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アネモネの話

 四つ辻の肉屋の件で、1か月の特別休暇を得たカラカラは、3週間を過ぎる頃から落ちつかない気持ちになっていた。


 今まで、仕事のことを考えずに過ごしたことはなかったし、シェイドやタタと離れて単独行動を長くすることもなかった。


 最初は、暇でいいね、と嫉妬の皮肉を言われることも簡単に受け流し、休みを謳歌していた。しかし、次第に、本当にこうしていていいのかと不安が膨らんできていた。


 カラカラの感じる不安には、シェイドとタタの変化の影響が大きかった。


 シェイドは休暇中アジトにいないことも多かった。どこに行っているのかは不明だが、帰ってきてぼんやりとしていることが増えた。


「どこ行ってきたの?」


 ある時カラカラは、そう問いかけてみた。ぼんやりとしたままカラカラに顔を向けたシェイドの目は、潤むような不思議な熱を宿していた。カラカラは思わず息をのんだ。

 シェイドの目から熱が引いてゆき、カラカラを認識したと思った時には、申し訳なさがにじんでいた。


「ごめん、もう一回言って?」


 今までになかったシェイドの様子に、カラカラはおののいた。ここで謝られたことに、なぜだか傷ついた。

 答えを聞くことが怖くなったので、シェイド、ボケっとし過ぎて口開いてるよ、という軽口でカラカラは逃げた。


 その後もシェイドの遠くを思うような風情は変わらなかった。

 シェイドはたまに自分の頬をピタピタ叩いていた。自分でも物思いを止めようとしているようであったが、しばらくすると再びぼんやりとしていた。時々、ひどく切ない目をしていて、カラカラの胸は千々に乱れた。


 シェイドがどこか預かり知らぬ所へ行ってしまうような不安をかき立てられた。

 その不安を一番相談できる相手は、タタのはずだった。


 しかし、タタの変化も大きかった。





 3週目を越えたある日、カラカラが買い物に行こうと2階まで来た時、吹き抜けから見える1階の共有スペースで、タタがジェラルドのチームに絡まれていた。

 シェイドのチームにしばしば難癖をつけてくるチームの一つだった。ジェラルドたちは11才で年齢が近いこともあって、シェイドのチームを目の敵にしていた。


「よお、タタじゃねえか。てめえ、今日は一人かよ。いいご身分だよなあ」


 上から見ていたカラカラは、いつものことだから、タタが無視して終わりだろうと思っていた。さっさと通り過ぎて、買い物に早く行かせてほしいと考えていた。


「うらやましいぜ。親分の力でてめえは何もしなくても、おこぼれもらえるんだもんな」


 そう言われた時、タタは立ち止り激しくジェラルドを睨みつけた。カラカラは、タタが無視しなかったので驚いた。

 反応を得て、ジェラルドたちは調子づいた。


「シェイドの言いなりでよかったな。てめえ一人じゃ何もできやしねえもんな。だせえけど、腰ぬけのおめえにはお似合いだ」

「はあ?何言ってやがる」


 タタは吐き捨てるように言った。ジェラルドはタタが更に食いついてきたことで、しめたとばかりに鬱憤をぶつけ始めた。


「言ったとおりだ、意味も分かんねえのか、バーカ。てめえのとこはシェイドの一人チームじゃねえか。後はいてもいなくても同じなんだよ!3人部屋取って、金稼いで、休みもらって、全部シェイドがやっただけだろ。おまけのくせに、いきがってんじゃねえよ!むかつくんだよ!」

