オウド地区のシェイド
ミドリ地区の郊外へ向かう夜の電車は、わずかに込み合っていた。雨の日で、車内にはやや重い湿気と独特の臭気が漂っていた。]
「くそ、ふざけんな、なんだよこれ」
有名塾の青い鞄を背負った8、9歳くらいの少年が、携帯ゲームをしながら悪態をついていた。ほっそりとした神経質そうな面立ちであるが、頬がイライラと引きつっていた。
同い年くらいの三つ編みの少女が、やはり同じ鞄を背負い、隣からゲームを覗き込んでいた。やせた青白い顔で、こちらもイライラとしていた。
「あんた、馬鹿じゃないの、何やってんの、へたくそ」
「うるせえ、黙れブス」
一応、二人とも、声を押さえようとしている様子であった。しかし、苛立ったやり取りの応酬は、周囲の乗客を不快にさせていた。
横一列の座席のほぼ真ん中に座る二人の周囲の大人たちは、露骨に二人をにらみ始めていた。二人の前に立っていた若いカップルは、不愉快そうに移動した。
「くそやろう。チッ」
「あんた、チッとか言って、うざいんですけど。へたなんだから、やめなさいよ。ちょっと貸して」
「さわんな、ブス。死ね」
「何て言った、ちょっとあんた」
ヒートアップすると二人とも声が徐々に大きくなった。車内の空気の淀みも相まって、不穏な雰囲気が漂う。とうとう、少年の隣に座っていたスーツ姿の赤ら顔の中年男性が、低い声を発した。
「静かにしろ。ここは電車の中で、お前らの部屋じゃねえんだぞ」
少年は小さな目で一瞥し、チッと舌打ちした。少女は顔を更に青白くさせ、身をこわばらせた。
「すみませんでした」
中年男性は、少年の舌打ちに一瞬太い眉を吊り上げたが、少女の謝罪を聞き、腕組みをし直し、前に向き直った。数分後、少女は少年の足をきつく踏みつけた。
「てっ」
一言漏らした後、少年はゲームをしながら、少女の足を踏み返した。少女は細い目を歪め、再び少年の足を踏み返した。いつしかドタバタと二人が足を蹴り合う音が、響き渡った。中年男性は、赤黒い顔から湯気が出んばかりの勢いで怒鳴りつけた。
「いいかげんにしろ!人の迷惑を考えろ!親はどうした!こんなの野放しにしやがって!」
「酒臭い」
少年が無声音でつぶやいた。十分に中年男性の耳に届いた。
「なめるな、くそがき!」
カッなった中年男性は腰を上げて、隣の少年の胸倉につかみかかった。少年の携帯ゲームが手からすべり落ち、濡れた電車の床に転がった。少女がきゃあと短く悲鳴を上げ、車内はにわかにざわめいた。
「離せよ、本当のこと言っただけだろ」
言葉に反して、少年の顔は青ざめ、声が震えていた。その様子を見て、中年男性が力を緩めかけたとき、少女がつぶやいた。
「大人げない」
再び、中年男性の頭に血が上った。
「お前も同罪だ、くそがき!」
中年男性は、左手で少年のTシャツの襟元を締め上げたまま、右手を少女の襟元に伸ばした。周囲が慌てふためき、中年男性を止めに入った。若いカップルの男性も、向かいに座っていた温和そうな初老の男性も、中年男性の逆隣りに座っていた黒髪の少年までもが、一斉に中年男性の腕やら腰やらを取り押さえた。
「手を挙げてはいけませんよ、落ち着いてください!」
「君たちも謝りなさい!早く!」
「ごめんないさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
二人の子どもたちはわあわあと泣きだした。ふんっと鼻息をならして、中年男性は二人を離した。
「わかりゃいいんだよ」
忌々しそうに言い放ち、中年男性は腕組みをし、目を瞑った。
「はい、これ君のゲームでしょ。電車の中では静かにするんだよ」
初老の男性から濡れて薄汚れたゲーム機を手渡され、少年は泣きながらお礼を言った。
「はい、ごめんなさい。ありがとうございました」
「本当にごめんなさい。もう二度としません」
少女もべそをかきながら一緒に謝った。車内には、二人のすすり泣く声が残った。
それから少しして、電車が次の駅に到着した。大勢の人が腰を上げた。中年男性は目を瞑ったまま残った。二人は、まだ泣きながら、小走りに下車した。
中年男性の逆側に座っていた黒髪の少年も、電車を降りた。前後に降りた初老の男性は、ふと気づいて声をかけた。
「さっきの君は勇敢だった」
黒髪の少年は、驚いたように顔を上げた。
「同じくらいの年なのに、君は静かに座っていたし、えらかった。君も遅くまで塾かな?気をつけて帰って、お家の人に、大活躍を報告するんだよ」
黒髪の少年は、はにかむように微笑んで、ぺこりとお辞儀をした。そして、くるりと踵を返し、改札へ駆けて行った。初老の男性は、目を細めて少年を見送った。
「同じくらいの年なのにね。親だな、やっぱり」
初老の男性のつぶやきは、発車した電車の音に飲み込まれ、流れて行った。
ここは、ニア国の大都市トウトである。世界地図の上では半島に位置する国であった。従来からある歴史的な様式と、侵略や交易を経てもたらされた多様な様式が混ざり合い、ニア国は独特の発展を遂げていた。革新的なものと伝統的なもの、科学と魔術、豊かさと貧しさ、いろいろなものがごっそりと盛り込まれているのがこの国であり、トウトはそれを体現するような大都市であった。
