ハシマの情熱
金曜日の3時過ぎ、フロウはすでに勉強を終えて帰り、客も途切れた裏通りの古書店で、ハシマは手紙を読んでいた。
手紙は、この時期例年やって来る。ハシマが6才から18才まで在籍し卒業した王立魔術学院の学院祭通知であった。
ハシマは胸に手を当ててみた。
以前ほど、手紙に反応して疼くことはないようだった。そのことに安堵して、ほうっとため息をついた。
ハシマは24才になっていた。
卒業後すぐに、隠居する老白魔術師から、今の店を譲り受けた。
学院がハクキン地区にあることもあって、多くの卒業生は、そのままハクキン地区で生活した。
シッコク地区に行く者や外国に行く者もあった。無論、ミドリ地区に住む者もいたのだが、ハシマほどの才能で、なぜそんな地味な所へ引っ込むのかと、進路を決めた時には周囲から大層驚かれたものだった。
ハシマはあらゆる刺激に疲れ切っていた。
王立魔術学院は、表向きの厳しい戒律の裏で、さまざまな快、不快を探究する自由があった。
生命につながる人体と精神を探ることは、心身に作用する魔術を高みに導くとして、暗黙のうちに推奨されていた。
生徒たちは多くの薬物を摂取した。また、お互いの体をまさぐり合った。身体感覚も鋭敏になったが、感情もむき出しになった。嫉妬、憎悪、執着、その他にもいろいろな激情が入り乱れた。
ハシマは、17才になるころには、もう一通りのことは体験し、うんざりする心境に至っていた。
しかし、教師からも一目置かれる器量を持っていたハシマを、周囲が放っておかなかった。
卒業までの1、2年間、恋情を孕んだ独占欲と思惑と裏切りの波に翻弄され続けた。
ハシマがミドリ地区の今の店を進路として決めた時、ハシマの両親も反対した。
ハクキン地区の富豪の三男として生まれたハシマは、覇気がないことを叱咤されながら育ってきた。
5才で白魔術の才能が発見され、両親は、一族から魔術師が出たことを大喜びした。早速、6才で王立魔術学院に入学させた。
その頃から寮生活になったのだが、もっと雄々しくあれとせかされずにすむことに、ハシマはほっとしたものだった。
ハシマは裏通りの古書店で生きていくことを譲らなかった。両親は、お前は全然成長していないと嘆いた。以来、ほとんど両親との交流はなくなった。
すがりついてくる者たちを振り切って、ハシマはこの地でやっと心身の平安を得た。誰にも感情的に巻き込まれないように距離をとり、淡々と過ごした。単純な日常生活の繰り返しが続いた。
まるで老人のような生活だった。
そうして1年が経つ頃、小さな女の子が店にやってきた。
店頭に並べていた妖精の本の表紙に誘われたようだった。熱心に挿絵を見ていた。
貴重な本なので、破損したら厄介だなとハシマは思った。女の子は丁寧に本を扱い、一通り見ると、本を閉じて帰って行った。
やれやれ何もなくてよかったと、すぐに女の子のことを忘れた。
しかし、数日後、再び女の子がやってきた。おずおずと飴色のガラス戸を開き、店に入ってきた。そして、妖精の本を開き真剣に見始めた。
売り物だからと声をかけることも面倒だった。目に余ることをしたら声をかけようと考え、ハシマは女の子を放っておいた。
女の子は、数日おきに古書店に通ってくるようになった。
ある時、居合わせた近所の客が、女の子のことをハシマに教えてくれた。
あれ、フロウがいる。遊ぶ友達がいないから、こんなところに。母親はマルタって言って水商売の女でね、母と子の二人暮らしでさ。
母親がだらしないから、近所の人たちは自分の家の子どもとあんまり遊ばせたくなくて。きれいな子だし、わりときちんとしてるんだけど、なんだかね。
そう話した客は、タツという名の初老の女で、フロウとマルタの住むアパートメントの大家だった。
あんまり入り浸らないように、後でフロウに注意しておくよ、とタツは請け合った。
それから、フロウが来店する期間が空くようになった。
