表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
101/124

解き放たれるもの

 フロウの膝の上に口を開けた黒い小箱から、赤黒い煙が渦を巻き飛び出してきた。



「いやあああああ!」



 フロウは悲鳴をあげ、小箱を放り投げた。

 これほど小さな箱の一体どこに入っていたものか。

 地に転がる小箱から、悪夢のような血濡れた闇が続々とあふれ出してきたのだ。


 後ずさりするフロウの後頭部と背中に、大樹の幹がぶつかった。

 フロウはそこで行き止まり、目を見開いて広がりゆく赤黒い闇を見ていた。


 赤黒い闇は、森の緑色を侵食していった。

 塗りつぶすように広がる脅威的な闇は、次第にフロウへと近づいてきた。

 フロウは恐怖に凍りつき、身動きが取れなくなった。



 赤黒い闇は、地に横たわる男の足先にまで到達した。



 それを見て、フロウはハッとした。

 フロウの指先がピクリと動いた。

 動けないなどと言っている場合ではない。


 拳を握りしめた。

 強く握った。

 指から力が抜けてしまいそうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。

 自分に活を入れるように、フロウはその拳で太ももを何度も叩いた。


「立て。行け。早く行け」


 フロウは涙をにじませながら、震える声で自分に命じた。

 足に力が入りきらず、立つことを諦めた。

 フロウは這うようにして、よろよろと進み始めた。


 赤黒い闇は男の足首までをのみ込んだ。

 ぬめぬめとおぞましく蠢く闇は、生理的嫌悪と本能的恐怖を喚起した。

 フロウは青ざめながら声を出した。


「やめて。やめなさい」


 フロウは男の足元にやってきた。

 フロウは息を深く吸い込んだ。


 祈りがあった。

 願いがあった。

 意志があった。

 

 無いものねだりではない。

 ほしいものはほしいと言う。

 

 今、ここにある。


 フロウは腹から叫んだ。






「私は負けない!」






 フロウは赤黒い闇に手を伸ばした。

 闇は待ち構えていたかのように、フロウを引きずり込んだ。


「きゃあああああ!」


 フロウは赤黒い闇の中に落ちた。





 ゲルゲルゲルゲルという奇妙な音がフロウの頭の中でこだました。

 突然、全身を細長い針で突かれたような痛みに襲われた。

 かと思えば、たき火に放りこまれたように、体中を焼かれる感触に見舞われた。


 フロウは、恐怖と激痛にさらされ、その瞬間、殺される、と思った。

 そう思った途端、余計に事象はひどくなった。


 人のささやき声が、耳の奥で不気味に響いた。

 赤黒い刃が、フロウの全身を切り刻んだ。

 勢いを増した炎が体を焼いた。



 恐慌状態を目の前に、フロウは踏み留まっていた。

 怖くても、痛くても、手放してはいけないものがある。


 フロウは自ら望んでここにいるのだ。

 ここに何か希望があるはずなのだ。


「邪魔しないで! 私は」


 フロウは拳と腹に力を込めて叫びあげた。






「私は絶対に負けない!」






 フロウの叫びに呼ばれたかのように、目の前に黒い小箱が現れた。

 赤黒い煙を噴き出すだけ出して空になり、どこかに転がっていた小箱だ。


 蓋が開いたまま眼前に浮かぶ小箱に、フロウは手を伸ばした。

 空と思っていた小箱の底に、つやつやした半透明の小石があった。


 これだ、と感じた。

 

 フロウは小石を手に取った。

 そして、その小石を胸に当てた。





 かちゃり、と鳴った。

 カギが開いた。

 来た、と感じた。

 