「黙れ、クズやろう!クズは死ね!」


 タタが激しく罵った様子を見て、カラカラは目を疑った。

 ジェラルドごときの挑発に乗るなど、今までのタタには考えられないことだった。このままでは手を出すのも時間の問題と思ったカラカラは、大きな声で2階から呼びかけた。


「タタ!タタ!」


 タタとジェラルドたちが2階を見上げた。


「もう一人のおまけの登場かよ!」


 早速、ジェラルドが絡んだ。カラカラは無視して呼びかけた。


「タタ、そんなとこいたら、バカがうつるからこっち来なよ!」

「何だと、てめえ!」


 ジェラルドたちは、カラカラに悪態をつき始めた。タタはチッと舌打ちし、その場を離れた。


「タタ!逃げんのか!」


 今度はタタも無視をした。


 2階でカラカラと合流すると、二人は5階の自分たちの部屋へ行った。もう買い物どころではなかった。


「くそっ!」


 部屋に入ると、タタは激しい口調でそういって、ベッドにうつぶせに倒れこんだ。


「あんた、どうしたの?」


 カラカラは心配して尋ねた。


「るせー。ほっとけ」


 タタは低い声で言った。取り付く島もなかった。


 この日を境に、タタは不機嫌を呈するようになった。イライラしているが、何があったか、どうしたのか聞いても、まったく答えてはくれなかった。

 タタは夜も部屋に戻らないことが増えていった。シェイドはそれに気づいていないはずはないのに、何も反応しなかった。もしかしたら、今のシェイドには見えていないのかもしれないとさえ思えた。


 タタは自分の誕生日にも戻らなかった。初めて、おめでとうが言えなかった。


 カラカラは一人になってしまったような感覚に陥っていた。

 こうした、シェイドやタタの変化に感じる不安を、カラカラは持て余し始めていた。





 特別休暇の1か月が終わる最後の週半ば、カラカラは苦しんでいた。初めて感じる不安と孤独に耐えかねた。

 思い悩んで、とうとう7階を訪れた。よほどの必要がなければ、自分の居住階より上階には行ってはならないことになっていた。その制約を超える思いが、カラカラに階段を上らせた。


 7階は防音もしっかりとしており、しんと静まり返っていた。

 701とプレートが出ている部屋の前に着いた。カラカラは震える手でベルを押した。

 この部屋のドアホンはカメラ付きのため、訪問者を中で確認できる仕組みだった。インターホンで返事が来ることもなく、ガチャリとドアが開かれた。


「カラカラ、どうしたの?」


 アネモネがすぐに尋ねた。温かで穏やかなハスキーボイスを向けられた途端、思いがけず、カラカラの目から涙がこぼれ落ちた。


「いらっしゃい、どうぞ」


 アネモネは、カラカラの背中に手を回し、室内へいざなった。


 白と茶色を基調とした8畳のリビングは、落ちついた雰囲気だった。二人掛けのソファに二人は並んで座った。


 アネモネは、ゆったりとした生成り色のTシャツに同素材のショートパンツという室内着だった。


「ごめんなさい、お休みしている時に」


 カラカラは、アネモネの休息を邪魔してしまったと思い、また涙がこぼれた。


「出たくない相手には出ないから大丈夫。どうしたの?何かあった?」


 アネモネは、カラカラが遠慮深いことを知っていた。しかも、大概の問題はチームで解決できてしまうのがシェイドチームだった。それなのにわざわざ訪れたカラカラを、邪魔に思うわけはなかった。


 アネモネのいつもと同じのんびりとした口調が沁みて、カラカラの涙が止まらなくなった。


「すみません。何て言っていいか」

「いいよ。待ってるから」


 カラカラは堪え切れず、轟々と泣いた。


 シェイドとタタが離れていくことは、あまりにも恐ろしいことだった。

 アネモネに許され、堰を切ってカラカラの中から噴出した。自分でも、まさかこれほど切羽詰まっていたとは驚いた。カラカラは、しばらくただひたすらに泣いた。


 やがて、嗚咽が治まってきたころ、カラカラはやっと話ができそうになった。


「すみませんでした。聞いてもらえますか」

「うん。どうぞ」


 アネモネに差し出されたティッシュを受け取り、涙や鼻水をぬぐいながら、カラカラは話し始めた。


 特別休暇に入ってからの二人の変化、一人になってしまう恐怖、今まで最高のチームと疑うことがなかったのに、たった1か月で急激にバランスを崩してしまった困惑。

 たどたどしく、時系列もぐちゃぐちゃで、上手く話せなかったが、必死に伝えた。


「シェイドとタタと私の絆は、その辺の奴らとは違うって、一生続くって、そう思ってたのに。ちょっとバラバラに動いたら、全然、二人が見えなくなって。二人とも、全然、私のこと見なくなって。今まで何だったんだろう、これからどうなるんだろうって」