トウトは、貧富の差でくっきりと区分けされている。上流階級の住む屋敷街ハクキン地区、下流階級の貧民街オウド地区、その真ん中でほどほどの安定が保たれた街がミドリ地区である。
そして、最も危険な地域がシッコク地区である。そこには、高度に組織された犯罪集団や、歴史的にタブーとされる研究を行う機関など、見てはならない、語ってはならないものたちが多く存在していた。
ミドリ地区郊外にある飲み屋街の裏通りは、暗く沈んでいた。霧雨が尚も続いている。
先ほど電車で大騒ぎをした二人の少年少女が、裏路地で息を潜めて、身を小さくして膝を抱えていた。
「まだかな」
「しっ!」
普通の声で話した少年を、少女は鋭く戒めた。へいへい、と口の中で返事をし、少年は短い髪の頭をぽりぽりとかいた。少女は路地の、待ち人が来る方向を、じっと見ていた。すると果して、空気が揺れて、小さな人影が現れた。
「シェイド!」
少女は張り詰めていた気持ちが緩むのを感じた。気付くと人影のほうへ駆けだしていた。人影は、黒髪の少年だった。
黒髪の少年シェイドは、人差し指をそっと唇に添えた。少女は、はっとして、両手で口をふさいだ。シェイドは微笑んで頷き、路地の奥へ向かった。ほっそりした短髪の少年は、シェイドを見て、やはりほっとしたように頬を緩めた。
「遅いぞ」
短髪の少年が弾むようにささやくと、シェイドはやはり微笑んで頷いて見せた。
短髪の少年は、シェイドの後ろにいる三つ編みの少女を指さしながら、お前も人のこと言えない、と無声音で言った。少女は、細い目で睨みつけた。
路地の行き止まりにマンホールがあった。シェイドは周囲を確認し、蓋を開けた。下の様子に耳を澄ませ、塾の鞄から懐中電灯を取り出した。二人の少年少女もそれにならった。
シェイドは指先と視線で指示し、少年、少女、シェイドの順で、マンホールのはしごを降りて行った。シェイドは蓋を戻し、少し急いで二人の元へ降りた。
コンクリートの通路で二人は所在なさげに立っていた。その横を、淀んだ水が流れている。シェイドは、少し伸びた黒髪を濡らす水滴を払いながら、声をかけた。
「もうしゃべっていいよ」
「あー、よかったー!」
短髪の少年が、大きく伸びをした。
「タタ、大丈夫だったか?あの赤鬼、タタを思い切りつかみやがった」
シェイドが少し怒気をにじませて問いかけると、短髪の少年タタは、先ほどの恐怖を思い出したか、少し顔をこわばらせた。
「なんでもない、あんなの。俺、あんなの全然怖くねえし」
タタの強張った唇から、張り詰めた声が発せられた。シェイドは、細く濡れたタタの肩に右腕を回した。
「タタ最高。すごかったよ。悪い。あんな怖い役やらせて」
「なんでだよ。俺、全然、平気だってば。俺、すごかっただろ?」
「うん。本当にすごかった」
「よっしゃ!」
タタは自らを奮い立てるように大きな声を出し、シェイドの肩を組み返した。二人は肩を組んで体を揺らし、くくくと笑い合った。
「まあ、俺はシェイドみてえに頭良くないし。シェイドが考えたら、俺がやるさ」
「そんなことないさ」
上ずった口調で言うタタの額を軽く小突いて、シェイドは腕を解いた。懐中電灯を握りしめ、じっと見つめる三つ編みの少女に向き直る。
「カラカラも大丈夫か?赤鬼のやつ、カラカラにまで」
「私は大丈夫!元気元気!」
三つ編みの少女カラカラは、震える両手を後ろに押し隠して、満面の笑みでシェイドに答えた。
「それでシェイド、どうだったの?」
「ああ、そうだ」
シェイドは鞄から、二つ折りの財布を取り出した。タタとカラカラが覗き込むと、シェイドは札束を引っ張り出した。うわーっと歓声があがった。
「ざっと30枚」
「すげー!まじかよ!こんなん初めてじゃねーか!」
タタは歓声を上げた。財布は、赤ら顔の中年男性の物であった。タタとカラカラが人々の注意を引きつけている間に、シェイドがスーツの内ポケットから掏り取った。
もっと言うなら、電車に乗る前から、中年男性は後をつけられていた。高級パブから出てくる客の中から、目ぼしい相手をシェイドが選んだ。事前の綿密な計画と練習を経て、今夜の計画はなされた。
「やった!何枚抜く?」
カラカラの声も弾んでいた。高揚し、先ほどとは違う震えに沸く二人を微笑んで見ながら、シェイドは整った顔の右側に財布を当てた。
「考えたんだけどさ、今回は抜かずに金庫バアに渡そうと思ってんだ」
「え、1枚も?」
「うん」
二人は瞬間的に黙り込んだ。しかし、カラカラは、すぐにシェイドを見て言った。
「私はシェイドの言うとおりにする」
げんなりした顔で、タタはカラカラを見た。
「おめえ、なんでもかんでも、シェイドの言うとおりだな。ちょっとは考えろよ。理由聞かせろよ、シェイド」
シェイドは微笑みを消して、財布を鞄に戻した。懐中電灯を持ち直し、二人に向かった。
「金庫バアグループの中で、一番になりたい」
「一番?」
「うん。年上のやつらにも負けたくない。一番になって、誰にも何も言わせない」
