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「まだ、物語の途中」  作者: 加藤一八


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1/1

かべ、カベ、壁

「いや、これ、社会人として初歩的なことですよ」


その言葉が、胸に刺さった。


「……はい」


俺は、それしか言えなかった。


言い返せなかったというより、言い返す言葉が見つからなかった。


自分でも分かっている。


言われたことは、間違っていない。


確認すべきことを確認していなかった。

報告すべきことを、適切なタイミングで報告できていなかった。


四十歳を過ぎた社会人として、それが褒められたことではないのは、俺自身が一番よく分かっている。


それでも、この言葉は胸に深く刺さった。


社会人として初歩的。


俺は、これまで何をしてきたんだろう。


四十歳を過ぎるまで、何年社会人をやってきたと思っている。


これまでだって、仕事をしてこなかったわけじゃない。


むしろ、誰よりも情熱を持って必死でやってきた自負がある。


それなのに。


今の俺は、まるで何も知らない新人のようだった。


いや。


新人なら、まだいい。


「これから覚えていけばいいんだ」と思える。


俺はそうじゃない。


これまでの経験がある。

これまで積み上げてきたものがある。


だからこそ、できて当然だし、周りからはそう見られる。


そして、できていない自分を見るたびに思う。


――俺は、今まで何を積み上げてきたんだろう。


転職して、まだそれほど時間は経っていない。


今の職場は、これまでとは少し違った。


以前の職場では、小さな会社を中心に、税務や会計の仕事をしてきた。


分からないことがあれば調べた。

経験したことのないことがあれば、過去の資料を探した。


そうやって四年間、仕事をしてきた。


お客さんからの評判も悪くなかった。


「担当を変えないでほしい」


そう言われたお客さんは、一つや二つではない。

担当したお客さんのほとんどがそうだった。


「代表には相談したくない。でも、あなたには相談したい」


そう言う社長さんまでいた。


だから、自分では、それなりに仕事ができる人間だと思っていたのかもしれない。


少なくとも、これまでの経験があれば、どこへ行ってもある程度はやれる。


そんなふうに思っていた。


ところが、環境が変わると、それが簡単に崩れた。


今まで見えていなかったものが、次々と見えてくる。


自分が知らなかったこと。

曖昧なまま覚えていたこと。

分かったつもりになっていたこと。


そして、それを自分よりずっと若い人間が、当たり前のように理解している。


その人たちから、仕事を教えてもらうこともある。


それが嫌なわけではない。


知らないことを知る。

それは、むしろありがたいことだ。


ただ、教えてもらうたびに思う。


「ああ、そういうことだったのか」


そして同時に、


「俺は今まで、何をやっていたんだ」


とも思う。


悔しい。

情けない。


それでも、逃げ出したいわけではなかった。


もう一度、できるようになりたい。


その気持ちは、まだ残っていた。


今の職場には、二十代、三十代の人間が多い。


俺が今になって始めたことを、彼らはもっと若いうちからやっている。


俺が遠回りしてきた道を、彼らはこれから最短距離で歩いていく。


そう思うと――


周りが輝いて見えた。


事実、彼らにはこれから輝かしい未来が待っている。


家に帰る頃には、子供たちはもう寝ている。


もうずっと、家族で食卓を囲んでいない。


こんな生活でも、妻は不満を漏らすことなく、「お疲れ様」と迎えてくれる。


五月には、わずか一週間の間に、両親が相次いで救急搬送された。


今は、その両親の介護もある。


家族のこと。

仕事のこと。

これからのこと。


考え始めると、頭の中がいっぱいになる。


妻が作ってくれたツマミを口に含み、酒を注ぐ。


「ここ最近、料理してないな……」


そんなことを思いながら、一口飲む。


「はぁ……疲れたな」


家族がいる。


子供たちの成長も嬉しい。


妻との何気ない会話も楽しい。


幸せは、ちゃんとある。


でも、何かが違う。


ボタンをかけはぐったほどではない。


それでも、なんだか噛み合っていない。


それがなんなのかが、わからない……。


そのときだった。


外からサイレンが聞こえた。


消防車だ。


赤い光が窓を横切る。


「……懐かしいな」


防火衣。

無線。

仲間。

現場。


火事臭さ。


一瞬で、昔の空気が蘇った。


俺は、大学卒業後から三十六歳まで消防吏員として、市民の生命、身体、財産を守るため、消防行政に従事した。


過酷な現場はいくつもあった。


被災者のことを思うと、胸が締め付けられることもあった。


それでも、これらを理由に辞めたいと思ったことは、一度もなかった。


むしろ、若い時だからこそ経験するものだと考えていたくらいだ。


それでも、俺は踏ん張ってきた。


そして、いつかそれを乗り越えてきた。


今も、あの頃と同じように苦しい。


また、辛い壁……。


サイレンが遠ざかっていく。


静かになった部屋で、俺はグラスを見つめた。


――俺は、道を間違えたのだろうか……。


俺はスマートフォンを手に取った。


最近、ときどきAIに相談している。


人間には話しにくいことでも、AIなら話せる。


慰めてくれるわけじゃない。


聞けば、事実を答えるだけだ。


それでも、何かにすがりたかった。


俺は画面を開いた。


少し迷ってから、文字を打つ。


『俺の人生って、これでいいのかな』


少しして、返事が来た。


『「良い人生」の定義は個人によって異なります。』


「……まあ、そうだよな」


続けて、いくつかの項目が表示された。


『経済的な安定』


『健康』


『家族との良好な関係』


『仕事への満足感』


『良好な人間関係』


『趣味や余暇の充実』


『自己成長の実感』


俺は画面を眺めた。


経済的には、生活できている。


家族もいる。


子供も元気だ。


妻との関係も悪くない。


料理も好きだ。


「……」


俺は苦笑した。


「じゃあ、俺は幸せじゃないか」


『現在の情報のみから判断すると、幸福度が低いと判断する明確な根拠はありません。』


「……はは」


やっぱり、そうなるか。


スマートフォンを伏せる。


違う。


俺が聞きたかったのは、そんなことじゃない。


でも――


何を聞きたかったのか、自分でも分からなかった。


「……なんだか、疲れたな」


そう呟いて、目を閉じる。


その夜は、それ以上ナビに話しかけなかった。


ただ、眠りにつく直前。


なぜか、あの言葉だけが頭に残っていた。


**『自己成長の実感』**


俺は本当に、成長しているのだろうか。


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