 カラカラは、思いを吐きだした。話すうちに、自分の不安が明確になった。休暇が終わった後のことも、カラカラは恐れていたのだった。


 静かに聞いていたアネモネは、カラカラが一区切り話し終わったのを確かめると、スッと立ち上がった。


「たくさん泣いたから、のど渇いてない?飲み物持ってくるから、ちょっと待ってね」


 アネモネはキッチンに立った。その後ろ姿を見て、すっきりとしたショートカットの銀髪と、すらりと伸びた褐色の手足が、何てかっこいいんだろうとカラカラは思った。アネモネのようになりたいと思った。悩みなどなく、何でも自分で解決できるのだろうと思えた。





 アネモネはグラスを二つ持って戻り、一つをカラカラに手渡した。グレープフルーツジュースだった。カラカラは少し苦味を感じながら、おいしく飲み干した。

 アネモネは一口飲むと、グラスをテーブルに置いた。


「迷ったんだけど、カラカラに私の話をしようと思う」


 カラカラは、びっくりしてアネモネを見た。アネモネは足を組んで、自分の膝に頬杖をついた。


「参考になるか分からないけど」

「聞きたいです」

「誰にもしたことがない話だし、誰にも話さないでほしい話なんだけど、いい?」

「誰にも言いません」


 アネモネは静かに微笑んで、そういう子だって知ってる、と言った。カラカラは赤面した。


「カラカラは、私とアニヤのチームをどう思う?」

「完璧だと思います。強いし、賢いし、稼ぐし、優しいし。何より信頼し合ってます」

「どうしよう。そんなに褒められると思ってなかった」


 アネモネは照れたように小さく笑った。


「そう見えるうちのチームも、一度大きくバランスを崩したことがあった」


 カラカラは、とても驚いた。まったく想像がつかなかった。


「信じられません」

「ひどかった。私もアニヤも傷つけ合ってボロボロになった」


 カラカラは目を見開いた。二人が傷つけ合うなど、到底考えられなかった。カラカラの目に映る二人は、いつものどかで、お互いを大切にし合っていた。


「キングって知ってる?」

「いえ」

「私たちのチームの3人目」


 カラカラはハッと息をのんだ。


「タブーになってる名前。久しぶりに声に出して呼んだ。キング」


 とても繊細なものを扱うようにアネモネはその名を口にした。


「5年、ううん、もう6年前かな。死んでしまった」


 アネモネの中に、黒髪で琥珀色の目をした少年の面影が浮かんできた。久しぶりに結ばれた映像は影絵のようで、その表情までは窺えなかった。

 アネモネの口から、我知らず、ため息がもれた。


「私が金庫バアに拾われた頃ですか」

「そうだね。その辺り。私たちは11才とか12才とかそのくらいだった」


 カラカラはすでに10才であった。今の自分とそう違わない年齢での出来事と聞き、胸が痛くなった。


「キングは生まれながらの天才だった。誰も追いつけないくらい、早く考えて早く動く人だった。まだ、10才をちょっと越えただけの私たちがエースになったのは、キングの力が大きかった」


 カラカラが物心ついた時には、アニヤとアネモネのチームは、すでに不動のエースだった。そんなに早いうちから一番になっていたとは、改めてすごいと思った。


「私もアニヤも、どちらかっていうとのんびりしてるタイプだったんだけど、キングが引っ張ってくれた。熱くて力強くて、頼り切ってた。キングにとっても、はいはいやりますよって、ついていく私たちは、たぶんやりやすかったんだと思う。その頃、私たちは完璧なチームだと思ってた」


 アニヤとアネモネが誰かに頼るなど、カラカラには思いもよらなかった。

 アネモネは、グラスに手を伸ばし、ジュースを一口含んだ。


「エースチームになってもキングは満足しなかった。もっと稼いで、もっと這い上がる、俺たちは3人で、早くここを出ていくんだって。組織におさまる人じゃなかったのかもしれない。すごく生き急いでた」


