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濃密な遊び

 シェイドと二人で会う予定の火曜日、フロウは朝からソワソワしていた。ハシマにすぐに気づかれ、勉強には集中するようにとたしなめられた。


 しかし、このところのフロウについて、ハシマは肯定的に評価してくれていた。


「最近、顔つきがしっかりしてきました。フロウちゃん、イキイキしていますね」


 フロウは休み時間になると、ハシマにべたべたとくっついていたものだが、それも随分少なくなってきていた。


 常連客である軍服のシュガは、ハシマとフロウのことをよく見ていて、その変化にも気づいていた。


「ハシマさん、ちょっと寂しいだろう?おちびちゃん、ハシマさん一筋だったのにね」

「そう見えますか?」

「うん。寂しい顔してる。でも、正直、あのくっつき方は危ない光景だったから、よかったんじゃないの?」

「え、危ない?」


「ロリコンっぽかった」

「シュガさん、せめて、父と子とか、兄と妹に見えていたと言ってください」

「ハシマさんは、20代半ばだろ?無理無理」


 ハシマは苦笑いしながら、そうですか寂しそうな顔ですか、自覚しないと、とひとりごちた。

 フロウはその日の勉強を終え、元気にハシマに手を振った。


「また明日ね、ハシマさん!」

「はい、フロウちゃん、また明日」


 ハシマはフロウを温かく見送った。










 フロウが森の金網の破れをくぐって入ると、すでにシェイドが待っていた。黒いTシャツにカーキ色のハーフパンツ姿は、年よりも少し上に見えた。

フロウはシェイドに会うと、いつも恥ずかしくて、すぐには顔を見られなかった。


「あれ、フロウ、その格好」


 フロウは若草色のワンピースを着ていた。


「ああ、あのね、実は私の持っている洋服って、こういうのが多いんだよ。走ったりしやすい洋服は、もう全部着ちゃった。いつも同じ服だと、変かなって、迷ったんだけど」

「そういえば、初めて会った時もワンピースだったね。髪も今みたいに下してた」


 シェイドは少しまぶしそうにフロウを見つめた。フロウの頬が赤くなった。


「私、結構こういう格好であちこち行ってるから、森も大丈夫。歩くの遅くなったりしないよ」


 足元はスニーカーだった。シェイドは頷いた。


「行こう、フロウ」


 シェイドが先に進んだ。フロウはその背中を追った。


 シェイドは、女の子らしい格好をしたフロウを見て反射的に、かわいい、と思った。照れくさくなった。歩きながら、ちょっと変にそっけなかっただろうかと考えていた。


 どうもフロウといると不自然になるような気がした。胸の奥がギュッとして、考えるよりも先に動いてしまうことがあった。


 フロウは、シェイドの背中もすてきだと思った。顔をまっすぐ見るのは恥ずかしいが、背中なら安心して見ていられた。ほくほくうれしい気持ちで、シェイドの後を小走りに進んだ。


 しばらく進むと、二人の腰の高さほどの倒木があった。

 いつもの道である。シェイドは軽やかに乗り越えた。フロウもいつも通り、倒木に上った。下りようとした時、ワンピースの裾が、張り出した枝に引っかかった。


 フロウはバランスを崩して転んだ。ワンピースの裾が枝に引っかかったまま、ずるっと倒木から落ちた。慌てて右手をついて、左手は裾を押さえた。


「きゃあ!」


 思わず悲鳴を上げると、シェイドが振り返った。そこに、右足は曲げて地面についているが、左足は倒木にかかったまま、ワンピースの裾を押さえるフロウがいた。

 シェイドは思わずプッと噴き出した。


「シェイドー」


 思わずフロウは恨めしい声を上げた。シェイドは慌てて駆け寄った。


「いや、ごめん、どうしたらそんな格好になるのか分からなくて。いや、そうじゃなくて、珍しいポーズだなと思って」


 笑いを堪えるように、まったく言い繕えていない説明をしながら、シェイドはワンピースの裾を枝から外した。フロウは急いで体勢を立て直し、土ぼこりを払った。


 フロウは顔を赤らめながら、ありがとうと小さく言った。そして、すねた口調で付け加えた。


「でも、そんなに笑わなくてもいいじゃない」

「いや、ごめん。ちょっと面白いっていうか、さすがっていうか」


 シェイドは、思い出してまた噴き出してしまった。ごめんと言い添えて笑いながら、フロウの髪についている木の葉を取った。フロウは慌てて、他に何かついていないかと髪を触った。


