別れ
最初に目を開けたのは、シェイドだった。
「シェイド」
すぐさま、タタが声をかけた。
戦いの跡が残る広場において、ただ一か所平らな地面に、シェイド、フロウ、ハシマ、ミカゲ、イセが横たわっていた。
意識のない5人を、ミカエルとタタが見守っていた。
シェイドはタタを見て口元だけで小さく笑うと、上半身をゆっくりと起こした。
タタはシェイドに駆け寄り、膝をついて尋ねた。
「大丈夫か」
「ああ。解決した」
シェイドは片手を軽く上げて答えた。タタは疑わしい顔をした。
「まじか。ずいぶん早かったな」
「そうか? どのくらい時間が経った?」
ついさっきのことだろ、とタタが話し、シェイドは、時間の流れが違うのか、などと応じた。
その合間に、ハシマが目を開いた。
シェイドとタタとのやり取りを見守り、安堵の胸をなでおろしていたミカエルは、ハシマの目ざめにハッとした。
ハシマは能面のような無表情だった。
上半身を起こし、片膝を立てた。その膝に肘を乗せ、額を手で押さえうつむいた。
ハシマの生命力は、フロウの中に潜る前よりずっと、回復して見えた。
それを見て取りながら、ミカエルは眉を潜めた。
声をかけるのもはばかられるような拒絶を、ハシマから感じ取ったからだ。
シェイドの様子との対比から、ミカエルはフロウの選択を察した。
フロウは眠っていた。
目覚める気配はなかったが、穏やかな様子であった。
ミカエルの胸がズキンと痛んだ。
何によるものか判別しがたい、絡み合う痛みであった。
ミカエルが思わず胸に手を当てた時、シェイドが言った。
「タタに預けたフロウを戻す」
タタはギョッとして、わずかに身を引いた。
必要と理解しているが、例の感触は慣れる気がしなかった。
「おう」
やる気を示そうと、一応返事をした。
しかし、タタの腰が引けているのは、誰の目にも明らかだった。
シェイドは苦笑いしながら、離れた分、タタに近づいた。
「なるべく丁寧にやるから」
「お、おう…」
タタはギュッと目をつむり、顔を横に向け、耳を差し出した。
ドンッと音がした。
柔らかな感触がタタの唇を割った。
タタの後頭部が押さえ込まれた。
タタは驚愕の触感に目を見開いた。
ハシマがいた。
タタに口づけていた。
タタが愕然としている内に、事は行われた。
ハシマは触れたり離したりする唇の隙間で、小さく呪文を唱えた。
タタの体の奥から、絹で包まれた物がするりと引き上げられるような感触があった。
それは、柔らかく滑らかにタタの内側をなでた。
突き飛ばされたシェイドは、タタとハシマとの口づけの様を茫然と見ていた。
傍らに立つミカエルは、わずかに眉を潜めた後、小さくため息をついた。
それからミカエルは、固まるシェイドに言った。
「シェイド。ハシマさんは優秀な白魔術師だ。体に作用する魔術は、ハシマさんの得意分野だから、手を貸してくれているんだよ」
これはそういうことなのか、と目で問うようにシェイドはミカエルを見上げた。
ミカエルは真面目な顔で頷いた。
そうこうしている間に、ハシマがタタから身を離した。
タタは凍りついたまま、身動きできずにいた。
ハシマは何も言わず、素早く動いた。
移動先は、静かに呼吸を繰り返すフロウの頭の横だった。
シェイドがハッとしてハシマを見た。
シェイドの眼光はたちまち鋭さを増した。
シェイドはガバッと身を起こし、ハシマにつかみかからんとした。
ミカエルは、常人離れした反射神経で、シェイドとハシマとの間に割って入った。
「どけ!」
「シェイド、違う! ハシマさんは体に作用する魔術に関してはエキスパートなんだって!」
厳しい顔で立ちふさがるミカエルに対し、シェイドは魔術も向ける勢いで牙をむいた。
タタが我に返った。
懐かしい光景である。
荒ぶるシェイドを止めたり、そんなシェイドに便乗したり、かつての記憶がうずいた。
今は。
「シェイド! やめろ!」
タタは止めた。
タタはシェイドを後ろから羽交い絞めにしたのである。
シェイドは背中のタタに怒鳴った。
「タタ、お前まで!」
「ハシマさん。シェイドより、ずっと上手いぞ」
「何言って!」
「いや、本当。全然違う。両方やった俺だから言える。まじで上手い。任せるべきだ」
「何」
「おめえのは正直言うと、乱暴だ。ハシマさんのは、苦しくなかった」
「なっ」
「おめえのは、ゴリゴリガリガリって感じだ。ハシマさんのは、スルッとしてるっていうか何つうか、キツくないし、それだけじゃなく」
むしろ、と言いかけて、タタは言葉を切った。
これ以上の追い討ちはなくていい。
タタの腕の中でシェイドが固まっていた。
ハシマは騒ぎに我関せず、フロウに顔を寄せた。
ハシマの薄茶色の髪の毛が、サラサラとフロウの頬にこぼれた。
ハシマはフロウの顎に手をかけた。
シェイドの体が強張るのをタタは感じ取った。
しかし、ハシマは、タタにしたようなことをフロウにはしなかった。
ハシマはフロウの顔を横向けた。
そして、フロウの耳元に唇を寄せ、呪文を唱え始めた。
ミカエルは、ハシマの様子を注意深く見ていた。
思い立って、ミカエルは地面に置いていた短剣を手に取った。
その魔法剣は、ハシマの行っている魔術の流れをミカエルにも見えるようにした。
フロウの耳元からその奥へと、呪文に乗って流れて行くものが見えた。
フロウの魂が負ったダメージを癒し、その上、フロウが受ける衝撃を和らげる魔術も、そこには同時に編み込まれていた。
精緻な魔術であった。
ミカエルは見とれた。
なんて美しい。
魔術もその底にあるハシマの思いも、ミカエルにはこの上なく美しく見えたのだった。
そして、ミカエルは見た。
ハシマの呪文の最後だ。
さよなら。
ハシマの唇は、そう動いた。
ミカエルは知らぬ間に拳を握り込んでいた。
フロウはフロウへと統一された。
同時に、フロウに施されていた迷子札の魔術が外されたのであった。