太陽の輝き
1月って、あっという間ですね…。
今年もよろしくお願いします!(遅)
ミカエルはベッドから起き上がることもできずにいた。
父ビヨンドの手配により医術魔術を駆使した手厚い看護を受け、数日でミカエルの体は回復していた。
しかし、起き上がる気力がなかった。
経験したことのない体の重さがあった。
ミカエルの内側は、ぐちゃぐちゃに乱れていた。
思考が飛び飛びになり、記憶が切れ切れに浮沈し、感情が乱高下した。
体の中にある悪いものを外に排出しようとでもしているのか、ミカエルは絶えず吐き気に付きまとわれるようになっていた。水分だけはとるように心掛けたが食事は喉を通らなかった。
ミカエルの目の前で、先程まで生きていたハシマが失われていった。
ひとりの命はとてつもなく重かった。
ミカエルの心は切り裂かれたのだ。
従来の太陽のように温かく美しいミカエルを知る使用人たちは、そんなミカエルの姿に胸を痛めた。
父ビヨンドは頭を抱えた。
さかのぼること数日前、大怪我を負ってミカエルは帰宅した。
常春の華ユウカリが手配した便利屋アニヤとアネモネが、ミカエルを連れ帰ったのだ。
ビヨンドはユウカリとともに、アニヤたちから事態の経緯を聞いた。
常春の華跡継ぎロキと非嫡出子である娘フロウとの結婚話と信じたかったビヨンド。
しかし実際は、まったくもってそんなおめでたい話ではなかったのである。
常春の華、宵闇の青と、まことの黒とのかねてからの確執。
まことの黒直系とフロウとの深い関係。
巻き込まれたフロウは拉致された。
ミカエルはフロウを助けるためにその後を追った。
それぞれの一族同士の戦いに、決着がついた。
フロウは自らの意思でまことの黒直系を選び、二人は立ち去った。
ミカエルは争いの過程で深い傷を負った。
ビヨンドは初めて聞く本当の事情に、頭を抱えた。
ユウカリとアニヤ、アネモネが帰宅し、数日後、ミカエルの体の傷は癒えたはずであった。
しかし、ミカエルは以前とは別人のようになってしまった。ベッドから起き上がろうとせず、食事もろくにとらず、言葉も発しないような有様なのである。
事件のショックもあろうが、それにしてもビヨンドの理解を越えたミカエルの様子であった。
頭を抱え続けるビヨンドの元へ、来客が告げられた。
なんと、常春の華頭首ガロン、そして息子ロキが直々のお出ましなのであった。
ビヨンドの知らない女も一緒に来た。
女は、王立魔術学院大学院のベロニカと名乗った。
ビヨンドは早速、応接室へ3人を招き入れた。
ビヨンドには深い困惑があった。
そろいもそろって謀りおってという怒りと、今回のこの事情に巻き込まれることは、果たして正解なのかという恐怖に似た迷いがあった。
最初に、最上級のスーツで正装したガロンとロキが、ビヨンドに深々と頭を下げた。
ビヨンドは打ち震えた。
常春の華という上位の一族がとるはずの態度ではなかった。
怒りなど引っ込めざるを得ない、最大級の謝罪をビヨンドは受けたのである。
ガロンとロキは、フロウとの婚約話というでっち上げを率直に詫びた。
そして、ビヨンドがどこまで事情を理解しているのかを聞いた。
ビヨンドは、先日知ったばかりの情報について、慎重に、しかし、とうに知ってはいたがというふうに余裕を含ませて答えた。
大した情報網です、とガロンは脱帽してみせた。
ビヨンドにあった怒りは、さらに報われた。
ガロンとロキは事情の説明を加えると同時に、今後の安泰のためにと口止めも忘れなかった。
そして、結婚という結びつきではなく、ビジネスパートナーとしてこれからも常春の華と長い付き合いをお願いしたいと申し出た。しかも、ビヨンドの希望があれば何でも言ってほしいとまでガロンは言い添えたのである。
ビヨンドの中の計算機が動きだした。
当然、承諾以外の答えなどなかった。
ビヨンドの血が湧き立った。