「もう大丈夫、何もついてないよ。さ、行こっか」


 シェイドはさりげなくフロウの左手を握った。そうして、そのまま手をつないで歩き始めた。


 シェイドは、フロウの髪に触れたら、もっと近づきたくなって、一瞬のうちに手をつないでしまっていた。フロウをかわいいと思う気持ちが、接触を求めて止まらなかった。


 フロウは失態を忘れる勢いで心臓が早鐘を打った。つないだ左手は甘く痺れた。寄り添うような距離感で体温と息遣いが近く、呼吸をするのが苦しくなった。


 二人は湖まで黙って歩いた。





 湖のほとりに、二人は並んで座った。


「そうだ、えーと、今日は俺がお菓子持ってきたから、食べようよ」


 シェイドは、袈裟がけにしたナイロンバッグを肩から外して、ジッパーを引いた。


「え、お菓子買ってきてくれたの?」


 フロウが驚いた表情でシェイドを見た。シェイドは照れくさそうに慌てて言った。


「いや、えーと、家にあった。ほら、お豆さんもらったから、お返ししたいなと思ってさ」

「本当?ありがとう!」


 フロウは母以外の人から何かを貰ったことが、ほとんどなかった。そうであるから、シェイドが自分のために何かを持ってきてくれたことに、感動していた。


「どうしよう。えー、うれしい、どうしよう」

「そんな。大したものじゃないよ。お豆さんほど高級じゃないし」


 シェイドは、そこまで反応されると思っていなかったため、逆に喜んでもらえるか心配になりながら、お菓子を取り出した。

 それは、透明のビニールでラッピングされた、5枚入りのラスクだった。


「わー、ラスクだー!うれしい!」


 ラスクを見ても、目をキラキラさせて喜ぶフロウに、シェイドはほっとした。ラッピングのひもをほどき袋を差し出すと、フロウははりきってラスクをつまみ取った。


「おいしい!」


 ごく普通のラスクであったが、フロウにとっては、シェイドから手渡されたというだけで、特別においしく感じられた。シェイドは、フロウが喜んでくれたことがうれしかった。


「シェイドも半分食べてね」


 フロウに勧められ、二人でラスクを2枚ずつ食べた。残った1枚を、シェイドはフロウに勧めた。フロウは首を横に振った。


「半分こしよ」


 シェイドはどきりとした。一つのものを二人で分け合うということが、ひどく親密な行為に感じられた。

 半分こ、とつぶやきながら、シェイドは最後のラスクを半分に割った。右手に、ちょっと大きめなラスクがあった。


 シェイドは黙って、右手のラスクをフロウの口元に近付けた。フロウは一瞬動きを止め、まばたきした。それから、ゆるゆると口を開いた。

シェイドはその口元にラスクを差し入れた。


「噛んで」


 シェイドの声に、フロウはラスクを噛んだ。ドキドキして、口に力が入らなかった。

 シェイドは、手首を曲げて器用にラスクを折った。口の中に残った4分の1のラスクを、フロウはもごもごと食べた。シェイドが微笑みながら見ていた。


 シェイドは左手のラスクをパクッと食べてしまうと、フロウに言った。


「あとこれで最後」


 フロウの口元に最後の4分の1のラスクが差し出された。シェイドが頷いた。

 フロウは口を開け、ラスクを噛んだ。

 唇が、シェイドの指先に触れた。シェイドが目を細めた。


 恥ずかしくてそれ以上シェイドを見ていられず、フロウは口元を両手で覆いながら、もぐもぐとラスクを食べきることに専念した。


 シェイドはさりげなく、右手の指先を自分の唇に寄せた。口元や洋服についた砂糖を両手で払っているフロウを見ながら、シェイドの胸は高鳴っていた。





「今日は何しようか」


 少し照れくさそうにシェイドが尋ねると、フロウはポケットから折りたたんだ紙を、いそいそと取り出した。

 シェイドは目をぱちくりとさせた。


「あのね、これやりたいことリスト」

「ああ、最初の時に書いてきたやつ」

