滅び落ちた者
王立魔術学院の敷地のほぼ中央に、サイゴのツギの塔がそびえ立っている。
その周辺には、古代棟と呼ばれる古い時代の建造物がある。
そこから南にいくらか進んだ先に、大学院研究棟に囲まれた広場があった。
広場とはいうものの、戦いの痕跡も色濃いそこは瓦礫に埋め尽くされ、平らな地をわずかに残すのみとなっていた。
ミカエルとハシマは、その広場において、立ち膝で抱き合っていた。泣いているハシマをミカエルが抱き止めているような格好であった。
ミカゲとイセは気を失い、その傍らに倒れ込んでいた。
ハシマは確かに泣いていた。
フロウを失った悲嘆と苦悩がそこにはあった。
ハシマはシンプルに泣きはしなかった。
ハシマはミカエルの肩口に歯を立て、噛み切り、そうしながら泣くのであった。
座り込んだまま、そうしてミカエルの血にまみれて泣くハシマを、ミカエルは支え続けていたのである。
ハシマが怒り任せに開いたミカエルのわき腹の傷も、ふさがってはいなかった。
ミカエルは、わき腹と肩についた傷からの激痛もあって、出血を続けながら気を失うこともできずにいた。
そんな中、異変が起きた。
すぐに応じたのは、ハシマだった。
ハシマは突然、泣き濡れた顔を上げ、ミカエルの後ろの上空を見た。
口元も頬もシャツもミカエルの血に染まるハシマは、まだ定まらないような視線で空を見上げていた。
ハシマが急に体を離したことで、ミカエルは体勢を崩し、地面に手をついた。
このまま地に伏してしまいたいとミカエルは思いもしたが、ハシマの眼差しの不穏さに、我を失わないよう己を叱咤した。
「禁呪」
ぽそりとハシマが言った。
ミカエルは必死にハシマの視線を追った。
ミカエルの後方の上空に、鬼が浮かんで立っていた。
それは人型ではあるが、毛髪のない頭には角が生えていた。目は吊り上がり、口元からは牙が覗いていた。肩から腰まで布が巻きつく半裸の体は筋骨隆々としており、上背はミカエルの倍はあった。
「禁呪の鬼」
ハシマがもう一度つぶやいた。
鬼の全身は、牡丹色であった。人ではない生き物であることを感じさせた。
鬼がおもむろに鋭い爪を備えた右手を差し向けた。
その右手から、牡丹色の蔓のような光が豪速で伸びた。
牡丹色の光は、倒れ伏すミカゲとイセに絡みついた。すぐさま鬼は右腕を引き、光の蔓で二人を天高く吊り上げた。
一瞬のうちに、ハシマの目の焦点が定まった。
ハシマは鋭く短く呪文を唱え、指を弾いた。
緑色の光が走り、牡丹色の光の蔓はかき消された。
吊り上げていた光が消え、ミカゲとイセは宙空に身を躍らせた。
ハシマの呪文はすぐに緑色の光の網を形作り、ミカゲとイセを受け止めた。
ミカゲとイセは隣あわせに、元いた場所へと下ろされた。
ぐるるるるうと鬼が唸った。
鬼は天の台座から降りるように、跳ねた。
どおん、と地を揺るがし、鬼は広場の残骸を踏みつけて着地した。
鬼の目線がミカゲを見ていることは明らかであった。
ミカエルは激痛をこらえながら、鬼の動きとハシマの様子を見ていた。
思うように体が動かないことに歯噛みしながら、落ちている魔法剣に手を伸ばした。
ハシマは鬼をじっと見ていた。
そして、緩く笑ってつぶやいた。
「滅び落ちよ」
ミカエルはハッとした。
瞬間的に思ったのは、その機会を与えてはならない、という思いだった。
その思いが何を指すのか、自分でも明確にはならないままに、ミカエルは鬼よりもハシマを注視した。
ハシマが呪文を唱え始めた。
それは、これまでの旋律とは異なっていた。
ミカエルは、不快な音階と文言の連なりを耳に受け、表情を歪めた。
ハシマの全身が薄緑色の光を帯びた。
ズシンと地を踏み鳴らして歩み来る鬼に向かい、ハシマは歩を進めた。
鬼は瓦礫などものともせずに、まっすぐに踏み抜いて歩いた。
ハシマは重力を感じさせない足取りで、悪路をふわりと進んだ。
鬼とハシマは、最短距離で近づいていった。