「ところで、ミカエルさんはどうしました」
黒色の波打つ髪をひとまとめにしたロキが、そこで滑らかに尋ねた。
ビヨンドは返事を一瞬ためらった。
「いや…まだ先日の怪我の回復が今ひとつ…」
応接セットの横に控えていたベロニカが、すかさず口を挟んだ。
「治っていないのですか」
「いや、そういうわけでは」
「傷はふさがったのですね。意識は」
「戻っています」
「それでは、今ひとつというのは」
ビヨンドは表情を硬くした。今のミカエルの様態を知られることが、常春の華との協議に不利に働きはしないかと懸念したためである。
「少々、気疲れしたようなので、本日はちょっと」
「会わせてください」
ベロニカが切り込んだ。
ビヨンドはムッとしてみせた。
「失礼じゃありませんか。息子は体調がすぐれないと言っているのです」
ロキが身を乗り出し、真摯なまなざしで言った。
「ビヨンドさん。失礼ではあるのですが…今回の出来事がミカエルさんに与えた衝撃について、おそらく誰よりも理解し、解決する策を持つのは、このベロニカなのです」
「…どういうことでしょう」
「悪いようにはしません。お任せいただけませんか」
常春の華ロキの言うことである。
やがて、ビヨンドは折れた。
ビヨンドが来客について告げても、ミカエルはそしらぬ顔をしてベッドに横になっていた。
ビヨンドはため息をつき、ベロニカを招き入れた。
ベロニカは二人にしてほしいと依頼した。
ビヨンドは立ち去った。
ミカエルは目を開けてはいるが、ベロニカを見ようとはしなかった。
ベロニカはミカエルの枕元に立った。
やつれたミカエルは痛々しかった。
ベロニカは表情を変えず語りかけた。
「こんにちは、ミカエル。あなたに知らせたいことがあってロキと一緒に来た。もっと早く来られたらよかったのだけれど、今になってしまって…ごめんなさい」
ミカエルはうつろな目をゆっくりとベロニカに向けた。
ベロニカは、黒いエナメルのハンドバッグから、透明な小石を5つ取り出した。
「…補助媒介」
初めてミカエルが言葉を発した。
意図せず反射的に出たような、かすれ声だった。
「そう。これからあなたに見せたいものがある。言葉で聞かせるよりもずっと、話が早いはず」
そう言うや否や、ベロニカはハンドバッグを床に置き、呪文を唱え始めた。
その旋律にミカエルは眉をしかめた。
不安と恐怖といら立ちに触れる、不快な音であった。
やめてくれと言いかけたミカエルは、牡丹色の光の渦にその弱い声をかき消された。
ベロニカの金茶色の巻き髪が、下からの風を受けたかのように翻った。
ベロニカは手の中の5つの透明な小石を、アンダースローで部屋の中央に投げた。
5つの石は光となった。
天井と床の丁度中間に浮かぶ光は、ゴゴゴと不気味に渦を成した。
渦の中心がやがてこじ開けられるように広がり始めた。
それはいびつな輪であった。
ミカエルは異様な雰囲気に惹きつけられるように、ふらつきながらベッドで体を起こした。
「輪の中を、見なさい、ミカエル」
ベロニカは額に汗を浮かべ、顔を歪めながら呼びかけた。
ミカエルは目を凝らした。
輪の中には、透きとおったかと思うと淀み、暗転したかと思うと目を焼くほどに輝く、まったく安定しない空間があった。
そして、高揚、飢餓感、衝動、空虚、恐怖、停滞…そういった感情をかき乱す風が吹いていた。
見続けることもつらい、近づきがたい、背を向け許しを請いたい、そう思わされる世界の広がりがあった。
「見なさい、もっと、よく、見て」
光の輪を維持するように手を伸ばし魔力を差し向けながら、ベロニカは声を振り絞った。
ミカエルはベロニカの強い意志に突き動かされた。
空間から目を逸らさなかった。
「あ…」
ミカエルの口から息が漏れた。
人影があった。
ミカエルの心臓がどきりとなった。
近くて遠く、過去で未来で今である、人影。