 そこからフロウに訪れたのは、目も眩むような記憶の奔流だった。

 映像、音、匂い、感触、その時の想いまでも。

 海にあるような泡立つ大波が、それらを乗せてやってきたのだ。


 ドドドと噴き出す情報の嵐に、フロウは翻弄された。

 目まぐるしく、息苦しく、衝撃的であった。

 しかし、ここでもフロウは踏み留まった。






 シェイド。






 なぜ、その名を、その存在を、忘れることができたのだろう。


 他のことはさておいて、フロウはシェイドの記憶を手ぐり寄せていた。

 今、ここにいる男だ。

 死なせる訳にはいかない男だ。

 そうだ、シェイドだ。



 男の中にあるハシマの存在も、フロウは認識した。


 シェイド、ハシマ、それぞれの存在の軽重を問うことはできない。

 ただひたすらに、フロウは今ここにいる男を、この世につなぎ止めたいと望んだ。

 フロウはそれを叶える力へと手を伸ばした。





 フロウの白魔術が解放された。





 フロウは、男から手渡されたエナジーが、己の力によって、逆に、与える力へとなりうることを感じ取った。


 フロウは、赤黒い闇に沈んでいた男へと手を伸ばした。


 青白い顔で冷たく固まる男を、フロウは抱き寄せた。

 男から与えられた力を、男へと注ぎこむべく白魔術を展開した。




 命を巡らせるのだ。



 