カラカラは真剣なまなざしで頷いた。
「持っていく金が多いチームの勝ちだ。我慢できなくて使ってしまったら、チームはいつまでも勝てない。たくさん金を持っていったら、金庫バアに今よりもっといいものがもらえるはずだ」
「そうか?金庫バアが好き勝手、金使って、終わりじゃねえの?」
タタはややぞんざいに、いらだちをにじませて言った。
「金庫バアは、どのチームがどのくらい稼ぐか、ちゃんと見てる。年上のやつらがでかい顔してるのは、稼いで来るからだ。年が上だからじゃない。気付くのが遅かったくらいだ。服でも部屋でも何でも、もっといい物をもらえるよ、たぶん」
「まじかよ。だとしても1枚くらい、2、3枚くらい頂いても、変わんねーだろうが」
タタは爪を噛みながら、吐き出すように言った。シェイドは黒い瞳を陰らせた。
「だめだよ、タタ。どんどん我慢できなくなる。目の前の金に釣られちゃだめだ」
「だって!俺が、俺がやったろ?俺が、すごいやったろ?なんで、何にもねえんだよ!」
タタは、こぶしを握り、地面に向けて何度も振りおろし、足も地団太を踏んだ。カラカラは、眉をひそめて、タタから一歩退いた。
シェイドは、前髪から滴って頬をすべる水滴をぬぐい、うつむくタタに話しかけた。
「全部、タタのおかげだよ。タタが器用にやるから、いつもすごいなって、助かっているよ」
タタは唇をかみしめて、こぶしを震わせていた。シェイドは続けた。
「俺たちのチーム、最近なかなかいい感じだろ?失敗してないだろ。だから、今、どかんと金庫バアに渡せば、今回で俺たちの点数が上がるはずなんだ。俺たちのチーム、こんなもんじゃないと思うんだ。もっと上、目指せるはずなんだ」
「本当?」
今まで口を閉じていたカラカラが、思わずシェイドに聞き返した。シェイドの長いまつげに縁取られた瞳が、カラカラに向けられた。カラカラは、目が合った瞬間、きゅっと口を閉じた。
「本当。俺たち、本当にバランスがいい、すごくいいチームなんだ。ここんところ、何となくそう思っていたんだけど、今日はっきりした。俺たち3人で、一番になれるよ」
カラカラは、うつむくタタに一歩近づいた。
「私も一番になりたい。タタは?」
タタは顔を上げ、潤んだ目でカラカラをにらんだ。
「俺だって、なりてーよ!」
タタはこぶしを握りしめ、淀んだ水に向かって咆えた。
「うおー!」
シェイドとカラカラは、タタの声が淀んだ水に沈んでいくのを、しばし待った。やがてタタは顔を上げると、シェイドの方を向き、目を逸らしつつ頭をかいた。
「シェイドの言う通りにする」
シェイドは目元を緩ませ、右腕をタタの肩に回した。
「タタ、最高」
タタの口元が、自然と笑みを形作った。
それから3人は、やはり盗品だった有名塾の鞄を始末した。3ブロック先のマンホールから一度出て、大きな公園のゴミ箱に1つ捨て、焼却炉に1つ放りこみ、近くの大きな川に1つ投げ込んだ。財布はナイロンのウェストポーチに入れ、それを、シェイドが袈裟がけにした。再びマンホールにもぐり、貧民街のオウド地区まで、地下水路を走り続けた。
無事にオウド地区のマンホール下に着き、切れ切れの息を整えながら、シェイドは二人を見た。同じように胸を上下させ息をする二人を見ていたら、シェイドの口から勝手に言葉がすべりでた。
「今日は二人とも、勇敢だった」
「へ?」
「なに?」
タタもカラカラも、突然すぎてぽかんとしていた。シェイドも、はあはあと息が上がったままの口に手を当てて、上を見て下を見て、首をかしげた。
「いや、ごめん。なんとなく」
タタとカラカラはどちらともなく目を合わせ、また、どちらともなくシェイドに目を戻した。
「うん。だからごめん。行こうか」
シェイドが先に、マンホールのはしごを上った。はしごの先頭でシェイドは、勇敢って言葉を言ってみたかったんだ、たぶん、と口の中でごにょごにょとつぶやいた。そして、マンホールの蓋を開けながら、まだうまく、言いこなせないみたいだ、とごにょごにょと付け加えた。
オウド地区には、すっぱいような辛いような、何ともスパイシーな匂いが満ちていた。あちこちから嬌声や怒号が響いてくる。シェイドは、いつもの猥雑な空気に触れ、肩の力を抜き軽い溜息をもらした。
少し疲れを感じた。振り返ると、仲間二人の顔には、随分表情がなかった。目の下が黒くなっていて、濃い疲労を感じさせた。濡れた衣服が体温を奪い、体力を余計にそいだのもよくなかった。
「タタ、カラカラ、もうちょっとだよ」
すでに整った息のもとでシェイドが声をかけると、タタは口を一文字に引き結び頷き、カラカラは目で懸命に笑って見せて頷いた。
アジトに向かう足を若干緩めながら、シェイドは気をつけなければ、と思った。シェイドは、自分が同い年の子どもたちより、さまざまな面で抜きん出ていることに気づき始めていた。
知識や計算、状況認識、手先の動きや体全体の動かし方、持久力もそうだった。自分が簡単にできることが、他の子どもたちには難しい場合がある。