「うん。この中の遊び、だいぶたくさんやったでしょ」

「そうだね。結構いろいろやったなー、こうしてみると」

「私ね、昨日考えたんだけど」


 フロウが真剣な表情でシェイドを見た。遊びに関しては、フロウはいつも真面目だった。

 大体においてふわふわしているのに、求める時は直線的だった。その一途さを向けられると、シェイドはどうにもかなわないという思いにさせられた。


「何を考えた?」

「今日やりたいこと。今まで言えなかったんだけど、ちゃんとお願いしようって決めたんだ、私。ずっと憧れてた遊びがあるの」

「何?」


 シェイドがうながすと、フロウは一拍置いて答えた。


「おままごと」


 シェイドは固まった。

 確かに紙に書かれていた。


 フロウは急いで付け加えた。


「一回でいいの!一回だけ!今まで、一人でお人形遊びとかしてきて、他の子たちが、皆でやってるの見てて、いいなってずっと思ってた。私、友達いなかったし、これからもきっと増えることないし、それに大きくなったら、おままごとできなくなっちゃうし」


 フロウは手を合わせてシェイドに向かった。シェイドは、まさかの展開にまだ思考が追いついていなかった。


「お願い、シェイド!一生に一回!たぶん、今できなかったら、私、一度も友達とおままごとできないまま大人になっちゃって、一生、残念で寂しいと思う!」


 シェイドは少し青ざめながら、フロウに言った。


「一生の、心残り?」

「そう、それ!」

「おままごと、俺が、おままごと」


 シェイドはうわごとのように、小さな声で繰り返した。


「それ、俺にできるのかな」


 弱々しく尋ねたシェイドに、フロウは力強く言い放った。


「大丈夫!私、お人形ごっこで鍛えてるから。私がお願いしたとおりにやってくれたら、できるから!」

「俺は、大丈夫?」

「大丈夫!お願い、やってくれる?」


 フロウがまっすぐに問いかけた。

 シェイドは半ば無意識のまま、頷いていた。


「きゃあ!やった!」


 フロウは拍手をして大喜びした。

 シェイドは自分の中で、何かが崩れ落ちるのを感じた。


「あの、フロウ。秘密にしてね、このこと」

「勿論!全部秘密だけど、これは特別に秘密にする!」

「うん。そうして。ミカエルにも言わないでね」

「絶対言わない!そしたら準備ね!」


 フロウは立ち上がり、家はどこにしようかなとつぶやきながら、草花を集め始めた。


 嬉々として準備を進めるフロウを見ていたら、シェイドの中に、おままごとをする黒豆、というフレーズが思い浮かんだ。その滑稽なイメージに、またしてもシェイドのプライドは若干傷ついたのだった。











 丈の低い草むらが広がる一帯を家にした。大きめの岩が2、3個地面から突き出ていて、イスやテーブルとして使えそうなのもよかった。


「私がお母さんでいいかな」


 フロウがうれしさをにじませて言った。


「いいよ。あの、俺は何やったらいい?」


 シェイドは恐る恐る尋ねた。フロウは満面の笑みで答えた。


「赤ちゃん!」


 シェイドは愕然として、すぐに反応できなかった。やや間を置いて我に返った。


「フロウ、無理。レベルが高すぎる。俺には無理だ」


 レベルとは何なのか、もはや、シェイドも自分が何を言っているのか分からなくなっていた。ただ、赤ちゃん役だけは本当に勘弁してほしかった。


「ごめんなさい!私、レベルなんて考えもしないで」


 遊びについては真面目なフロウは、真剣に受け止めた。


「子どもならどう?私がお母さんで、シェイドが坊や」

「うん、それなら、うん、きっと頑張れる気がする」


 ウキウキして瞳を輝かすフロウを横目に見ながら、シェイドは、俺は坊や、俺は坊やと何度も自分に言い聞かせた。そして、ファイトだ俺、やればできる、俺ならできると、くじけそうになる自分を何度も励ました。






