐすように左右に振った。それから、体についた砂埃と草を払って、タタに言った。


「ついて来い」


 振り返らずに先を行くアニヤの後を、タタは急いで追いかけた。










 連れられて行ったのは、人気のない倉庫街だった。


 以前、好景気だった頃、安く保管できる場所として、ミドリ地区の物資が大量に持ち込まれていた時期があった。

 景気後退とともに、倉庫街もさびれた。近隣に何があるわけでもなく、おのずと人の寄りつかない場所になっていた。


 倉庫と倉庫に挟まれた、ごろごろと小石の転がる空き地で、アニヤは足を止めた。


「ア二ヤさん、ここは」


 振り返ったアニヤは、凍てつく瞳でタタを見た。タタの足が震えた。

 急にアニヤは手を伸ばし、タタの襟首をつかみ上げた。


「うぐっ」


 タタの呆けていた頭は混乱した。何かしらアニヤの怒りを買ったと思った。

 アニヤは、タタに顔を近づけて、ささやくように言った。


「俺が相手になってやろう」


 言うや否や、タタは後方に押し投げられた。

 ズザッと音がして、タタは地面に落下した。とっさに受け身はとったが、荒れ地に擦れて、右腕にすり傷ができた。


 タタは驚きのまま、アニヤを見上げた。

 アニヤは、腕を回したり、首を鳴らしたり、ウォーミングアップしながら、タタに近づき、見下ろしてきた。


「痛いか?」


 アニヤは、足をしならせて、タタの尻を強く横蹴りした。


「ぐわっ!」


 容赦のない蹴りに、激痛が走り、タタは地面を転がった。


「怒れよ」


 アニヤは無情に追い上げて、寝転がるタタの顎を右手でつぶすようにつかんだ。


「タタを踏みにじった女にも、うるさく言う組織の奴らにも、シェイドという存在にも、ちゃんと怒れ」


 タタの顔は地面に投げつけられた。こめかみをしたたか打ちつけた。


「痛いか?痛いなら怒れ。何やってんだ。来いよ」


 タタは右腕をつかみ上げられ、激しく頬を張られた。


「まだ足りないか?」


 アニヤは連続して激しくタタの両頬をぶった。そして、タタの体を放り投げた。タタはゴロゴロと転がった。唇が切れて血が流れた。


「俺は」

「何だ」

「俺はただ、悔しくて」


 上半身を起こしたタタを、アニヤは蹴りつけた。タタは右腕でガードした。かいなく体はかしいだ。


「悔しくて、ふぬけてたのか?」

「違います!俺は」


 よろよろと立ちあがったタタに、アニヤは拳をみまった。


「タタはシェイドか?シェイドなのに、シェイドとして扱ってもらえないから気に入らないのか?」




「俺はシェイドじゃない!」




 タタの胸で何かがはじけた。アニヤの拳を両腕で防いだ。


「じゃあ、誰だ」




「俺はタタだ!」





 体中の痛みを引きずりながら、タタは初めてアニヤに殴りかかった。アニヤはひらりとかわした。


「俺はタタだ!ふざけんな!俺はタタだ!」


 タタはすぐに体勢を立て直し、アニヤに拳を繰り出した。アニヤはすべてよけて、簡単にタタの顔を殴りつけた。タタは再び地面に転がった。


「怒れ、タタ。タタを見ようともしない奴らを許すな。恐れるな」

「うおおおお!」


 タタは、体中を駆けめぐる衝動のままに、アニヤに向かっていった。再び涙があふれ出ていた。


「ちくしょう!ふざけんな!ふざけんな、てめえら!死ね!死ね!」


 何度もアニヤに打ちのめされた。それでもタタは向かっていった。服をつかんで投げ飛ばされ、頭がくらくらした。だが、まだ立ちあがった。


「俺はタタだ!死ぬもんか!てめえらに何が分かる!」


 体中がきしんで痛みを訴えていた。息がきれて、声を出すのも苦しかった。

 アニヤは大きな影のように何度も迫ってきた。タタはただひたすら影に立ち向かった。


「うわああああ!馬鹿にすんな!てめえらがクソなんだ!俺は生きてここにいるんだ!」


 足がガクガクしても、四つん這いになり腕で支えて、タタは影に向かって行った。

 唇の両端が切れ、鼻血も出た。拳がとんできて、瞼の上の方が切れ、そこからも出血した。

 涙は干上がり、激しく呼吸を繰り返す口の中は、渇ききっていた。


「はああああ!あああああ!」


 言葉にならない叫びとともに、タタは何度も影に殴りかかった。何度も殴り返され、蹴られ、地に叩きつけられた。


 投げ飛ばされたのも何度目か、もはや分からないが、とうとうタタは身動きが取れなくなった。息が乱れ、疲れきって、立ちあがることができなかった。


「まだだ。こんなもんじゃないだろう。来いよ」


 影の声に、タタは無理だと思った。指一本でさえ、動かすことがつらかった。


「タタの怒りはこの程度か?これがタタの限界なのか?」


 タタの意思が動いた。ジャリッと地面をつかんだ。


「何もできないとあきらめて、うじうじ腐ってだせえまま馬鹿にされて終わるのか」


 真っ白なまま衝動に動かされるのではなく、タタは強固な意志を持って膝を立てた。体が内側からギシギシと音を立てた。体中がでたらめに痛んだ。何よりも息が苦しかった。もう声はでなかった。