その人影は、ミカエルの視線に気がついた。
そして。
「ハシマさん…」
ミカエルの口からそうこぼれたとき、ベロニカが膝をつき、光の輪は閉じた。
ベロニカは、肩で呼吸しながらベッドの上のミカエルの顔を見た。
ミカエルは妙に幼い顔をして、呆気にとられていた。
ベロニカは呼吸を整え、立ちあがりながら言った。
「間違いなく生きてる。あの男の悪い癖ね。別れ際が汚い」
ミカエルはゆるゆると両手で顔を覆った。
そしてそのまま、枕に背中から倒れ込んだ。
ベロニカは同情するように腕を組んで言った。
「お察しします。細かいことまでは知りませんけど、愛する女性をまことの黒にとられたハシマが、誰かに八つ当たりなんて、ものすごーくありそうな話ですから。そばにいたのが彼女の兄であるミカエルなら、尚更ねえ…きっと…それはそれはえげつない嫌がらせを…ねえ…」
ベロニカは、腕組みしていた右手を頬に添え、首をかしげて呼びかけた。
「ミカエル、大丈夫?」
顔を覆ったままベッドに仰向けに倒れ込んでいたミカエルは、自分の両手の下で大きく息を吐いた。
はああと息を吐き切ると、ミカエルは顔を覆っていた両手を取り去った。
ミカエルは笑っていた。
ベロニカは目をぱちくりとさせ、もう一度問いかけてしまった。
「あの、大丈夫?」
ミカエルは微笑みを浮かべたまま、片膝を立て、上半身を起こした。
「大丈夫です。もう、大丈夫」
「…笑ってるの」
「はい。笑ってます。が、猛烈に怒ってもいます」
「怒ってる…そうよね」
「はい。他にも、何かもう、いろいろ」
「いろいろ」
「もうこれは笑うしかない」
「ああ…まあ、そうかしら」
ミカエルは頬笑みを苦笑いに変え、膝に自分の頬をつけた。
そのミカエルの瞳から、つつつと涙が一滴こぼれた。
「いけない」
ミカエルは少し恥じるように手の甲で涙を拭った。
ベロニカは、ミカエルのその仕草に見え隠れする清潔な色香に思わず目を奪われた。
「ベロニカさん」
「! はい、何かしら」
呼びかけられて、ベロニカは我に返った。
ミカエルは、膝を下ろし、ベッドに座ったまま、ベロニカに頭を下げた。
「ありがとうございます」
ベロニカは慌てて両手を振った。
「いいのよ、まだ体がつらいでしょう。横になって」
「いいえ、いいんです。大丈夫。もう大丈夫です」
スカイブルーの瞳が、ベロニカを見上げた。
ベロニカの胸が鳴った。
ミカエルの瞳は、草原を吹きわたる風のように澄んでいた。
「ベロニカさん」
「何かしら」
ミカエルは一呼吸して、言った。
「あの人を、一発、殴りたいんですが、どこに行ったらいいですか」
ベロニカは目をしばたたいた。
聞き間違いか。
いや、ミカエルの目は正気の上、本気だ。
ベロニカは噴き出した。
「ぷ!」
「さっきの場所はどこですか」
「行く気? 簡単じゃないところよ」
「構いません」
ミカエルは笑顔のまま拳を握った。
「殴らないと、気が済まない」
ベロニカはもう一度噴き出した。
「気持ちは分かる! よーく分かるわよ。そうね。しっかり回復したらその件でもっと話しましょう。今はもう少し休んで」
ベロニカが優しく肩を押すと、ミカエルはおとなしく従い、ベッドに横になった。
燃え立つ生命力の違いが顔に出るのか、ミカエルはベッドの中にあっても先程までとはまるで様子が違って見えた。
ベロニカは太陽の輝きを取り戻したミカエルと目を合わせ、頷いた。
ミカエルは目を閉じた。
ベロニカはそっとベッドに背を向けた。
ふとベロニカは振り返った。
そして、目を閉じたミカエルに問いかけた。
「あなたは船に乗らないの?」
ミカエルは薄く開けた目の奥に、冴えた光を乗せて答えた。
「僕の行く道はそちらではないから」
ベロニカは深く頷き、ミカエルはもう一度目を閉じた。
そして、ベロニカはハンドバッグを拾い上げ、寝室を後にしたのであった。