「よし、じゃあやるよ!お母さんと坊やが家にいるのね」


 フロウはおもむろにお母さんになった。平らな岩がテーブルで、その上に先ほどから集めていた草花が置いてあった。フロウはそれを種類分けしながら、肩越しに声をかけた。


「坊や、ご飯までもうちょっと時間あるから、お部屋で遊んでていいわよ」

「え、うん、はあい」


 滑らかに演じるフロウに対し、シェイドはまだまだぎこちなかった。

 坊やのお部屋はここでいいんだろうかと、少し動いた先で迷った。お部屋で遊ぶとは何をしたらいいんだろうかということも迷った。


 シェイドは考え、その場に座って、足元の草をむしることにした。ぶちぶちという感触が心地よかった。草の匂いが漂った。


「子どもはたくさん遊ぶのよ。あんまりお勉強してるとバカになっちゃうわよ」


 大きな葉っぱに、草花をとりどりに並べながら、フロウはシェイドに呼びかけた。シェイドはちぎった草を鼻に近付けて匂いを嗅ぎながら答えた。


「お勉強好きだよ」

「まあ、坊や!なんていい子なのかしら!とってもいい子だから、ご飯にしましょう。できたわよ、こっちへいらっしゃい、坊や」


 シェイドはくすぐったい気持ちになっていた。

 それは、自分がおままごとをしているという、異常事態への自意識とは別のものだった。

 坊や、と呼びかけられ、いい子、と言われることが、羽毛で柔らかくつつかれるような、何とも言えない感触をもたらしていた。


 シェイドはつかんでいた草をパッと散らし、テーブルに向かった。


 いつもより澄ました笑顔で、フロウは葉っぱのお皿を並べていた。シェイドは岩のテーブルを挟んで向かい側に座った。


「わ、すごい。豪華だね」


 赤や白、黄色や紫の花たちが、大きな葉っぱのお皿の上に飾られていた。4つあるうちの2つをフロウは差し出した。そして、残りの2つを自分に引き寄せた。


「これが坊やの分。こっちがお母さんの分。さあ、一緒に食べましょう。いただきます」

「いただきます」


 シェイドは、フロウを見習って、食べるふりをした。


「今日のお料理はどうかしら、坊や」

「うん、おいしいよ」

「まあ!本当にいい子ね!お母さんは、坊やが大好きよ!はい、こっちも食べてね」


 シェイドの胸がどきんと鳴った。いつもと違うフロウの口調は、大人の女性の言語リズムを備えていた。

 お母さんに言われているというシチュエーションに胸が騒ぎ、大好きという言葉にも反応し、複層的にシェイドの心が揺らされた。


 シェイドはまばたきを繰り返しながら、せっせと口元に花を運んだ。


「お腹が減っていたのね。お母さん、いつも帰りが遅くてごめんなさいね、仕事が忙しくて、どうしても遅くなっちゃうのよ」


 フロウはすまなそうな口調で言った。シェイドは、口元に花を寄せながら、2度ほど頷いてみた。


「坊やがいい子で、お母さん助かるわ。自分で何でもできるものね」


 それを聞いて、シェイドの胸の内で何かが引っかかった。とてもささやかなもので、まだ形にならなかった。


「一人にしちゃって、ごめんなさいね」


 今度は確実に、シェイドの胸の奥が苦しくなった。気づくと口元の白い花を、本当に噛んでいた。苦味が舌に広がった。

 フロウは気づかずに、同じ調子で続けた。


「はい、ごちそうさまでした。後片付けしないとね」


 大きな葉っぱから草花を落とした。お皿の葉っぱを重ね、草花は草花でまとめた。


 シェイドは白い花だけ口元から離せないまま、残りのお皿の葉っぱをフロウに差し出した。フロウはそれらも同じように片づけた。


「そういえば、言い忘れてたんだけど、お母さん、今日これから仕事なのよ」

「え!どっか行くの?」


 シェイドは意外なほど動揺した。


「急にお仕事入っちゃって。実は3日間帰って来られないの」

「え、そうなの?」

「ごめんなさいね、坊やが何でもできるから甘えちゃって。お母さん、仕事頑張るから。坊やは一人で大丈夫よね」


 シェイドは返事ができなかった。白い花で口がふさがれてしまったようだった。


 フロウは、シェイドが返事をしなかったことに対し、瞬間的に小さないら立ちが芽生えるのを感じた。


「坊や?ね?一人で大丈夫でしょう?」

「そうかな」

「なに?」

「大丈夫かな。分かんない」

「大丈夫よ。いつも一人でいい子でお留守番してるじゃない」

「だけど、今回は分かんない」

「一人でちゃんとできるじゃない」

「どうかな」


 シェイドの中に、苦々しいものが広がってきていた。フロウの言い分に合わせることが、到底できなかった。


 フロウは、逆らってくるシェイドに対し、小さかったいら立ちが徐々に大きくなってくるのを感じた。

 フロウは仁王立ちで腰に手を当てた。その声はだんだん大きくなった。


「仕事だから仕方がないじゃない!分かるわよね?」

「だから、分かんないってば」

「自分で何でもできるでしょ!」

「知らないよ、そんなこと。家にいろよ」


 我慢もせず、わがままばかり言う坊やに、フロウはいら立ちが止まらなかった。


「お母さんは絶対に仕事行きます!お母さんが仕事大好きなこと、坊やも知ってるじゃない!」

「俺のことは大事じゃないのかよ」

「お母さんのことを困らせて、ひどいわ!」

「困ってるのは俺だ!」


 言い合うほど、二人はヒートアップした。


 シェイドは右手に花を握りしめたまま、フロウをにらんだ。憎しみまでもが浮かび上がってきた。フロウも負けてはいなかった。むかついて、腹が立って、にらみ返して怒りを伝えようとした。