週に1回程度の来店ペースで3か月が経ち、フロウに見なれてくると、何となくハシマの気持ちが動いた。
友達もおらず、こんな地味な店に通い詰め、決まった何冊かの本の挿絵を繰り返し黙って見ていくフロウは、現世から浮き上がっている存在に思えた。
どこにも行けず漂っている自分と重なり、ハシマは気まぐれを起こしてフロウに話しかけた。
「その本、面白い?」
ハシマが驚くほど、フロウの体はビクッと大きく跳ねた。
栗色のつぶらな瞳がキラキラと光りを宿してハシマを見た。戸惑いと怯えと、しかしながら関心を向けられた喜びも、その瞳には映し出されていた。
なんて雄弁な瞳なのだろうと、ハシマは感心した。
フロウは真っ赤になって、口をぽかんと開けていた。ハシマはカウンターから出て、フロウの傍にしゃがんだ。
「どの絵が好き?」
フロウはうろたえながら、言われた意味を理解すると、ページをペラペラめくり始めた。後半のページにある挿絵を示し、真っ赤な顔をハシマに向けた。
「これ?」
フロウはこくりと頷いた。
豊満な体つきで、豊かな長い髪を持つ女神の絵だった。ハシマは意外に感じた。もっと少女の好みそうな、華奢で可憐な妖精の絵もたくさん載っていた。
ハシマの気持ちを感じたのか、フロウは説明するように慌てて言った。
「あの、きれいだから」
もじもじしながら、一生懸命伝えようとするフロウを、しばしハシマは見つめた。
これは、愛らしい。
ハシマは率直にそう感じた。
「そうですか。きれいだからですか」
ハシマはそう応じて、立ち上がり、カウンターへ戻った。フロウも赤くなって、どぎまぎしながら、本を見続けた。
その日のやりとりはそれだけだった。
関わったことで、フロウがグイグイ近づいてきたらどうしようと、ハシマは少し心配した。
しかし、その後も、フロウの様子は変わらなかった。すると、ハシマはほっとして、むしろフロウに近づくことができた。
フロウの距離感は、ハシマにとって絶妙だった。
ハシマが許した分だけ、フロウは近寄ってきた。ハシマが引くと、フロウはすぐに応じた。
ハシマは本当に安心して、フロウと関わることができた。
1年が過ぎ、ハシマは随分懐深くまでフロウを招き入れるようになった。
フロウが、こらえきれない気持ちをぶつけてくることを許した。よしよしとなだめていると、温かな気持ちになった。
居住して2年になったので、地域のことも次第に分かってきた。
フロウの母マルタとも知り合った。フロウが女神の絵を気に入っていた訳を理解した。
人と積極的に関わることに煩わしさを感じていたはずのハシマだが、季節ごとに成長するフロウと接するうちに、フロウを気にかけ、何かと心配する気持ちが芽生えていた。
気がつくと、フロウに薬師になるための勉強を教えることを申し出ていた。
ハシマは自分を恐れた。
肉親ではないのだから、干渉しすぎてはいけない。面倒に巻き込まれないよう、密着し過ぎてはいけない。
フロウは、自分が許している範囲を鋭く見抜き、そこまでは飛びこんでくる。要は、自分の線の引き方だ。
自分自身を戒める言葉が、胸に多く響いた。
師弟という間柄で線を引くことを、ハシマは心に誓った。
フロウの存在によって、ハシマのすさんでいた心は徐々に変化してきていた。
フロウに教えるために、回復薬の基礎をハシマも1から学び直した。
学院時代には気づかなかった薬草の魅力に目を開かされた。種類による作用の違いや、調合の塩梅など、繊細で探究の余地が十分にあった。
教えをフロウが吸収していくことも、存外うれしいことだった。自分が与えた知識により変化していくフロウを見ていると、自分の影響力に責任を感じた。
昼食に手作り弁当を与えた。自分の作ったものをフロウが食べて血肉としていると思うと、勉強の教授と相まって、自分がフロウの何割かを作り上げている気がした。
学ぶことや探究することへの欲求も、人とかかわる喜びも、ハシマの中では葬り去られたものだった。フロウによって、ハシマの情熱は息を吹き返しつつあった。