 タタは終われないと思った。


 よたよたとタタは影につかみかかった。ブンッと振り回され、投げられた。受け身も取れず、地面に投げ出された。


 それでもタタは這うように影に向かった。死んでもいいと思いながら、同時に死んでたまるかと思っていた。


 それからタタは何度も放り投げられた。


 いつしか日が傾き、空き地を赤く染めていた。











 タタが意識を取り戻すと、そこは温かい背中の上だった。ぼんやりと、ここはどこだという思いにとらわれ、身じろぎした。


「ん、気がついたのか?」


 タタの変化を背中に感じ、アニヤが問いかけた。


 アニヤの声は、体を伝って肉体と骨に響くように聞こえた。タタが半目を開けて見ると、辺りは薄暗かった。

 遠くの空の山際が、かろうじてほんのりとピンクの夕焼け色を残していた。


「ダク先生のところに寄っていくから」


 それは、組織が懇意にしている診療所だった。

 そこはアジトから程近い場所にあった。

 ダクは、時間外でも対応し、場合によっては往診もした。知識が豊富でフットワークが軽い50代の医師は、組織の子どもたちに頼りにされていた。

 まるで組織の医務室だった。


「すみません」


 ふり絞ったタタの声はかすれていた。

 ちゃんとアニヤに届いたか心配になったが、気にするなという返事が背中から響いてきて、自分の声も同じようにアニヤに伝わるのだと安心した。


 体のあちこちが痛んだ。

 また、とても疲れているのを感じた。

 アニヤに背負われていると認識すると、下りて自分で歩かなければと反射的に思ったが、気だるい体は言うことを聞かなかった。


「気分はどう?」


 アニヤの声は、体を通して聞くと、いつも以上にのどかで安心できるものだった。


「体がいてえ。動きません。最悪っす」


 ゆっくりとタタが言うと、くくくっと笑う音が伝わってきた。


 ザッザッという規則的な足音だけが、しばらく続いた。


 次第に、虫の声や、遠くからは何か機械の唸る音、車の音、人のざわめきなどが、タタの耳に聞こえてきた。少しずつ、覚醒してきたようであった。


 タタは突然に、自分はうんと小さな頃、こうして誰かに背負われて歩いたことがあると思った。

こんなに無防備に自分を他人に預けきることは、絶えてなかった。遠い記憶が揺らされ、タタは小さく震えた。


「どうした?」

「すみません。歩けなくて」


 アニヤは再び笑った。


「ぼこったの、俺だし」


 背負われている理由を引き受けてもらえたようで、タタは単純にほっとした。


「気分はどう?」


 アニヤに再び尋ねられた。


「気分。はい。すみません。すっきりしました」

「ああ、そう」


 ほんのりと笑いのにじんだアニヤの声が、温かく沁みた。

 口から勝手に言葉が飛び出した感じであったが、確かにすっきりしていた。

 言った後に振り返ってみると、すっきりでもあったが、ほっとした方が大きいような気がした。


 あれほど長い間タタを苦しめた黒い渦が、体の中に感じられなかった。

 代わりにずいぶん、幼く無防備な自分がむき出しになっているような気がした。


「タタ、うちのチームさ」

「はい」

「もともと3人だったんだよね。でも、一人は死んだ」

「はい」


 タタは、急に何の話だろうと思った。

 エースチームの3人目についての話題は、暗黙のうちにタブーとされていた。


 アニヤは、歩くペースを変えることなく、緩やかに話を続けた。


「死んだのは、うちのリーダーをしていた男だった」


 タタは、思わず目を丸くした。リーダーはずっとアニヤだと思っていた。


「リーダーはすごい男だった。頭が抜群によくて、ケンカも強え。一人で何でもできる。アネモネはチームでただ一人の女。さて、俺は何だろうってよく思ってた」


 タタには衝撃だった。頭がよくてケンカが強くて一人で何でもできるのは、まさしくアニヤのイメージだった。


「嘘だろ」


 思わずタタの口からこぼれていた。


「嘘って。俺は正直だよ。俺が一生懸命何か考えても、そんなの、リーダーは一瞬で飛び越えた次元で答えを出しててさ。頼もしいと思ってたんだけど。一緒にいればいるほど、男として自分は足りていない、ダメな奴って気持ちにさせられてた」