自分のペースで動くと、仲間にしばしば無理を強いてしまう。チームで動く中でさまざまな失敗を経験して、一つずつ学んでいった。自分がリーダーなのだから、仲間に何かあったら、自分の責任だと思っていた。シェイドには、二人がとても大切だった。
しかしシェイドは、自分はここにいるべき人間ではないとも思っていた。普段は気にも留めないが、時折何かの拍子に唐突に、自分はなぜここにいるのだろう、という問いが、疾風のように体を貫くことがあった。今はこんなオウド地区なんぞにいるけれど、本当はどこか遠い国の王子様なのだ、といった、子どもらしい幻想とは少し違っていた。
シェイドは、正しくは判然としないが、3、4才まで、母と暮らしていた記憶があった。温かい家で気持ちよく暮らしていたような気がする。心地よい母の子守唄で、穏やかに一日を終えるような生活だった。
ある時、急に、すべてが暗転した。母は、シェイドを連れて家を出た。夜から夜へと逃れるような日々で、宿を転々とした。母は常に怯え、イライラし、泣いていた。
平和だった時をなぞるように、寝る前には必ず子守唄を歌ったが、震える母の声はシェイドを不安にさせた。一体どれほどの期間、そうした生活であったのか、長かったのか短かったのか、シェイドの動揺を反映し、余計に記憶は切れ切れだった。
そして、最も暗い夜がやってきた。
母は、シェイドの手を引きながら、走って逃げた。追手から逃れるように、路地へ路地へと入り込んだ。袋小路にゴミ箱が一つあった。母は、シェイドをゴミ箱に入れた。泣きながら、そこに落ちているぼろきれや段ボールをシェイドにかぶせ、何度もつぶやいた。
「ごめんね、ごめんね。守ってあげられない。シェイドは自分でいきなさい、いきなさい」
シェイドは訳がわからないまま、しばらくじっとしているように言い含められた。ゴミ箱の蓋がされ、そのまま置き去りにされた。
どれだけ時間が経ったのだろう。シェイドは身を固くして、長い間、体育座りをしていた。母が戻ってこないので、恐る恐る頭上に覆いかかる物たちを押しのけ、蓋に手を伸ばした。
長時間同じ形を保った体は不自然にきしんだ。先ほどからずっと風の音しか聞こえなかったが、恐ろしい追手の気配に過敏に耳を澄まし怯えていたため、蓋を開けようとする手が震えた。
やっとずらし開けた蓋の隙間から、異様に生々しい質感の薄暗さが覗き見えた。人の気配はなかった。しかし、安心とは程遠い薄気味悪いその暗さは、シェイドの胸にそのままに写し取られた。
母を待って、じっとしていなければいけなかったのかもしれない、という思いが、衝撃的に心をよぎった。言いつけを守らずに蓋を開けた自分は、もう二度と母には会えない。
理屈ぬきの直感に身が凍った。その災いは自分が招いたこと。待てなかった自分が悪い。母を裏切り、大変な罪を犯してしまったと、シェイドは小さな恐慌状態に陥った。
急いで元の体育座りをし直した。心臓が恐ろしい勢いで鼓動した。何もなかったと頭の中で何度も唱えた。しかし、蓋を開けてしまった事実から、逃れることはできなかった。
シェイドの目から次々に涙があふれ出た。激しい嗚咽がこみ上げた。音を消そうと、両手で必死に口をふさいだ。息がつまり、胸と腹が強く波打った。他のすべての感情を打ち消す強大な恐怖に、シェイドはしばらく圧倒された。
やがて、時間感覚がなくなり、頭が真っ白になるころ、シェイドは空腹を感じた。とうとうシェイドはゴミ箱を出ることにした。立ち上がるとふらついて、ゴミ箱ごと横倒しになった。そこから、ようやくのそのそと這い出たのだった。
それからのシェイドは、飢えと渇きに操られるように行動した。頭の中は、そればかりになった。食べ物を求めて、路地を移動した。
最初は水たまりの水を飲んだ。気持ち悪い味がしたし、口の中がザラザラした。やがて、路地の一角にポンプ式の井戸を見つけた。人気のない時を見計らって、見様見真似で水を出し飲んだ。そのうち、拾ったペットボトルに水を溜めて持ち歩くようになった。
食べ物に関して一番簡単なのは、飲食店のポリバケツをあさることだった。野良猫を見て真似をした。何度か店員に見つかり殴られた。野良猫と一緒に逃げた。
時にはお腹を壊した。そんな時は、寝床にしている最初のゴミ箱の中で、痛む腹をさすり続けた。
そのうち、鍵の掛かっていない家の勝手口から忍び込むことをおぼえた。とはいえ、これはなかなか確率が低かった。それでも一度バナナにありついてからは、目に着くドアに耳を寄せて、ノブを回してみることをやめられなかった。
大通りに並ぶ店先から、食べ物を盗むことも考えた。しかし、地域柄か、店番はやけに屈強な男が多く、近づくことができなかった。肉も野菜も果物も、まことに艶やかでおいしそうに見えた。遠くから見るだけというのは切なすぎ、殺されてもいいからかぶりつきに行こうかと思うことさえあった。
どれほどの月日であったのかはやはり定かでないが、幼いシェイドはそうして自力で生きていた。
ある日の夕暮れ時、シェイドは4人の子どもを連れた老婆を見かけた。