 アネモネはグラスをテーブルに置き、再び頬杖をついた。


「エースになっても、私たちは、大きく稼いでた。それでよかったのに。キングは加速していった。それで、闇の仕事に手を出した。私たちには何も言わなかった。知ったのは、キングが死んだ後」


 カラカラののどがゴクリと鳴った。





 アネモネの脳裏に、段ボールに入って送られてきた、キングの肘下の腕とひざ下の足が蘇った。キングの着ていたシャツも血まみれで一緒に入っていた。

 金庫バア宛ての荷物で差出人は書かれていなかった。


 金庫バアは、シャツを見てキングと思い当てた。計4本の腕と足から本人と判断できるかどうか、アニヤとアネモネが呼ばれた。恐ろしかったが、キングとは違うと確認したくて、その腕と足を手に取った。

 どれも、確かにキングだった。小さな頃からつないだ手だし、じゃれついた足だった。その形を、間違いようもなかった。


 これは闇の本業のプロのやり口だと金庫バアが言った。最近のキングの様子と照らし合わせ、キングは出してはいけないところに手を出したと断じたのだった。





 アネモネは、当時の生々しい記憶を追い払うかのように、軽く首を左右に振った。


「キングが死んで、何もかもバランスが崩れて、おかしくなった」


 カラカラは真剣なまなざしで聞いていた。

 アネモネは、カラカラに微笑みかけた。


「私が先に倒れて、キングを失った衝撃を、全部アニヤに背負わせた」





 当時の記憶はアネモネにはおぼろげだった。食事も睡眠もままならず泣き叫ぶアネモネを、アニヤが必死になだめ続けた。

 アニヤは、アネモネの口元に食べ物を運び、寝入るまで頭をなでた。動こうとしないアネモネを抱え上げ、風呂にも入れて全身を洗った。


 何でキングを止めなかった、あんたのせいだとアニヤを責めた。

 どうして私は気づかなかった、私のせいだと自分を責めた。

 私も死ぬと叫ぶのを、死ぬな俺が守るからとアニヤが抱きしめた。


 他の人間が割って入ることを二人とも望まなかった。アニヤは自分の受けた傷を棚に上げ、外から生活必需品を持ち込み、必死に一人でアネモネに与え続けた。

 アネモネも、アニヤ以外からは、何も受け取らなかった。


 そうして半年経つ頃、アネモネは次第に正気を取り戻し始めた。そうすると、そこにはやつれ果てたアニヤの姿があった。




「半年経って、少しだけ私がまともになって、アニヤは喜んでくれた。二人で頑張ろうって、また仕事を始めることにした」


 アネモネは、小さくため息をついた。


「でも、一回バランスが崩れると、もう、その前にどうしていたのか分からなくなってた。何だか上手く歯車がかみ合わなかった。アニヤがどんどんイラ立ってくるのが分かった。アニヤが、静かに壊れ始めてた」