 タタは絶句した。すべてで抜きん出ているエースチームのアニヤが、自分と同じ気持ちを抱えていたとは。何ということだろうと思い、耳をそばだてた。


「そんな中で、死んだ」


 タタはごくりとつばをのんだ。


「死ねばいいって思ったろうか。こんなに何でもできる奴と仕事すんの、もう嫌だと何度も思った。でも、俺は死ねと思ったろうか。思ったのかもしれない。リーダーは本当に死んでしまった。もうどこにもいない」


 アニヤの背中が膨れ、ふーっと吐きだされる息とともにしぼんでいった。


「すげえいろいろ考えた。いろいろあった。自分の情けなさにあきれ果て過ぎて、死ぬかと思った」


 タタはぎょっとしたが、アニヤの話ぶりは、穏やかだった。


「まあ、いろいろ思ったけど、あんなに頭のいい奴が考えてやったことの結果が、結局死ぬことだったんだなってところに、最後は行き着いた」


 アニヤは少し黙った。

 やがてまた口を開いた。


「できのいい奴の判断は、間違いが少ないのかもしれない。考えなしの奴より、だいぶマシなんだろう。でも、これしか見えてない俺が生きていて、あんなにいろんなものが見えていたリーダーが死んだ。そうか、そういうものなのかと思った」


 変わらない何気ない口調だった。


「俺に見えてる道を、俺が考えて、俺が進む。明日の保証は誰にもない。リーダーみたいになりたいんじゃない。俺として生きたいんだ」


 今日はもう尽きたと思っていた涙が、じんわりとタタの目に浮かんだ。

 何だかよく分からなかった。

 ただ真正面から自分の存在を認められた気がした。

 タタのむき出しの柔らかい心に、アニヤの体温はひたすら心地よかった。


 気づくとタタは、幼子のようにしゃくりあげていた。


「どうした?」

「はい。あちこち痛いっす」


 そうか、とアニヤは笑った。


「おりゃ!」

「いってえ!」


 アニヤが大雑把にタタの体を揺すり上げて、背中に抱え直すと、振動でタタの全身が痛みを訴えた。


「痛いっす」

「うん。もうすぐダク先生んとこ着くよ」


 タタは、しゃくりあげながら、温かさと痛みに浸った。そのうち、信じられないほどの眠気がやってきて、タタは意識を手離していた。





 ややあって、少し意識が浮上した。うっすらとした視界に、小柄で筋肉質なダクが見えた。



 どの打撃も急所は外れてる、骨も異常はない、こんなにやられているのに器用なもんだ、お前か、アニヤ、ヘラヘラ笑って俺の仕事を増やすな。



 遠くから、歯切れのよいダクの声が聞こえた。

 再びタタの意識は沈んだ。とても眠かった。











 タタは眠ったまま、アジトの503号室に運ばれた。

 シェイドとカラカラが迎えた。


 全身傷とアザだらけのタタに、二人とも目をむいた。

 アニヤはのどかな様子で話した。


「男同士の勝負してきた。タタは自分で乗り越えた」


 カラカラは、わっと泣いた。アニヤが、タタをピンチの淵から引っ張り上げてくれたのだと、はっきり分かった。


「よかった、ありがとうございます」


 泣き声で言うカラカラの頭を、アニヤは数回なでた。


 シェイドは戸惑った表情でいたが、カラカラの礼を聞き、次第に何かを理解した。そうすると、安堵と苦痛とが入り混じった、何とも不安な表情になっていった。


「ありがとうございます。俺は何も分かってなくて、タタのこと何もできなくて」


 言い訳じみていると思い、シェイドは唇を噛んで、それ以上の言葉を飲み込んだ。


 アニヤは、カラカラをなでていた手を伸ばし、シェイドの頬をつまんだ。


「タタは自分で自分の荷物、処理したんだ。シェイドは、てめえの荷物のこと考えてろ」


 カラカラはシェイドを見て泣き笑いした。


「変な顔」

「えー」


 シェイドはアニヤに片頬をつままれたまま、何とも情けない顔をした。


 アニヤは、力を入れて、シェイドの頬をつねった。


「あいててて!」

「カラカラをあんまり泣かせるな」


 アニヤは手を放し、シェイドの頭を一度ポンと叩いた。

 アニヤが去ると、カラカラは急いで救急箱を用意した。


 シェイドは、ジンジンする頬に手を当て、ぼんやりとタタを見下ろした。


 タタは、規則的な寝息を立て、安心しきった穏やかな表情で眠っていた。




 特別休暇が終わった初日は、大きく揺れながらも、ささやかな波紋だけを残すにとどまり、暮れていったのだった。


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