たくさん買い物をしたようで、4人の子どもたちが荷物を分け持っていた。老婆の連れは、自分より大きな少女2人と、自分と同い年くらいの男の子と女の子であった。
2人の大きな少女は恰幅の良い老婆と並ぶように歩いていた。男の子と女の子はその後ろを一生懸命ついて歩いていた。
ちょっと遅れがちな女の子が両手で抱える紙袋から、長細いパンが覗いていた。
シェイドはもう、たまらなかった。
吸い寄せられるように老婆たちの跡をつけて歩いたが、パンしか見えていなかった。気づくと駆けだしていた。女の子の後ろからパンをむんずと掴んだ。夢中で引っこ抜いた。
「きゃっ!」
女の子がバランスを崩して転んだ。シェイドは、老婆たちが振り向く気配を感じながら、わき目も振らず、全速力で逃げた。
「タタ、お行き!」
後ろから老婆の声がしたが、シェイドは振り返ることなく走り続けた。
入り組んだ路地を、右へ左へと駆け抜け、シェイドは寝床のゴミ箱へたどり着いた。無意識に向かった先ではあったが、急ぎ、ゴミ箱の中へ入り蓋を閉めた。すぐさま、パンへかぶりついた。おいしくて、おいしくて、シェイドはパンを無我夢中で貪り食った。むせるのも構わず、口に詰め込んだ。
長細いパンの3分の2がなくなったとき、突然に、ゴミ箱の蓋が開いた。我を忘れていたシェイドは、何が起こったのかすぐには理解できなかった。
「いたね」
覗きこんだのは、先ほどの老婆だった。目があった。蓋を持ち上げたまま、老婆はシェイドから視線を逸らし、左を見た。
「タタ、よくやった。お前はすばしこいね」
老婆はそう言うと、視線をシェイドに戻し、蓋を取り去った。
「さっさと食べて、そこから出てきな」
老婆の灰色の瞳も口調も淡々としており、盗みを咎め立てる様子は一切なかった。それでも、取り上げられてはかなわないと、シェイドは残りのパンを慌てて平らげた。
パンを食べてしまうと、どうしていいか分からなくなった。相手に責める様子がないのなら逃げなくてもよいのか、それとも、実は大変な危機にさらされているのか、判断できずに茫然とした。
「ぼさっとしてないで、出ておいで。別に取って食いやしないから」
老婆が再度促した。シェイドはためらいがちに立ち上がった。
灰色の髪を団子にまとめた老婆の他に、数歩離れたところに男の子が立っていて、その隣に泣きべそ顔の女の子がしゃがみ込んでいた。シェイドは3人を警戒しながら、ひょいと跳ねるようにゴミ箱を出た。
夕暮れ時のはちみつ色の光が、袋小路にも差し込んでいた。
老婆は、上から下までシェイドを見た。
「お前の名前は?」
シェイドはうつむいて答えなかった。少し待って、老婆は再び話しかけた。
「まあいいか。それにしても汚い身なりだね。臭いし。この辺じゃ見ない顔だが、昨日今日、こうしているって訳じゃない恰好だ。親はいるのかい?」
シェイドは首を左右に振った。老婆は少し考え、ゴミ箱を見た。
「捨てられたのか」
シェイドは愕然として、思わず顔を上げて老婆を見た。置いていかれたとは思ったが、捨てられたと考えたことはなかった。目を見張ったシェイドを、老婆の灰色の瞳が見返した。
「そんなに驚いた顔しなくても。おや?」
老婆はもう一度、上から下までシェイドを見た。シェイドは落ち着かない気持ちになった。
「薄汚れちゃいるが、もともとの仕立ては悪くない服だね。靴も悪くない」
次に老婆は、まじまじとシェイドの顔を見た。更に一歩近づき、シェイドの両方の二の腕をがっしりと掴み、じっと目を覗き込んだ。シェイドは灰色の瞳に両眼を射抜かれ、目を逸らすことができなかった。
「ほう。黒い。随分黒い目だ。夕暮れのせいか。いや、十分明るさは足りてる。ううん?黒い目だ。黒い目だね。これは、なんとまあ、まことの黒だ。お前は一体」
老婆が手を離した。シェイドは思わず、自分を両手で抱きしめた。何か隠していたものを暴かれたような心細さを感じた。
「これはひょっとすると、ひょっとするね。面白いかもしれない。だが、危険かもしれない」
老婆はぶつぶつとつぶやいた。
「お前は一人かい?」
シェイドはこくりと頷いた。老婆は顔に深いしわを寄せて短時間思案した。そして、後ろを振り返り、二人の子どもたちへ話しかけた。
「あたしは、こいつを拾うかどうか珍しく迷ってる。だが、あんまりぐちゃぐちゃ考えるのは、性に合わない。だから、タタ、カラカラ、お前たちが決めていいよ」
子どもたちは3人とも驚いた。シェイドは話がよく見えなかった。だが、自分がここから連れ出してもらえるかもしれない突然の感触に、胸が震えた。
タタは急に話を振られ、あまりよく聞いていなかったため慌てた。カラカラは、自分が何かを決めるということに戸惑った。
「時間がかかるのも嫌いだから、早く決めておくれ」
老婆に目顔で促され、タタは上ずった大きな声でシェイドに尋ねた。
「おめえ、家あるのか?」
シェイドは首を大きく横に何度も振った。タタは顎を上げて胸を張るようにし、両腕を組んで仁王立ちをした。
「おめえ、行くとこねえのか?」
シェイドは首を強く縦に振った。タタは小さな目をぱちぱちとして、口をとがらせ、簡単に言った。