 それからは、また別の地獄だった。




 二人はエースチームとして個室を与えられていた。だが、アニヤはアネモネの部屋に入り浸った。

 仕事も少しずつし始め、組織の仲間たちとのやり取りも、笑顔で交わせるようになっていった。皆、二人は復活したと思った。


 しかし、部屋で二人きりになると、二人の笑顔は消えた。部屋には、濃密な暗い空気が立ち込めた。


 アネモネが紅茶を入れて、アニヤに差し出した。

 アニヤは気だるげに、顎でテーブルに置くことを指示した。アネモネがテーブルに置くと、かしゃんと音がして、カップからソーサーに紅茶がこぼれた。


 アニヤは激高した。


 ふざけるな、何の真似だ、俺を非難しているのか、今の音は何だ、こんなこぼれたものがお似合いだというのか。


 次々と難癖のような言葉が、激しくアネモネに浴びせられた。アネモネが凍りつくと、アニヤは鬼のような顔で立ちあがった。


 何とか言え、何か言いたいことがあるんだろう。

 アニヤは、叫び上げ、アネモネを殴りつけた。倒れたところを、何度も蹴った。


 俺が悪いのか、俺のせいなのか。そう言いたいんだろう。

 アニヤの狂気に満ちた悲鳴を聞きながら、アネモネは身を丸くし、殴られ、蹴られる衝撃から身を守った。


 数十分が過ぎ、激情の嵐が治まると、我に返ったアニヤが、アネモネに駆け寄った。


 ごめん。俺は何てことを。ごめん。

 抱き起されたアネモネは、傷ついた目をしたアニヤを見た。


 死なないで。アネモネ、どこにも行かないで。お願いだ、一人にしないでくれ。

 アネモネは激しい痛みと混乱する思考の中、これは、私にバチが当たったのだと思った。だから、逃げてはいけないと思った。


 いいよ、どこにも行かない、そうアネモネは言った。

 ごめん、ごめんね、ごめん、そうアニヤは言った。





 暴力は何度も繰り返された。

 アニヤは我に返るたび己の所業を詫びた。アネモネはそのたびに許した。アネモネは生傷とあざが絶えなくなった。


 防音の密室で行われていたことであったが、やがて金庫バアが感づくところとなった。


「アニヤが、些細なことで私に手を上げるようになった。とっくにおかしくなってたのに、無理に正気でいようとしたから、余計に歪んだんじゃないかな。私がずるくて、最初に押し付けたものを、アニヤは自分だけで抱えてた。私は殴られるのも自業自得だと思ってて、まあ、私もやっぱりまだまだおかしかった」


 カラカラは激しい衝撃を受けていた。想像を遥かに超えていた。


 ちょっとジュース、おかわり持って来るね、とアネモネがソファから立ち上がった。

 カラカラは、自分が息を詰めていたことに気づき、大きく息を吸って、吐いた。





 今度はオレンジジュースが来た。二人とも、一口ずつ口をつけた。


「続きだけどね」


 アネモネが、変わらぬのんびりとした口調で話し始めた。


「私の傷が隠しきれなくなってきて、どうしたのって聞かれることが増えてきた。でも、誰もアニヤがやったとは思ってなかったと思う。だけど、金庫バアだけは、さすが、気がついた」


 ある時、金庫バアの部屋にアネモネだけが呼ばれた。

 単刀直入に、アネモネ、お前、アニヤに暴力をふるわれているだろう、と聞かれた。


 アネモネは、まさか気づかれているとは思わず動揺した。しかし、誰にも、金庫バアにさえも、言ってはならないと思っていた。

 答えないアネモネを見て、金庫バアはふんと鼻を鳴らした。


 やっぱりそうかい。ああ、言わなくていいよ、分かったから。やれやれ。稼ぎを上げてるから、何とかなってると思って、放っておいたのがまずかったね。

 アネモネは、知られてしまったと思い、青ざめた。アニヤと自分は、どうなってしまうのだろうと思った。引き離されてしまうのかと恐れた。


 金庫バアは腕組みし、鋭い目で尋ねた。

 アネモネ、お前はどうしたい?