ハシマがフロウに勉強を教えるようになってから、4年目に入っていた。
王立魔術学院の学院祭通知を屑かごに落とすと、ハシマは出かける準備を始めた。薬草がいくつかなくなりそうだった。アオウミ森へ採りに行くことに決めていた。
アオウミ森は、15分ほどで行ける手近な森であった。特別な薬草が種類豊富に採れるので、保護地域に指定されていた。
立ち入り制限があるのだが、白魔術師として魔術師協会に所属するハシマは、自由に薬草を採取することが許可されていた。
ハシマに店を譲った老魔術師は、アオウミ森が近いため、この地に店を構えたと話していた。実際、とても便利だった。
時計は3時20分を指していた。十分、夕方には帰宅できる時間だった。
黒色のゆったりした長袖Tシャツに、ベージュのカーゴパンツというラフな服装で、薬草を入れる黒いナイロントートバッグを肩にかけた。
ハシマが、透明で細身のブレスレットをした左手を掲げると、部屋の明かりが消えた。古書店の戸締りをして、ハシマは森に向かった。
いつも通りに森に着き、いつも通りに門番に挨拶した。慣れ親しんだ手順であった。
そこで急に、空が真っ暗になった。
ポツポツと水滴が落ちてきたと思ったら、すぐに轟々と雨が降り始めた。珍しいほどの大雨だった。
ハシマは門番の詰め所に招き入れられ、しばし、門番とおしゃべりをした。
門番は20代後半とおぼしき女性で、名前はケイトといった。
アオウミ森はニア国の役所が管理していた。多くの場合は年老いた男性門番が詰めているのだが、彼が休暇を取ると、同じ部署の誰かが代理を務める形になっていた。
ハシマは代理のケイトにこれまでも何度か会っていた。せいぜい挨拶程度で、きちんと話すのはこれが初めてだった。
何より、店以外で誰かと二人きり、特に年齢が近しい人と話すこと自体、学院を卒業してからないことだった。
色恋に限らず、自分に特別な関心を向けられることを恐れていた。親しくなりたいと近づいて来られることを避けてきた。
急な雨とはいえ、すんなり雨宿りに同意した自分に、ハシマは驚いていた。卒業して7年目、知らぬ間に、かたくなだった心が随分ほどけてきていたのだと実感した。
「ここは来る人も少ないから、時間がゆっくり流れるんですよ」
ケイトは話し相手ができてうれしかったようで、楽しげに話した。
肩に着くか着かないかくらいの黒髪を耳にかけるのが癖のようだった。特別な美人ではなかったが、笑顔が大きく、人当たりがさらっとしていて、気楽な魅力があった。
「私は小さい頃から画家になる夢があって、いつか放浪の旅に出るつもりなんです。今は、お金を貯めてる最中。旅に出ることを考えると、もうワクワクして止まらないんですよ」
門番の代理は一人の時間がたくさんあるから、ラッキーと思って、スケッチをしまくっているとケイトは話し、自分のスケッチブックをハシマに見せた。
森の動植物のスケッチだった。絵についてはよく分からないハシマであったが、上手だと感じた。
夢と聞き、ハシマの胸にも響くものがあった。このところハシマも、何かしようか、という漠とした思いが湧いてきていた。
年代の近い相手と普通に話せた上に、その話に刺激されて気持ちが動くことなど久しくないことだった。
激しい稲光がまたたいた。詰め所の窓から、ケイトは真剣なまなざしで見ていた。
「一瞬を描きたいんです。その時、その場で、私が見た一瞬を写し取りたいんです」
夢に向けた熱のこもった気配は、詰め所の小さな空間を温めた。その温度はハシマにも伝わった。
雨が上がった。
二人は詰所から出た。
「ぬかるんでますね。大丈夫ですか?あんまり足場の悪いところは今日は避けた方がいいかもしれません。でも、代理でここにいる私より、ハシマさんのほうが、森のことはよく分かっていますよね」
「ありがとう。気をつけます」
「また代理で来た時会えたら、私のスケッチ見てくださいね」