「じゃ、俺たちんとこに来れば」
シェイドは本当に体が震えた。足の力が抜けそうになった。すばやく老婆が言った。
「タタ、お前だけで決めるな。カラカラは」
シェイドははっとして女の子を見た。パンを奪った子だった。涙は止まっているが、頬に涙の跡がついていた。タタはちょっと顔を赤くして、両腕を組んだまま、右足でしゃがむカラカラを蹴った。
カラカラはシェイドを見たまま、左手でタタを叩き返した。
「あんた、私と仲良くしてくれる?」
カラカラの問いに、シェイドは即頷いた。タタが小さな声で、馬鹿みてえ、とつぶやいた。カラカラはもう一度タタを叩いた。
「私、カラカラ。あんたは?」
「シェイド」
今度は声が出た。シェイドの声はかすれていた。人に対して話しかけたのは、本当に久しぶりだった。
「何だい。しゃべれるんじゃないか」
老婆がふんっと鼻息を漏らした。カラカラは立ちあがった。
「私たちと行く?」
シェイドは胸苦しい思いで頷いた。カラカラの頬が赤くなった。カラカラは老婆に言った。
「金庫バア、私、シェイドを連れて帰りたい」
隣でタタが、犬猫かよ、と言ったが、カラカラは無視した。
「決まりだね。さて、あたしは金庫バアって言うんだけどね。お前みたいな行くところのないチビが、うちではたくさん働いてるんだ。ここよりましだと思うが、シェイド、来るかい?」
シェイドの頭の中に、幻の母の声が聞こえた。
いきなさい、いきなさいと。
「行く」
「じゃ、さっさと行くよ。日が暮れる前に帰るんだ。タタ、カラカラ、さっきの荷物はキャリーたちが全部持って帰ったから、礼を言っときな」
老婆金庫バアは、すぐに路地を歩き始めた。タタが慌てて後を追った。カラカラはシェイドの傍に駆け寄り、手をつないだ。母の幻は消え去り、掌の温かな感触が、シェイドに現実感を伝えた。カラカラはそのまま手を引いて、金庫バアとタタを追った。
こうしてシェイドは、金庫バアの下でタタやカラカラたちと暮らすようになった。
金庫バアは、大勢いる子どもたちに、3人一組でチームを組ませ、連帯責任で仕事をさせていた。タタとカラカラはまだフリーだった。シェイドがタイミングよく現れたため、金庫バアは年の近い3人をチームにした。
屑拾いや物乞い、靴磨き、花売りなど、先輩に聞きながら3人で働いた。6才を過ぎると盗みを教わり、より稼げるようになった。いつしか、シェイドが計画し、指揮をとり、3人で行動する形ができていった。自然とシェイドがチームリーダーとなった。時を重ねるにつれて3人の絆は深くなっていった。
それでも時々、シェイドの胸の内を複雑な感触がよぎった。
自分のせいで、母と自分はいるべきところから追われてしまったのではないか。今いるここは、自分のいるべき場ではないのではないか。ここにいると、また自分のせいで何かが起きるのではないか。
思考はとりとめのないもので、大した結論には至らずに、いつも頭から消えていった。名状し難いさまざまな感情も、シェイドの中でひとうねりして、いつの間にか消えていくのだった。自覚する範囲では、シェイドは自分の力に対して、自惚れと不安を常に同時に感じていた。
シェイドとタタとカラカラは、深夜零時を回り、やっとアジトに帰りついた。
金庫バアの所有するレンガ造りの8階建てアパートメントである。鉄扉が正面に一つあり、建物の中でいくつかの部屋に分かれている。古びているが、なかなか頑健な建物であった。
鉄扉の小窓から夜当番に声をかけると、3人は中に招き入れられた。廊下を過ぎて、2階まで吹き抜けになっているこじんまりした共有スペースへ着いた。
「タタとカラカラは、先に寝といてよ。俺は金庫バアに会ってくるから」
「おう。じゃあな」
「おやすみ」
疲れ切った様子のタタとカラカラは、異論をまったく口にせず、共有スペースの右にある階段を上って行った。そのまま二人とも無言で203と書かれた部屋のドアに向かった。
タタが軽くノックしてドアを開けると、豆電球の明かりがついていた。9人部屋であるが、すでに眠っている何人かのいびきが、1階のシェイドにまで聞こえた。
まだ起きている者もいたようで、二人に声がかかった。
「遅くまで何やってたんだ、てめえら。おい、シェイドどうした」
「うるせえ。殺すぞ」
タタの剣呑な返事が、カラカラが閉めかけたドアから漏れ出た。ドアが閉まると話し声は聞こえなくなった。
シェイドは二人を見送った後、自分も階段を上りだした。エレベーターもあるが、使う権利がなかった。金庫バアは、別宅にいることが多いが、今日はこのアパートメントの8階に来ていると聞いていた。
2階を過ぎて3階まで着くと、廊下にたむろするチームがいてシェイドを一斉に見た。12、3才の3人の少年たちは、酒瓶片手に赤い顔をしていた。
「シェイドじゃねえか。どこ行くんだ」
「ヒルダのとこだろ。このガキ、ヒルダのお気に入りだからよ」
「おい、もうやったのか?」
ゲラゲラと笑う3人を無視して、シェイドは階段を上った。
「無視してんじゃねーよ、くそガキ!」
「もう、たってんじゃねーの?」
