行こう
空飛ぶ船の無機質な一室で、すべての乗船者の登録が完了した。
まるで見計らったかのように、部屋の照明が一段落ちた。
すうっと薄暗くなった部屋の中で、人々はとうとう何かが始まるのだと息をのんだ。
それまでの賑わいが、トーンダウンしていった。
人々は口をつぐみ、始まりを待った。
「ようこそ」
そのありきたりな一言は、突然発せられた。
いつの間にそこにいたのか。
部屋の一番奥の壁際にその声の主はいた。
目に見えない透明な壇上に立つように、一段高い場所から男は話した。
「俺の名はシェイド。この船の船長だ」
スポットライトなど当たってはいない。
しかし、ほの暗い中にあって、シェイドは黒く輝く存在感を見せつけた。
黒い髪は大して整えてもいない。
服装も白いシャツ、黒いパンツ、黒いブーツという平服。
そうでありながら、黒く輝く瞳は鋭い輝きを放っていた。
引き締まった体躯はしなやかで、美しい相貌にも関わらず女性的な要素はまったく感じさせなかった。
シェイドの硬質な美は、男女も敵味方も問わず、瞬間的に人々を魅了した。
シェイドの薄い唇が動いた。
「この船は大東海を渡り、魔の海域を越えることを目指す。ここにいるあんたたちは、これまでの世界に別れを告げ、旅立つことを選んだ」
シェイドの声は通常のボリュームであるが、人々の耳にしっかりと届いた。
誰もが耳を澄ました。
「俺を殺したいほど憎んでる奴もいるだろ」
シェイドの先制パンチ。
聴衆は、にわかにざわめいた。
低いうめき声、密かにつばを飲み込む音、ギリリと歯を噛み締める軋み。
ざわめきに混ざり込む肯定の気配に、シェイドは頷いた。
突然の物騒な話に、聴衆の1人であるフロウは胸元で両手をぎゅっと握りしめた。
シェイドは静かに続けた。
「俺はシェイド。全然望んだわけじゃないが、まことの黒の直系のてっぺんだ。俺の命を狙っていた奴らもこの船には乗ってる。あんたたちが俺を嫌っていることは知っているさ」
顔つきを固くする幾人かの猛者たちを横目に見て、金庫バアはフンと鼻を鳴らした。
シェイドはごくまじめな顔つきで言った。
「船の中で殺そうとするのはやめてくれ。俺が死ねばこの船は沈む」
これは大事なことだから最初に言うのだと、シェイドは強調した。
「何もかも道連れにしたいくらいに、俺も世もまとめて憎む奴には朗報かもしれないが。今の話、他の皆も聞いたろ? 自分が死にたくないなら俺を殺させるな」
それはそうだ、とアニヤがクスリと笑った。
シェイドは腕組みをして言った。
「今の話の意味がさっぱり分からない人たちには申し訳ない。要は、いろんな事情のある人間が、これまでの利害関係を越えて、同じ船に乗ってるってことを知っておいてほしいんだ。改めまして。もう分かったと思うが、俺はこういう場での発言に慣れてないし、気のきいたことも言えない。何を言っていいか。そうだな」
シェイドは顎に手を当て、少し思考した。
そして、その手を聴衆に伸ばし、おもむろに言った。
「俺についてこい。あんたたちみんなに楽園を見せてやるよ」
聴衆は、今度は大きくざわめいた。
おお、という感嘆の声が混ざっていた。
シェイドは真面目な顔で続けた。
「悪い。嘘だ」
ざわめきを通り越し、誰もが絶句した。
フロウは赤くなったり青くなったり、大忙しである。胸の鼓動は落ち着かず、ハラハラしっぱなしだ。
アニヤは噴き出し、金庫バアは頭を抱えた。
シェイドはあくまでも真剣に話していた。
「今みたいな導きを期待しているやつは、早いとこ目を覚ましてくれ。気持ちよく夢を見せてやることもできなくて、本当にすまない」
少々恥じらうように目を伏せたシェイドに、聴衆の女性たちは思わず頬を染め、ほうっというため息をついた。ロキも密かに火照る頬を押さえる始末である。