「ええ。きっとまた」
社交辞令ではなく、そう言えたことがハシマはうれしかった。
お金が貯まって知らぬ間に旅に行ってしまっているかもしれませんけどね、と言って、ケイトは笑った。
ハシマはケイトと別れ、目指す薬草が群生する場所に向けて進んで行った。
頭の中は、何かを始めようという思いが、沸々としていた。白魔術のことでもよい、薬のことでもよい、その他のことでもよい。探究好きな自分が、息を吹き返してくるのを感じた。
枯れ井戸の地の底から、少しずつ湧きあがって地表近くに溜まっていた水が、とうとう地面を割ってコポコポと湧き出てきたようであった。
ぬかるんだ道を歩く感触を、何だかいつも以上にリアルに感じた。濡れた木々や葉が、差し込む陽光に照らされる様子も、いつも以上の輝きをもって感じられた。
目的の場所へ着いた。
慣れた動作で必要な薬草を摘んでいった。指先に水滴が垂れてきた。水滴を払い、トートバッグにどんどん薬草を入れていった。
大地が緩んでいるため、根を深く張る植物も今日は簡単に引き抜くことができた。茎と葉のみ必要な植物で、繊維がしっかりしているものは、ハサミを使って切った。
慣れ親しんだ作業を、いつもより心もち楽しくこなした。
ハシマは作業を終え、手を洗うために湧水の出ている小さな岩場へ移動した。
岩清水で手を洗った。さっぱりして心地よかった。ハンドタオルで手を拭いた。
その時、ハシマは視界に不自然なものを感知した。
なんとなく何か違うと感じた。何かはまだ分からなかった。
一体、何に違和感をおぼえたのかと不思議に思い、ハンドタオルをバッグのポケットにしまい、辺りを見渡した。
そして、違和感の正体を見つけた。
湧水の岩場のやや後方にある薬草が、引きちぎられていた。この森に入ることを許されている人間は、植物を丁寧に採取するので、乱暴な痕跡は大変目立った。土がめくれあがってもいた。
薄緑がにじむ薄茶色の目を少し細め、ハシマはそこに近づいた。
手を伸ばし、飛び出した根を土に埋め直した。
視線を横に向けると、人の足跡がくっきりと刻まれていた。
ハシマは岩清水で再び手を洗い、人差し指を曲げて顎に当て、少し考えた。
どう見ても、今しがたの雨が上がった後の足跡だった。大きさや深さからは、子どもの足跡のように見えた。
先ほど、ケイトと話した中で、子どもが今日森を訪れたという話はなかった。ハシマは、本日5人目の常連さんだと言われた。大体決まった人が来るだけなので楽させてもらって、スケッチばかりしています、とケイトは舌を出していた。
森の中に、今、子どもが忍び込んでいる。ハシマはそう結論づけた。
さてどうしようかと思案した。
ほっといていいか。正直、自分にとっては、どうでもいいことだ。
いや、今後も貴重な資源が荒らされてはかなわない。どんな素姓の子どもだろう。ケイトに報告するべきか。
迷っていたハシマは、ふと思いついて上を見上げた。木の枝に数匹の鳥を認めた。
視線を落として自分の両手を見た。
「久しぶりですね」
思わず小さなつぶやきがこぼれた。
おぼえているだろうか、と訝りながら記憶を探った。店で扱う回復系以外の魔術は、使う機会もなかったし、使う気にもなれなかった。
そう、ハシマは今、魔術を使おうとしていた。
そろそろ何かしたい、という先ほどからの思いが背中を押した。
森に忍び込んでいる子どもを知るすべを自分は持っている。
今までのハシマであれば、面倒はごめんとばかり、見て見ぬふりをしていたかもしれない。だが今は、自分の持てる力を再び使ってみたいという気持ちが動き始めていた。
とはいえ、錆びついているかもしれない。ハシマは印を結び、集中を高めた。
杞憂だった。
6才から18才まで、さんざんやりつくした魔術は、7年の月日を経てさえ、その身に刻まれていた。
ハシマはそんな自分を幾分恐れながら、記憶から立ちあがってくる呪文を唱えた。
