幽霊
*
部屋の外も中も蒸し暑い。こんなとき背筋がひんやりする幽霊でも出てきたら、と思う昼間だった。俺はずっと自宅アパートの中で畳の上に寝そべったまま、ゆっくりと呼吸を繰り返している。さすがにそんな願いは叶いそうにない。ずっと蒸し暑いまま、辛うじてエアコンを入れていたのだが、あまり利いてなかった。現に蒸し暑いままである。深呼吸しながら、時折何か線香の煙のようなものの臭気が漂ってくるのを感じた。嗅覚はいい方である。しばらく息を殺してじっと我慢していたのだが、やがて起き出し、辺りを見渡した。上等じゃないか。幽霊でも出てきたら退散させてやる。そう思って、まずキッチンへと入っていった。わずかに水に入ったカルキ臭がするだけで後は何もない。ゆっくりと風呂場へ向かう。昼間だから電気を付けないのだが、微かに何かが聞こえているような気がしていた。何かがむせび泣くような声が漏れ出ていた。これはまさか――、そう思ったとき、いきなり背後に死霊のようなものが現れる。
「わっ」
仰け反った。さすがにそうするしかないだろう。俺も生霊・死霊問わず、ホラービデオ以外では本物の幽霊など見たことがない。それに今目の前にいる霊はかなり手強そうだ。ゆっくりと霊に近付き言った。
「誰だ、お前?」
*
「あたし、マナ子」
「マナ子?」
「うん。小さいときに死んじゃったの。悪いオジサンから井戸に突き落とされて」
「悪いオジサン?……突き落とされた?」
「そうよ。そのオジサン、誰かに似てるの」
「誰かって……誰だ?」
するとマナ子の霊が、
「お前だ!」
といきなり言って、いつの間にか風呂場のバスタブに張ってあった水に俺を沈めようとする。どうにもならないと思っていたのだし、やがてマナ子が上に乗っかってきて、無理やり封じ込めようとした。どうしようもなく抵抗できないぐらい、強い感じで抑え込まれている。何か因縁でもあるかのようだ。力の限り抵抗する。「俺の何が悪いんだ?」と言って。するとマナ子が、
「あたしを井戸に落としたオジサンがあなたに似てるから、殺すのよ」
と言い、俺の喉に手を当てて、封じ込める手を更に強める。さすがに限界が来て、この世での最後に一言、
「本当は俺の何が悪かったんだ?教えてくれ」
と言った。
「あなたの行動が気に入らない」
「そんなに憎いのか?」
「そうよ。あなたみたいに心霊現象を面白がる人間がいるから、不愉快になるのよ」
「俺はそんなことしてない!」
「ウソ。あなた、このアパートで霊探してたでしょ?面白半分で」
完全に見抜かれていた。そして同時に息も苦しくなる。どうしようもなかった。やはりこの小娘から殺されるのか……?そう思うと、いてもたってもいられなくなる。ただ、せめて今生での最後ぐらいは抵抗したい。持っている力を出し切り、最後の抵抗を試みた。だがもう無理だ。完全にマナ子にやられている。二度と起き上がることなく、ゆっくりとマナ子から絞め殺されていた。息が止まる瞬間までは辛うじて覚えていて……。思わず宙を凝視した。両の目が飛び出そうなぐらい。完全にマナ子の霊からやられたのだ。彼女を井戸に突き落として殺した悪いオジサンという人にたまたま似ていただけなのに……。
*
「この手の事件が続くな」
「ええ。多分あれでしょ?」
「ああ。俺も今そう思ってた」
自宅アパートを管轄地域とする所轄の刑事たちに加えて、県警捜査一課の人間たちも臨場していたし、俺の死体を検視した検視官も現場にいる。だがもう死んだのだ。俺の霊魂は彷徨ったままである。あの夜とこの世の境目を。そして所轄の警部補である刑事課強行犯係長の麻沼が、捜査一課の警部で同じく係長職にある田上に耳打ちする。
「田上警部、きっとこの仏さんもあの霊にやられたんですよ。この死に方だと」
「ああ。この遺体の損傷状況から見て、おそらく例のマナ子の幽霊の仕業だろ?」
「私もそう思います。あの怨霊はおぞましいですからね。警察の科学的捜査を舐めてますし」
「だが、この世の中には科学的に証明出来ないことが山ほどある。俺もそういったことはあまり信じたくないんだが……」
「ひとまず司法解剖しましょう。それが先決です」
麻沼がそう言って嵌めていた白手袋を外し、部屋出入り口から外へと歩き出す。俺自身、死んでしまったのだ。もう何も残ってない。単に宙を浮遊する霊と化しているだけである。そしてまるでバトンでも回すかのように、霊界に辿り着いた俺に指令が下った。次は県警捜査一課警部の田上を襲えと。考えてみれば、この連鎖で霊界に次々と人間を引っ張り込む必要性があったのだ。この手の話は満更ウソじゃない。現に命令された俺の霊は田上の自宅マンション近辺を浮遊中なのだったし……。あの男を殺せば、次はその人間が霊になる。マナ子の霊は先導役だったのだ。普通の人間を闇である霊界へと導くための悪い霊だった。その連鎖が続き、霊界の人口が更に増える。まるで全てが繋がってでもいるかのように。ルーレットは回り続けているのだった。絶えることなくずっと。
(了)