「坊やは自分勝手すぎるわ!お母さんは仕事だって言っているじゃない!」

「自分勝手はどっちだ!俺を一人にしやがって!」

「一人でできることはやったらいいじゃない!できるくせに甘えないで!」

「どれだけ俺が苦労したと思ってる!一人は簡単じゃないんだ!」

「好き勝手言って!」


 フロウの中で、激しい怒りがカッと湧きあがり、ほとばしった。


「わがままな坊やなんて、いらない!仕事の邪魔よ!私は仕事に行く!もう帰らない!」


 それはまさしく、フロウが心の奥底で母マルタに対して抱いている恐れそのものだった。


 フロウは怒りの表情のまま、シェイドに背を向け、歩いて行こうとした。


 いらない、もう帰らない、と言われ、背を向けられたことで、シェイドの胸の奥にある扉が開いた。その瞬間、シェイドは制御を失った。


「俺を捨てる気か!」


 シェイドは右手の花を草むらに叩きつけ、フロウに飛びかかった。


「きゃあ!」


 シェイドはすぐさまフロウを押し倒し、腕をつかんで組み伏した。


「行かせない!俺を捨てるなんて許せない!」


 シェイドの中では、古びたポリバケツのゴミ箱に入れられた幼い頃の記憶が浮かび上がっていた。

 このところは開くこともない心の扉であった。おぼろげでしかない母親の記憶には、思慕と憎しみが付随していた。

 扉が開くと、それは驚くほど鮮烈であった。


「痛い!なんて子なの!」

「この程度の痛み、どうだっていうんだ!」

「逆らうなんて、かわいくない子ね!いらない!坊やなんていらない!」

「じゃあ、何で生んだ!勝手過ぎるだろ!捨てるなら生むなよ!」

「生むんじゃなかった!坊やがいなかったら、もっと好きなことができるのに!」

「うるさい!黙れ!責任とれよ!」


 上と下から二人は激しくにらみ合った。

 そのまま、数秒が過ぎた。




 強い風が、ごうっと唸って横から吹き付けた。木々の枝葉が揺れる音がし、草むらが騒ぎ、組み伏されたフロウの髪も乱れた。フロウの顔が髪の毛で隠された。


 顔の見えなくなった相手に対し、シェイドは、これは誰で、自分は何を言っていたのかと、はたと思い返した。


 視界が隠されたフロウはフロウで、自分はどうしてしまったのかと我に返った。


 シェイドはフロウを抑えつけていた右手を外し、ためらうような手先で、フロウの顔にかかる髪をそっと寄り分けた。

 戸惑いに揺れるフロウの表情に出会った。


 そうだ、これはフロウだと認識した瞬間、シェイドはまた別の混乱に陥った。


「ごめん!」


 いまだフロウを抑えつけていた左手を外し、シェイドはフロウを抱き起した。ぺたんと座りこむ形で二人は向かい合った。

フロウの眉根が少し寄ったのを見て、シェイドは反射的に立ち膝でフロウを強く抱きしめた。


「ごめん!本当にごめん!」


 フロウは次第に自分の置かれている状況を把握し始めた。手首や背中、後頭部などが痛いと感じていたのが、もうそれどころではなくなった。

 きつく抱きしめられ、はっ、という声が思わずこぼれた。


「ごめん!苦しかった?」


 シェイドは慌てて力を緩めた。いつくしむようにフロウの頭に口づけした。そして、そのままフロウの髪にこすりつけるように顔をうずめた。


 シェイドのふれるところすべてが、敏感にフロウへその感触を伝えた。その心地よさはあまりにも強烈なインパクトがあった。

 フロウはどうしていいか分からなくなり、自分もシェイドに腕を回した。シェイドの体がビクッと小さく動いたのを、フロウの腕は感じ取った。

 シェイドの胸に耳を当てると、自分に負けないくらい鼓動が激しく打っていた。

 二人は立ち膝で抱きしめ合った。


「ごめん、フロウ」

「私こそ、ごめんね。なんか、ひどいこと言った気がする」

「俺の方がひどかった。痛かったろ?怖かった?」

「ちょっと痛かったけど、怖くないよ。私の方が傷つけるようなこと言っちゃった」

「全然そんなことない。痛い思いさせてごめん」


 お互いを労り合う言葉が、二人にはひどく甘く響いた。

 シェイドはその甘さにせき立てられるように、再びフロウの頭へ何度も口づけをした。