ピュルピュルと鳥の声が応じ、木の枝に止まっていたうちの一匹が、ハシマの頭上までやってきて、周りをくるくると回った。
ハシマが左腕を差し向けると、鳥はその腕に止まった。カラスほどの大きさの茶色い鳥だった。
ハシマは鳥と顔を見合せながら、更に呪文を唱えた。左手のブレスレットが輝きを増した。ハシマが目を閉じると、鳥が飛び立った。
いまや、鳥の視界がハシマの視界であった。
ハシマは鳥の目を通して、上空から森を見下ろすことができた。カラーではなく白黒の世界だが、十分に世界の輪郭を見ることができた。
色も質感も、ハシマの脳内で再構成され、知覚された。
ああ、そうだ、自分にはこの力があった、鳥の目にもなれるんだ、とハシマは感慨深く思っていた。
だが、あまり感じ入ってしまうと集中が途切れ、術が解けてしまう。注意深く、心を制御した。
普段まったく見ることのないアングルから森を見ていた。羽ばたくたびに視界が揺れた。しばし、目に映るその光景を楽しんだ。
それから、当初の目的に立ち返った。
足跡のあった湧水の岩場から、子どもの足で移動できそうな範囲までを探すことにした。
開けているところ以外は、上空から見ても人影は見えないかもしれない。だが、多少の物陰にいる程度ならば、人がいればその動きを察知できると考えた。
また、上空から探しても目標が見つけられないようであれば、今度は地を走る動物の目を借り、足跡を追ってみようか、とも考えた。
だが、案ずることもなく、鳥の目は、動く人影をとらえた。
湖のほとりにある草原地帯だった。視界を遮る木はなく、人影も一つではなくいくつか動いているため、目立っていた。上空から探したのは正解だった。
ハシマは鳥にシンクロしながら、進む方向を調整した。その姿を確認できるくらい、人影に近づくように高度を落とした。
羽ばたきによる視界の揺れを考え、飛びながら観察するよりも、どこかに止まろうと思った。
そして、草原を囲むように立っている木の枝に止まった。人影に対し、後ろ向きに止まってしまい、ヨチヨチと足を動かしながら、枝から落ちないように方向転換した。
やっと人影を、その姿が分かる位置で見下ろすことができた。
3人いた。
うち一人、髪の長い女の子を視認すると、ハシマはギョッとした。
うっかり、術が解けてしまいそうになった。
視界がぶれて、鳥とのシンクロが崩れ、鳥は翼を広げ飛び立とうとした。
ハシマは慌てて印を結び、集中を高めた。再び鳥とのシンクロが進み、鳥は翼を畳んだ。
今度は心を揺らさないように、ただじっと3人の様子を窺った。
やがて、一人の子どもがフッと顔を上げ、鳥を見た。
それを契機に、ハシマは術を解いた。
視界が歪み、それから真っ暗になった。鳥は自由になり、羽ばたいた。
ハシマは目を開けた。元の湧水の岩場に立っていた。水が湧き出して流れるサーッという音がしていた。
「ハア」
思わずため息が出た。
久しぶりの魔術だった。ごく軽い乗り物酔いのような感覚があった。しかし、他に大きな疲れや不快はなかった。
魔術自体は忘れていないことが分かった。しかし、それに伴う心身のコンディションの維持には、ブランクの影響が大きいことを感じた。
今回の魔術は、俗にスパイアイと呼ばれるものの一つだった。
何を見ても動揺せず、心を澄み切った水のように保つことが鉄則だった。
学院では、好奇心だけではなく、嫉妬や憎悪を元にして、しばしばこの術が使われた。心を揺らせば、術が解けてしまうだけではなく、トレースされ、術者を特定されてしまう危険に陥るのだった。
「まだまだですね」
思わずハシマはつぶやいていた。何を見ても平静を保つことを随分鍛錬してきたつもりだった。ところが、簡単に動揺してしまった。これは改善の余地があると思った。
久しぶりに魔術を使い、疲れや不快どころか、何か心身にみなぎるような力を感じてもいた。使わずにいた能力を活性化させたことを、全身が喜んでいるようだった。