ギャアギャア囃す声が響いてきた。シェイドは胸の奥に苛立ちを感じた。シェイドの中には、底知れぬ怒りが溜まっていた。
このアパートメントで暮らすようになった初期は、非常にケンカが多かった。
些細なことで、シェイドはキレた。体の奥底から螺旋を描いて噴き出してくる怒りを押さえられなかった。
怒りを抱えていたのは、シェイドばかりではなかった。ここで暮らす子どもたちは皆、大なり小なり怒っていた。毎日、感情の爆発があちこちで起こった。
皆がそうとはいえ、ここに来た当初のシェイドは度を超えて酷かった。大勢ぶちのめし、大勢からぶちのめされた。
シェイドはちょっとした有名人になった。タタは嬉々として、ケンカに便乗した。カラカラは嬉々として、シェイドの傷の手当てをした。そんな時期を経て、シェイドは随分と落ち着いたのだった。
だが、悪意を向けられると、自分の中の悪意が、待ってましたとばかりに応戦しようとする。だいぶん年上にも関わらず、3階にいるようなくだらない連中のせいで、自分がコントロールを失うなんて絶対嫌だ、とシェイドは深呼吸した。
4階を通ると、せっけんの良い香りがした。今度は、濡れ髪をタオルで無造作に巻いた、14、5才の少女たちが、キャミソールとハーフパンツだけの恰好で廊下にいた。
「シェイドだ、かわいい」
「何見てるの?エッチ。でも、かわいいから許す」
シェイドは、どぎまぎしながら一礼し、階段を駆け上った。背中から、キャーやっぱかわいいんですけどー、という声が聞こえてきた。
怒りは湧かないが、どうしていいか分からず戸惑った。
8階に着くころ、シェイドは、階段そのものよりも出会った人たちで疲れていた。
両手で数回、ぴたぴたと頬を叩いてから、廊下を歩きだした。他の階と違い、絨毯が敷かれ、柔らかな光の間接照明がいくつも灯っていた。廊下の中央の扉の前に、金庫バア部屋の当番二人が控えていた。今日は10才ほどの少年たちだった。
「シェイドです。金庫バアに会いたい」
「話し中。待ってろ」
先客がいたようだった。長いとやっかいだとシェイドが思った矢先、内側から扉が開いて、背の高い少年が出てきた。当番の二人が目礼した。
「あれ、シェイド」
背の高い少年は、セピア色のゆるい天然パーマの髪を軽くかきあげ、シェイドに微笑みかけた。
ややまなじりの下がった、いつも眠そうな瞳が、何とものどかだった。シェイドの固くなっていた背中から力が抜けた。
「アニヤさん、こんばんは」
「金庫バアに会いに来たの?俺を探しに来たの?」
「金庫バアです」
「なんだ、残念」
口角をゆるく上げてニッと笑うアニヤに、つられてシェイドはふわっと笑った。シェイドの緩んだ笑顔を見て、アニヤの口元から、くふっと笑み交じりの息がこぼれた。
「今まだ、アネモネが金庫バアと話してるからさ、もうちょっと待ってやって」
「アネモネさんも一緒だったんですか」
「うん。ほら、俺ら16になったでしょ。進路相談」
伸ばした人差し指を唇にあてて、内緒話を装うように、アニヤは言った。シェイドは、アニヤが3日前、16才になったことを、そういえばと思いだした。
金庫バアのアジトには、年齢制限がある。16才から移行期間に入る。最終的に18才までに、生きていく先を決め、出ていかなくてはならない。ここにいる子どもたちは、自分の誕生日を知らない者も多い。その場合、金庫バアに拾われた日が誕生日と定められていた。お前は今日から5才だ、というふうに、金庫バアに告げられるのだった。
ここを出た後の子どもたちといえば、オウド地区で個人的にスリを続ける者もいた。売春をする者もいた。勿論、昼の仕事にありつく者もいる。もっと何でもありの闇街シッコク地区に流れる者もいる。優れた力を持ち、運にも恵まれた場合には、市街ミドリ地区で成功者となる者もあった。
「アニヤさん、もうどこかに行ってしまうんですか?」
「まだまだ。ただの相談だよ。あ、終わったみたいだ」
扉が開き、銀髪ショートカットで褐色の肌の少女が出てきた。すらりと背筋の伸びたその少女は、当番の目礼を受けながら、すぐにアニヤとシェイドのもとへやってきた。
「シェイド、私に会いに来たの?」
「金庫バアです」
「アネモネ、それじゃあ、俺と同じこと言ってる」
「本当?かぶっちゃったな」
のんびりとしたハスキーな声が、笑みをにじませた。アネモネもアニヤと同様、シャープな外見に反してのどかなテンポを持っていた。
この二人はチームだった。3人目は、仕事をしくじって死んだという噂だった。3人一組が基本であるため、金庫バアはもう一人加えることを提案した。だが、二人が断ったらしい。
二人はこう見えて、金庫バアの組織の中で最も稼ぎ出すエースチームだった。長い間、不動のエースだった二人の進路は、密やかに耳目を集めていた。
「行こうか、アネモネ」
「うん。またね、シェイド」
「おやすみなさい。アニヤさん、アネモネさん」
階段に消えていく二人を、シェイドは見送った。二人ののどかさが、シェイドはとても好きだった。