今度は別の意味で、気が気ではないフロウであった。
シェイドは続けた。
「助けてほしいか? それもきっと無理だ。俺だって、あんたたちに助けてほしいくらいだ」
シェイドの眼差しは、まっすぐだ。
聴衆は、シェイドの若々しい直線的な意志に惹きつけられた。
「この船の旅は、あらゆる面で未知の危険をはらんでいる。その意味合いも飲みこんで乗船を決めたあんたたちは、胸に希望を抱くお気楽な人間ではない。命の半分を絶望の側に置いている、死と隣り合わせ、どこかで何かを投げだしている人間たちだ。決めつけて悪いが、こんな船に乗ることを10日で決めるなんて、やっぱり酔狂だろ」
聴衆のざわめきが再び起こった。不服の色合いがあった。
「ありがとう。乗船に感謝してる」
そのシェイドの言葉を受け、今ひとたび、室内は静まり返った。
「魔の海域を無事に越えられるのか。その先の大地は本当に存在するのか。人が定住できる地なのか。どれだけの期間を要する旅なのか。バカみたいに訳のわからないことだらけの旅だ。俺たちが正気を保ち、危機を乗り越えるには、この船に乗ってくれる人間ができるだけ多く必要だった。多様性に富んだ人の力が」
シェイドの視線は熱を帯びた。
「何でもいい。船を飛ばし続けるには、人間が生きる為の安定したサイクルが必要だ。正気を保つって、そういうことだろ? あんたたちの力が必要なんだ。働いてほしい。何ができる? 作物を作ってくれ。家具を作ってくれ。食事を用意してくれ。掃除をしてくれ。ケガの手当てをしてくれ。娯楽で癒してくれ。一人ひとり、できることをしてほしい。憎しみあって殺しあうより、ずっといいだろ?」
シェイドの眼差しに宿る熱にあぶられるように、聴衆の体温も上がっていった。
ゆるゆると立ちのぼる熱気の中、シェイドは少しずつ声を強くした。
「俺はたどり着きたいんだ。今は誰も知らない古くて新しい世界。今いるここを越えて、その先に行きたいんだ。たとえそこが地獄だったとしても。そしたら俺は、またその先を目指すから」
シェイドは息を吸って、一旦呼吸を止めた。
膨れた熱もそのまま停止した。
シェイドは決して声を張り上げることなく、しかし、秘めた熱を閉じ込めた強さで言い切った。
「行こう」
とうとう聴衆は声を張り上げた。
それは部屋の壁を割り、船全体に轟くように響き渡る、オオオオオウ、という賛同の声だった。
天に拳を突き上げ、あるいは胸に当て、はたまた隣人と抱き合い、ここまでのうっ屈を晴らすかのように、誰もが大きな声を上げた。
オオオオオオオ
熱い空気が振動し、人々は共鳴した。
そこには凝り固まった見えない壁を吹き飛ばすような、すがすがしさがあった。
フロウはなぜだか泣けてきて、目尻をぬぐった。
アネモネがその肩に手を添えた。
ミカゲは、叫びたかったのは自分だけではないのだと感じた。
誰もが胸に溜まる叫びをもってここに来たのだと。
隣に立つ背の高いイセを見上げると、イセもミカゲを見下ろしていた。
ミカゲは、イセも同じことを感じているのだろうと思った。
ミカゲとイセはそっと手をつないだ。
人々の声はあらゆる感情を含み込んで、押し流すかのように激烈であった。
それは容易に止まず、船を揺るがす勢いで響き続けたのである。
シェイドは万感の思いで、声を上げ続ける人々を見渡した。
ほうっと一息。
それから、一言付け加えた。
「言い忘れていた。大事なことがまだあった。この船には裏ボスがいる。おいおい知っていってくれ」
そのシェイドの声は、聴衆の雄叫びの前にかき消されてしまった。
部屋の片隅で、歓声に対し耳を両手で覆っていた金庫バアが、小さくくしゃみをしたのであった。
出発式!?です。
もうすぐ物語は終わります。
3月中にと願っていましたが、何だか無理かもです…。
あと少しお付き合いください。