 フロウは緑の森に満ちている力へとアクセスした。

 フロウは冷え切った男を抱きしめた。

 そして、この世界のエナジーとフロウ自身と男とをつないだ。


 大きな力が動いた。


 傷を癒し、活力を与える、プラスの力が男に流れ込んでいった。

 フロウはそれを男に与え続けた。




 生きて。

 生きて。




 呪文に祈りをこめた。



 やがて、男の呼吸が安定してきた。

 すると、片側通行であったものが変化をみせた。反対方向の力の流れも生まれ始めた。

 すなわち、男からフロウへと力が流れ始めたのである。


 男の意識はいまだ戻ってはいなかった。

 しかし、フロウの腕の中の男は、すでに規則正しい生命のリズムを刻んでいた。

 いまや、フロウが与えると、男は同じだけの力を返してくるまでに至っていた。


 フロウの胸が震えた。





 鼓動が重なる。

 命が循環する。

 手渡し、受け取る。

 受け取った側が差し出す。手渡した側が受け入れる。

 繰り返す。繰り返される。





 正しい輪廻に還ったかのような、胸を満たす安堵がそこにあった。



 小箱から飛び出した膨大な邪悪と記憶の奔流は、フロウと男の奏でる循環に含み込まれていった。

 力強く精密な秩序が、圧倒的な力と知性によって織りなされていった。


 いつしか赤黒い闇は消えていた。

 神秘的な深緑の空間の中で、二人は寄り添っていた。





 フロウは少し体を離して、男の顔を見た。

 男のまぶたが動いた。


 フロウはドキリとした。

 男は静かに目を開いた。






 目を開けた男が、一瞬にしてフロウの手首を鷲掴みにした。

 フロウは驚いて男を見た。


 男の燃えるオッドアイが、フロウをとらえた。






 男は有無を言わさずフロウの手首を引き、体を寄せ、フロウの唇を奪った。






 フロウは目を見開いた。

 噛みつくように口を割る突然の口づけに、頭が追い付かなかった。





 そうでありながら、フロウの体は、意識するより先に男に応じていた。

 右腕は逃すまいとするように、男の背中に回った。男に手首を捕まれたままの左手は、すがるように男の胸元のシャツをきつく握った。



 フロウの反応に、男の体温が上がった。

 熱を増す口づけに、フロウは目を閉じた。



 フロウの意識が、現実に追い付き始めた。


 男や男との行為を意識すると、心も体もたまらなくなった。

 視界が閉ざされると、なまめかしい感触が色濃く立ち上がってきた。それは、燃え上がる感情と溶け合い、体の隅々まで潤ませた。



「ん…」



 フロウが思わず声をもらすと、男は口づけを止めた。

 始まりと同じく、急に止まったその行為に驚き、フロウは目を丸くして男を見た。


 男は欲に濡れた目でフロウを見ていた。

 フロウの背筋にジンと痺れが走った。

 その黒と緑の視線に、フロウは丸ごと射抜かれた。






「好き」






 思わずフロウは口にした。

 今度は男が目を丸くする番だった。

 フロウは男と目を合わせたまま、うわ言のように続けた。




「好き。好きなの。ずっと好き」




 男は息をのんだ。

 フロウは瞳を潤ませて、男の胸元のシャツを握りしめ、迫るように男に告げた。




「もう離さない」




 それを聞いた男は、さらうように素早くフロウの腰を引き寄せた。

 体が密着し、フロウと男は熱を分けあった。

 二人の体は熱く燃えた。


 男がフロウの耳元で言った。




「溶けそうだ」




 男の声に耳をくすぐられ、ともに溶け落ちそうになりながら、フロウは応えた。




「もっと」




 フロウのささやきに対し、男は息を吐きながら甘く笑って言った。




「何を」

「あなた」




 男はフロウに最後まで言わせなかった。

 再びフロウの唇はふさがれた。

 二人は求めあい、幾度も唇を重ねた。

 互いを求めてやまず、体温を分かち合った。

 触れあう感覚は唇が触れるほどに鋭敏になり、それぞれの深奥を揺らした。




 フロウのこぼした吐息ごと、男はのみ込んだ。

 何ひとつ取り落としはしないというように、男はフロウの反応を拾い上げた。

 濃密な刺激にフロウが反射的に身を引くと、男は余計に強く抱き込んできた。

 敏感になりすぎて跳ねるフロウの体を、男の手がなぞった。

 その手はフロウの体をなだめることなく、逆に高みへと誘った。




 あまりのことにフロウは音をあげた。


「あの! あの、待って、待って!」

「何?」


 フロウは真っ赤な顔で目の前の美しい男に言った。


「さすがに、ちょっと、あの」

「何?」


 男はとろけるような眼差しをフロウに向けながら、小さく笑んだ。

 フロウはドキドキする胸に握りこぶしを当てながら、必死に言った。



「ちょっと、ひどい」



 プッと男がふき出した。

 笑いながら男は続けた。



「もっと、とか言うからだろ」

「うう…」

「もっと、ってこういうことだ。それはもう、こうなる」

「はい…」

「次は止まれない」

「え」

「我慢を使いきった」

「わあ…」



 フロウに沸いてきたのは、困惑だけではなかった。紛れもない喜びの感情がそこにあった。

 男が再びふき出した。

 真っ赤に染まるフロウの頬を、男が人差し指でつついて言った。



「その期待は裏切らない」

「え」



 どの期待の話なのか。

 自分の顔に浮かんだ期待について、フロウは訝しい気持ちになった。

 男を見ると、からかい含みの笑みを浮かべている。

 フロウは何か言わなければと口を開けたが、何も言えずにその口をパクパクと動かして終わった。




「行こう。道は開かれている」




 男は天を指差して言った。

 フロウは、男と自分があるべき場所へ戻るのだと感じた。

 男の指差す先に、光があった。

 フロウは体がふわりと軽くなる感触をおぼえた。



「助けてくれて、ありがとう」



 フロウは心からの感謝を男に伝えた。

 男は一瞬、泣きそうにも見える顔をした。

 男は目を伏せて、軽く頭を振った。

 そして、もう一度言った。



「行こう」



 フロウは沸き上がってきた数多の泡に、体を持ち上げられた。

 上へ上へと体が運ばれた。

 男はフロウより先に、天へと流れていった。


 フロウは目を閉じた。

 そして、胸を高鳴らせながら、流れに身を任せたのであった。














 ハシマは知った。

 フロウの恋だ。

 これまで、決して自分に向けられることのなかったフロウの恋情。

 初めてそれを身に受けて理解した。

 フロウがハシマにその想いを向けることは、今後もありはしない。




 失った、と知った。

 いや。最初からありはしなかった。

 ハシマが心の底から求めていたものだ。




 ただひとりへの一途な想い。

 その熱。

 その眼差し。




 もはや、フロウはハシマの手から飛び立つのだ。

 二度と手に入らない。

 ハシマにはやるせない悲しみと怒りがあった。



 積み上げた時間が、一瞬で崩壊する。

 これまで信じてきた暖かさが、いかにも陳腐な偽物であったと思い知らされる。

 そもそも、確たる何物もありはしなかったのだから。

 常に滑稽な代役であったのだから。



 これまでの日々は、水泡に帰す。

 お前には、何の権利もありはしないのだと突きつけられる。

 愛しても届かない。

 所詮は赤の他人に過ぎない。



 ハシマは、もうフロウの顔を見たくはなかった。

 こんなことになるのなら、フロウに出会いたくはなかった。








 命を失っていた方が、幸せだった。

 







 ハシマは深い傷を負った。

 絶望に染まるその傷を抱え、戻るべき場へと浮上していったのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