ミカエルは血を流し過ぎた。
足に力が入らなかった。
それどころか意識をかき集めるだけで精一杯だった。何が起こっているのか、この鬼は何なのか、そういったことを考える余裕は一切なかった。
再び訪れた緊張感により、痛みは不思議と遠のいた。
しかし、ミカエルは立ち上がることさえできなかった。
ハシマが鬼の間合いに入った。
鬼はすぐに握った拳を振るった。
ハシマがふわりと飛んだ。
鬼の拳は瓦礫の山に突き刺さった。
ハシマは鬼の腕にひょいと乗った。
そして、男児が丸太橋を渡るように、無造作に鬼の腕を走った。
ハシマはすばやく鬼の肩に座った。
それからハシマは、呪文を唱えながら、右腕の拳を鬼の眉間に突き立てた。
ハシマの拳が鬼の眉間にめり込んだ。
ミカエルは目を丸くした。
それは奇妙な光景だった。
地面に片腕を伸ばしたまま、牡丹色の鬼は動きを止めた。
その肩には血まみれのハシマが、薄緑色の光をまとい、座っていた。
ハシマは、鬼の頭の中に手を差し込んでいる状態なのであった。
ハシマがうっとりとした表情で言った。
「分かります。分かりますよ。そんなに憎しみと怒りに満たされて。魔術の才もなく、ろくに扱うこともできやしないのに、うかつに手を出したのですね。サイゴのツギの塔の禁呪。さすがに難解です。いえいえ、大丈夫。今の僕になら読み込めますから」
ハシマはひとつの闘いを終えるごとに魔術師として成熟していった。
何よりも、シェイドと合一したことが大きかった。
ハシマは魔術師として、かつてない境地へと到達していた。
それは、何かの境界を一歩踏み出た感触であった。もはや人ではない領域にいる己をハシマは感じていた。禁呪でさえ、さらさらと読み解くことができた。
ミカエルは懸命に魔法剣を握り込んだ。
不安を感じた。
魔法剣は次第にプラチナの光を帯び始めた。
ハシマは薄茶色の瞳を優しく細めた。
「あなたには扱いきれない魔術です。放っておけば暴走する。薄曇りの暗さがやっと消えたのにね。お目当てはミカゲですか。まことの黒シェイドがお嫌いですか。そこだけは気が合います。命を賭したのですね。打ち消すには等価の力が必要でしょう。あなたは望まないでしょうが、僕が禁呪を分解してあげます」
ミカエルの目の前で不思議なことが起き始めた。
ハシマの実体としての輪郭が、ぶれ始めたのである。
ハシマの輪郭は、薄緑色の光に徐々に溶け込むように薄れていった。
反射的にミカエルは叫んだ。
「いくな!」
ハシマは応じなかった。
それどころか、色と毒とをたっぷりと乗せた流し目をミカエルに向けて、ハシマは言い放ったのだ。
「おきれいなミカエル。僕という存在が、ミカエルの唯一の汚れになる。僕は解放され、あなたは失う痛みを知るのです」
ミカエルは邪悪な託宣の前に、すでにない顔色をもう一段悪くした。
ミカエルはぽろりと魔法剣をとり落とした。
落ちた魔法剣は、プラチナの光をなくした。
ハシマの輪郭の消失は、スピードを増した。ミカエルと目を合わせたまま、ハシマは失われていった。
同時に鬼の牡丹色の輪郭も薄れていった。
なすすべのないミカエルの前ですべてはあっという間に過ぎ去っていった。
風が吹き、ミカエルの白金の髪を揺らした。
ミカゲとイセは変わらず倒れていた。
ハシマも鬼も、もうどこにもいなかった。
サイゴのツギの塔の制御室では、仮面をつけたグランドが断末魔の悲鳴を上げていた。
ヒルダは泣きながら耳を押さえ、ロキの横に丸くうずくまった。
ロキとスイレンは、相も変わらず別世界の住人のようであった。響き渡る絶叫とも隔絶したまま、常春の華の魔術が展開され続けていた。
ベロニカは鎖につながれ、魔力を奪われたままであった。力の入りきらない体であったが、何とか上半身を起こしてグランドを見た。
グランドは徐々に輪郭を失い始めていた。
その事実に混乱するように、グランドは仮面に手をかけ、引きはがそうとしていた。
仮面はグランドの顔から離れなかった。