 アネモネは震えた。答えは一つしかなかった。

 今のままでいたいです。


 アネモネの答えに、金庫バアは、目つきを更に険しくした。

 アニヤには、何も言わないでください、お願いします。

 アネモネの更なる懇願に、金庫バアは、深いため息をついた。


 しばらく、コツコツと人差し指で執務机を打ち、考えていた。やがて金庫バアは、一つの命令を下した。





「金庫バアは、私たちがおかしくなっていることに気づいて、手を打った。今思っても、なかなかイカした考えだと思うけど」

「どうしたんですか」

「もっとイカれた子たちの教育係にした」


 カラカラは、あっと声を上げた。


 いろいろな雑務を免除されているはずのエースチームが、なぜ自分のチームの教育係になったのか、カラカラは初めて理解した。


「アニヤは最初、なんで俺たちが教育係って言ったけど、何かを感じたみたいで、すぐに何も言わなくなった」


 カラカラは、シェイドが組織に来た当初のことを思い出していた。ちょっとしたきっかけでキレて、すべてを破壊しつくす勢いで暴れていた。


 教育係となってから、はい、失礼するよとアニヤがやってくるようになった。暴れているシェイドを上手に後ろから羽交い締めに抱きしめて止める光景がよく見られた。


 落ちついてシェイド、大丈夫、もう怖くないよ、シェイドは悪くないから、大丈夫だよ。

 アニヤがシェイドにそう語り続けるのを、カラカラもしばしば目にしていた。


「アニヤはシェイドをなだめながら、自分のこともなだめてたんだと思う。何て言うか、そこにいるのは自分だ、そういう感じで見てたんじゃないかな」


 カラカラは考えもしなかった当時のもう一つの真実に、心を打たれていた。カラカラの頭に、アネモネが優しく触れた。


「私には、タタとカラカラがいた。暴れるシェイドに巻き込まれて飛び込むタタも、救急箱を持ってただただシェイドを見つめるカラカラも、私だった」


 カラカラは、頭の上の優しい感触にドキドキしながら、当時を思い返していた。


 アネモネは、ふと気づくとカラカラの側にいて、怖い思いもしたでしょう、よく頑張ったねと声をかけてくれた。タタを見つけると、シェイドだけじゃなく、タタにも叫びたいことはいっぱいあるよね、と話しかけていた。


「アニヤも私も、カラカラたち3人に救われた。ありがとう。前から一度お礼が言いたいと思ってた」


 カラカラは、とんでもないとばかりに、ふるふると首を横に振った。カラカラにとっては、支えてもらった記憶でしかなかった。


「アニヤと私は、新しい自分を作ることができた。もう一緒の部屋じゃなくても、眠れるようになった。真っ暗闇にいるときは、こんな日が来るとは思わなかった。もうずっと、泥沼から抜けだせないんだと思ってた」





 一人で眠るようになると、アネモネは、自分がいかにアニヤに怯えていたかを知った。時折、ささいな物音にビクッと体が跳ねた。襲われることを、体が恐れていた。

 密室での暴力は、痛くて怖かったのだ。真っ只中にいる時は、その感覚すら鈍くなり、分からなくなっていた。


「教育係をしていた2年間、アニヤと私はほとんど二人きりになることはなかった。あなたたちと一緒にいることが多かったし、部屋も別々。その時間があって、私たちは本当に泥沼から抜け出せた」





 2年が過ぎ、教育係が終了した翌日、アニヤがアネモネの部屋を訪れた。

 アネモネは、来るべき日が来たという思いで、アニヤを迎え入れた。

 二人は静かに向かい合った。

 アネモネは、夢のようだと思った。


 これまでの出来事を二人は初めて語り合った。アネモネにとっておぼろげだったキング死後の最初の半年、アニヤにとっておぼろげだったその後の半年、記憶を埋め合うように二人は語った。


 二人はたくさんの涙を流した。お互いに悔いて謝罪した。

 しかし、最後まで穏やかだった。二人の目は正気だった。


 改めて部屋で向かい合うと、アニヤは知らぬ間に大人びた顔になっていた。自分もそうかもしれないとアネモネは思った。時計が正しい時間を刻み始めた気がした。


 それからの二人は、礼節な距離感を保って過ごした。アニヤから大切にされていることが伝わってきたし、アネモネもアニヤを大切に思った。


 実は今、組織を出る時期に差しかかり、アニヤとアネモネの関係は、また少し変化の時期に来ていた。

 でも、またそれは別の話、とアネモネは心の中に留め置いた。




「カラカラ、人は変わっていく。人の心は自由にできない。それに、考えてもみなかったことが起きる。そういう出来事も止められない。自分がちっぽけで悲しくなるばかり」


 カラカラは、アネモネの話にじっと耳を傾けた。


「苦しみが続くかもしれない。急に、マシになるかもしれない。でも、どうなるか誰にも分からない。だから、自分はこうするしかないっていうことを、するだけなんじゃないかと思う」


 カラカラは頷いた。

 アネモネの話に引き込まれ、驚くばかりで、何をしに来たのか、すっかり頭から飛んでしまっていた。

とにかく、すごく特別な話を聞いたのだと思った。胸を打たれ、ただただ頷いた。


「誰にも言いません」


 何か言おうと思ったが、カラカラはそれしか言えなかった。


「うん。助かる」


 アネモネはのんびりと微笑んだ。

 カラカラの胸のつかえは知らぬ間に取れていた。

 静かでのどかな空気が流れていた。


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