魔術を使うと、学院での記憶がどうしても付随してくる。しかし、その衝撃はだいぶ緩和されているし、今の自分であれば、受け流すこともできそうだと思い、ハシマは心を強くした。
ハシマは、このタイミングで魔術を使う機会を得たことを幸運に思った。
それとは別に、ハシマには考えさせられることがあった。
フロウである。
間違いなくフロウだった。動揺したが、何とか立て直し、確かに確認した。
見たことのない二人の少年と遊んでいた。
ハシマは、人差し指を曲げ顎に当てた。湧水の岩場の後方にある、ちぎれた薬草を見た。
おそらく誰かが怪我をしたのだろう。手当てのために、慌てて薬草を採りに来て、急いでいたため乱暴に引きちぎって行ったのだろう。
3人の中では、この森のこの場所を確実に知っているフロウがやったこと、と考えるのが自然だ。
まったく、あれほど植物は丁寧に扱うようにと教えたのに。
ハシマの眉間にしわが寄った。ハシマは顎に当てていた手を開いて、右頬に添えた。
いやいや、そういう問題じゃなかった。
自分が教えた薬草の場所や知識を、男友達のために使うなんて。
そもそも、この森に男友達と遊ぶために忍び込むなんて。そんなことのためにフロウを森に連れてきたのではない。
ハシマは右手を自分の額に当てた。
そういう問題でもない気がする。
フロウは輝くような笑顔で、少年たちと遊んでいた。
このところ、フロウがハシマにベタベタと甘えることが減り、しっかりした表情になってきたのは、きっとあの少年たちと遊んでいたからなのだ。
ハシマは腕を組んだ。
手塩にかけたフロウに友達ができるのはうれしい。
幸せそうに笑っていることもうれしい。
とても仲がよさそうだった。
フロウはずっと同年代の友達に飢えていた。立ち入り禁止の森に侵入するなど、たいしたものだとさえ思う。
でも、なんで男友達なんだ。
なんで秘密にしていたんだ。
いつ、どうやって知り合ったんだろう。
そもそも、どこのどういう少年たちだ。
ハシマは思わず頭を振った。薄茶色の髪がサラサラと揺れた。
嫁にはやらない。
頭に浮かんだ考えに驚き、ハシマは目をしばたたいた。
何を考えているんだろう。違う。
大体、師弟関係で線を引いているのは自分の方だった。フロウは、ハシマを煩わせないように、余計なことを言わないのだ。
嫁うんぬんはマルタの領域で、ハシマは口を出す権利すらない。というか、発想が飛躍しすぎている。
明らかに、学院の過去の記憶よりも、フロウについて平静ではいられない自分を、ハシマは知った。
人からも学術の道からも遠ざかり、平和で安全でぬるま湯のような日々を過ごしてきた。だが、フロウと出会い、徐々に何かが変わってきていた。人に特別な関心を抱き、学術への探究心が目を覚まし始めていた。
今日は、ハシマにとって、とうとう掛け金が外れた日であった。
胸に迫る感情が、色を持って非常に鮮やかだった。喜びも苦しみも真実味を帯びて満ち溢れた。心地よいばかりではないし、戸惑うことも多かったが、どうやら受け入れる準備はできていたらしい。
ハシマは、魔術への情熱とフロウに対する複雑な思いを抱きながら、今この自分でやっていくことに異論はないと感じた。
傷つき、痛みも含みながら、大きな喜びもある現実世界へ、ハシマはようやく復帰したのだった。
それにしても、とハシマは再び顎に折り曲げた人差し指を添えた。
あの黒髪の少年は、鳥の目の気配に気づいたようだった。
ブランクがあり、動揺も隠しきれないハシマの視線ではあったが、通常、気づかれるわけもない気配であった。
黒髪の少年は振り返って、まっすぐにハシマの鳥を見た。とても勘の鋭い少年だ。
気に入らない、という気持ちが差し込んできて、ハシマはどきっとした。
それを言うなら、プラチナブロンドの少年だって十分に気に入らない、とまで自動的に思った。
多様な感情に翻弄されることも受け入れようと思った矢先だが、先が思いやられるとハシマは覚悟を新たにしたのだった。