アニヤとアネモネは、シェイドのチームの教育係でもあった。年少のチームには、年長のチームが教育係として配置される。チームの編成や配置は、すべて金庫バアが決める。
シェイドのチームの教育係がエースチームと決まった時、誰もが驚いた。そもそも、エースチームはあらゆる雑務を免除されていた。それが急に教育係を任命され、しかも、当時まだ荒れ放題だった問題児シェイドのチームの担当である。
いろいろな噂が流れたが、真実は誰にも分からなかった。シェイドたちは妬まれたが、幸運だった。アニヤもアネモネも、惜しみなく何でも教えた。
シェイドがほどなく落ち着いたのは、二人のおかげも大きかった。たった2年の期間であったが、その間にシェイドのチームは他を引き離す成長を見せていた。
当番が金庫バアに確認をとり、シェイドの入室が許可された。
大きな姿見が壁にはめ込まれた小部屋を抜け、入り口に垂れさがる幾重ものカーテンをくぐり、金庫バアの部屋へ入った。
動物の剥製や、古い壺や鎧といった古美術品が、壁際にずらりと並んでいた。広い部屋の真ん中に大きな執務机があり、金庫バアが座っていた。金庫バアは、鼻の上に小さな眼鏡を載せ、何か書き物をしていた。
「失礼します」
シェイドは執務机の前まで、歩いて行った。
「シェイドです。報告に来ました」
金庫バアは書き物の手を止め、顔を上げた。眼鏡を外し、右手で目をもみながら、顎でシェイドを促した。
シェイドは、ナイロンバッグから財布を取り出し、執務机に置いた。金庫バアは財布を取り、中を改めた。札を数えながら、聞いた。
「どうやった」
稼ぎがある程度の高額の場合、金庫バアは仕事の中身を聞いて確認する。このところ、シェイドのチームは、金庫バアに尋ねられることが多かった。
他の仕事と並行して、数ヶ月前から下調べしていたこと。ミドリ地区の繁華街にある高級パブの客をターゲットにしたこと。給料日を狙ったこと。客が帰宅する電車の駅をチェックしたこと。有名塾の鞄を盗んだこと。シナリオを描いて3人で練習したこと。本日実行したこと。
以上のような内容を、シェイドは説明した。
「そうかい」
金庫バアはシェイドに背を向け、背後の棚に並ぶファイルの一つを取り出した。眼鏡をかけ直し、机にファイルを広げ、じっくりと見た。
指でたどりながら読み、羽ペンを取り上げ、何かを書き加えた。金庫バアは眼鏡を外し、灰色の目でシェイドをまっすぐ見た。シェイドは軽い既視感にとらわれた。
「お前らのチームは明日から5階だ」
シェイドの頭と胸と両方が、カッと熱くなった。よい部屋をそろそろ与えられるとは思っていた。しかし、いきなり3、4階を飛び越して5階に部屋を与えられるとは思ってもみなかった。
「3人部屋だ。午後には移れるようにしとくから、明日、ヒルダに聞きな」
ヒルダは子どもたちの世話役の女性だった。シェイドはヒルダを好きではなかったが、こればかりは仕方がない。何より、3人だけで一部屋を独占できることがうれしかった。
「ありがとうございます。では、失礼します」
シェイドが喜びを隠せない声で挨拶をし、帰ろうとした時、金庫バアが声をかけた。
「お待ち」
「何ですか」
「1枚も抜いてないだろう」
「はい」
「賢しいね。持って行きな。ご祝儀だ」
金庫バアは、お札を3枚差し出した。シェイドは受け取り、一礼して、部屋を辞した。
扉に控える当番の少年たちは、出てきたシェイドを一瞥もしなかった。シェイドは気にもしなかった。
疲れは吹き飛び、体中が熱を持っていた。激しく覚醒し、眠れるかどうか怪しかった。浮き立つ足取りのシェイドの胸の中を、さまざまな思いが駆けめぐっていた。
タタとカラカラはどんな顔をするだろうか。3人部屋は、どれほどいい気分なのだろう。アニヤとアネモネも驚くだろうか。祝福してくれるだろうか。
金庫バアは、自分たちの力を認めたのだ。他のチームのやつらがうるさいかもしれない。向こうから仕掛けてきたら、迎え撃ってやろう。だが、自分たちはこんなものではない。もっと稼げるのだ。もっと上に行ける。自分たちは。自分は。自分は?
自分はなぜここにいるのだろう。
シェイドは5階の踊り場で足をとめた。こんなに高揚した深夜にさえ差し込んでくるその感覚に、シェイドは愕然とした。冷や水を浴びせられたように、熱が静まっていた。シェイドは両手で顔をごしごしこすり、次には頭をぶんぶん左右に振った。
高揚の残滓を体内に感じるが、もはや浮き立つような熱は帰ってはこなかった。なぜ、という疑問もすぐに遠ざかり、後には茫然とした自分が残った。
シェイドは、階段に座り頬杖をついた。自分には何かあるのだろうとぼんやり思った。内側から沸き立つものか、外側から与えられるものか、おそらく何かが足りないから、見えないのだろう。
よく分からないけれど、足りないものがほしい。そうだ、ずっと何かがほしかったのではないか。
部屋を手に入れた夜、シェイドは一人階段の踊り場で、自分の中にある曖昧な欲求に気づいた。ただそれは明確な形を持たなかった。漠然としたまま、得も言われぬ渇望として、それはシェイドに宿ったのだった。