ベロニカは体中に巻きつく鎖をほどこうとした。
腕に力が入らなかった。
それでも今しかないとばかりに、必死にベロニカは鎖と格闘した。
突然、鎖が引かれた。
ベロニカはバランスを崩して倒れた。
そして、ズルズルと鎖によって引きずられた。
ベロニカが目を向けると、グランドが鎖を引いていた。
いつしかグランドの絶叫は止んでいた。
仮面に開いた三日月形の口元から、低く薄気味悪い声が響いた。
「ベ…ロニカ…」
ベロニカはゾッとした。
禁呪が失敗し、代償を求めているのだと分かった。
消滅に巻き込まれる。
「冗談じゃない」
ベロニカはやっきになって鎖を引きはがしにかかった。
整えた手指の爪が割れた。
エナメルのパンプスが脱げた。
「ベロニカ…」
「べろ…にか…」
仮面のグランドは実体を失いつつある手で、ベロニカの足首をつかんだ。
「いやああああああ!」
ベロニカは足首から流れ込む奇怪な感覚に悲鳴を上げた。
この世のものではなかった。
訳のわからぬ世界に足首からアクセスした。
行き先は、死だ。
ベロニカはとてつもない恐怖にかられた。
足首からジワリと沁みて、引き抜かれ、落ちそうになる感触があった。
終わる。
ここで終わる。
こんなに突然に。
その予兆と確信にベロニカは震えた。
嘘だ。
イヤだ。
まだ終わりたくない。
やらなければならないことも、やりたいこともたくさんあるのに。
ベロニカの頭は高速で回転し、心残りを次々と再生した。
解決策はまったく出てこなかった。
そうであることに優秀なベロニカは絶望し、すみやかに諦めの結論を導き出した。
終わった。
ベロニカはそう思った。
「やっちまえ!」
ベロニカはその時、何が起こったのか分からなかった。
制御室の中に、強力な魔術が展開した。
それは、ベロニカに絡まっていた鎖を破壊した。
そして、ベロニカの足首をつかんでいた手を退けた。
それからベロニカの腕をつかんで、引っ張る手があった。
それは必死に少しずつベロニカを引きずった。
ボコボコした床を、ベロニカは少しずつ引きずられて行った。
ややあって、ベロニカが徐々に自分を取り戻した時、ベロニカは泣きじゃくる女の膝枕を受けていた。
ベロニカは、びーびーと泣く女に声をかけた。
「ヒルダ」
「べ、ベロニカー! わー!」
ベロニカに声をかけられると、ヒルダは余計に泣いた。
ベロニカは、ヒルダの膝枕からゆっくりと体を起こした。
涙も鼻水も止まらないヒルダに、ベロニカは問いかけた。
「ヒルダ、あなたが助けてくれたの?」
「お、お札。わああああん! ううう…。 ベロニカが! 使えって言ったのに、あの部屋で、使えなくて! バカやろう! わああああん! 不良品だと思って! 最後のお札、でも、これしかないから! わああああん!」
ヒルダが所持していた最後の呪符を使ったことで、九死に一生を得たのだとベロニカは知った。
その呪符は、魔封じの間では効力を封じられ、使用できなかったものだ。
魔封じの間の力を理解していないヒルダにとって、呪符はできそこないの粗悪品としか思えなかった。
ヒルダはそれを捨てずに持ち続けた。
魔封じの間で使えなかったことについて、後でベロニカに抗議するつもりだったのだ。
しかし、ベロニカが窮地に立ち、誰も頼れない事態となったとき、ヒルダの持つ武器は、その呪符しかなかった。
ヒルダは一か八かの思いでその呪符を使った。
呪符は発動条件を受け、通常通り展開した。
付け加えるならば、それはサイゴのツギの塔の力を受け、増大した威力を発揮したのであった。
「そうだったの。ヒルダ、助けてくれて本当にありがとう」
「わああああん! 怖かったー! 怖かったー!」
ベロニカは泣きじゃくるヒルダをそっと抱きしめた。
ヒルダの泣き声と体温がベロニカを温めた。
ベロニカの胸の奥がぎゅっと痛んだ。
温め合うベロニカとヒルダの横で、ロキの魔術がいよいよ終わろうとしていた。