 フロウは背骨がジンジン痺れるようであった。ふれあう体の感触も、狂おしいような心地よさをもたらした。

 シェイドにここまで接近したのは初めてだった。五感がシェイドをとらえた。


「シェイドって、やっぱりいい匂いがする」

「恥ずかしいから、あんまり匂いとか嗅がないで」

「ごめんなさい、私、犬みたい」

「いや、あの。フロウの方が、いい匂いがする。髪の毛」

「あ、シャンプーかな。お母さんがね、こだわって買ってて、それ一緒に使ってるんだ」

「そうなんだ。すげー、いい匂い」

「わ、本当だ。匂いのこと言われると、何だか恥ずかしい」


 柔らかな唇の感触が、フロウの頭に何度も降り注いだ。フロウは大切にされている感じがして、とてもうれしかった。髪の毛から甘い痺れが流れ込むようだった。


 シェイドは、もっとフロウのすべてにキスしたいと思っていた。自分はやはり危ないと自覚した。


 不自然な立ち膝に、二人とも足が疲労をおぼえていた。シェイドが促すようにして、二人は体を離し、そのまま草むらに座った。





 シェイドは、またすぐにでもフロウを抱きしめたくなった。フロウと目が合うと、フロウに怯えのような表情が見えた。

 シェイドは、はっとした。自分は一体どんな顔をして、どんな目でフロウを見たのだろうと訝った。衝動を堪え、フロウに優しくするよう、自分に言い聞かせた。


 フロウは、体を離してしまうと心細い思いがした。そんな中、シェイドと目が合った。いつもの穏やかな様子とは違い、ミカエルと戦っていた時にも似た、激しさを宿したまなざしを向けられた。


 フロウは、求められている、と直感的に思った。同時に、シェイドは美しい野生の獣のようだと思った。そして、怖いと感じた。


 シェイドは体育座りをして、顔を両手で覆って言った。


「いろいろ、すごかった」


 フロウは草むらに膝をつけてぺたんと座りながら、何度も頷いた。


「本当。おままごとって、危険な遊びだね」


 シェイドは、顔を覆ったまま、プッと噴き出した。


「おままごとが危険なのか」

「違うのかな。っていうか、ちゃんと、おままごとできてたのかな」

「分かんないけど、大体、こんなもんなんじゃないの?」

「初心者だから、下手で、ケンカみたいになっちゃったのかも」

「おままごとって、上手いとか下手とかあるの?」


 シェイドは楽しそうに顔を上げた。いつもの穏やかなシェイドだった。フロウは、何だかほっとした。


「皆、意外とこんな感じなのかな。私が知らなかっただけで、一人じゃなくて、誰かとやると、おままごとって激しいものなのかも」

「うん。俺たちの結論。おままごとは危険で激しい」


 二人は顔を見合わせて笑った。


「私、またやりたいな」


 シェイドはぎょっとした顔でフロウを見た。フロウは笑った。


「冗談だよ。一回だけの約束だもんね」

「気をつけて。俺の心臓がもたない」


 二人は笑いあって、いつもの調子を取り戻していった。二人とも妙にハイテンションではあった。


 今まで見たこともないような相手を知り、自分を見せ、二人はこれまでよりも、ずっとお互いに親密さを感じた。


 別れ際、もっと長く一緒にいたい気持ちが、いつもよりも色濃く二人の心を占めていた。

 しかし、フロウは無理して遠くから来ているシェイドにこれ以上わがままを言ってはならないと、心を抑えた。

 シェイドは、仲間を忘れてはならないと自制した。


 今度は、ミカエルも一緒に金曜日に会おうと予定を確かめ合った。





 別れてからも、フロウはシェイドを、シェイドはフロウを思う気持ちを止められなかった。


 おままごとで何物かが噴き出したことは、二人に異様な高揚感をもたらした。ずっと出せなかったものが形になったような、それを真剣に受け返されたような、何とも言えない解放感であった。

 それをやり取りできた相手と離れることは、とても寂しいことだった。


 二人とも金曜が待ち遠しかった。


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