かべ、カベ、壁
「いや、これ、社会人として初歩的なことですよ」
その言葉が、胸に刺さった。
「……はい」
俺は、それしか言えなかった。
言い返せなかったというより、言い返す言葉が見つからなかった。
自分でも分かっている。
言われたことは、間違っていない。
確認すべきことを確認していなかった。
報告すべきことを、適切なタイミングで報告できていなかった。
四十歳を過ぎた社会人として、それが褒められたことではないのは、俺自身が一番よく分かっている。
それでも、この言葉は胸に深く刺さった。
社会人として初歩的。
俺は、これまで何をしてきたんだろう。
四十歳を過ぎるまで、何年社会人をやってきたと思っている。
これまでだって、仕事をしてこなかったわけじゃない。
むしろ、誰よりも情熱を持って必死でやってきた自負がある。
それなのに。
今の俺は、まるで何も知らない新人のようだった。
いや。
新人なら、まだいい。
「これから覚えていけばいいんだ」と思える。
俺はそうじゃない。
これまでの経験がある。
これまで積み上げてきたものがある。
だからこそ、できて当然だし、周りからはそう見られる。
そして、できていない自分を見るたびに思う。
――俺は、今まで何を積み上げてきたんだろう。
転職して、まだそれほど時間は経っていない。
今の職場は、これまでとは少し違った。
以前の職場では、小さな会社を中心に、税務や会計の仕事をしてきた。
分からないことがあれば調べた。
経験したことのないことがあれば、過去の資料を探した。
そうやって四年間、仕事をしてきた。
お客さんからの評判も悪くなかった。
「担当を変えないでほしい」
そう言われたお客さんは、一つや二つではない。
担当したお客さんのほとんどがそうだった。
「代表には相談したくない。でも、あなたには相談したい」
そう言う社長さんまでいた。
だから、自分では、それなりに仕事ができる人間だと思っていたのかもしれない。
少なくとも、これまでの経験があれば、どこへ行ってもある程度はやれる。
そんなふうに思っていた。
ところが、環境が変わると、それが簡単に崩れた。
今まで見えていなかったものが、次々と見えてくる。
自分が知らなかったこと。
曖昧なまま覚えていたこと。
分かったつもりになっていたこと。
そして、それを自分よりずっと若い人間が、当たり前のように理解している。
その人たちから、仕事を教えてもらうこともある。
それが嫌なわけではない。
知らないことを知る。
それは、むしろありがたいことだ。
ただ、教えてもらうたびに思う。
「ああ、そういうことだったのか」
そして同時に、
「俺は今まで、何をやっていたんだ」
とも思う。
悔しい。
情けない。
それでも、逃げ出したいわけではなかった。
もう一度、できるようになりたい。
その気持ちは、まだ残っていた。
今の職場には、二十代、三十代の人間が多い。
俺が今になって始めたことを、彼らはもっと若いうちからやっている。
俺が遠回りしてきた道を、彼らはこれから最短距離で歩いていく。
そう思うと――
周りが輝いて見えた。
事実、彼らにはこれから輝かしい未来が待っている。
家に帰る頃には、子供たちはもう寝ている。
もうずっと、家族で食卓を囲んでいない。
こんな生活でも、妻は不満を漏らすことなく、「お疲れ様」と迎えてくれる。
五月には、わずか一週間の間に、両親が相次いで救急搬送された。
今は、その両親の介護もある。
家族のこと。
仕事のこと。
これからのこと。
考え始めると、頭の中がいっぱいになる。
妻が作ってくれたツマミを口に含み、酒を注ぐ。
「ここ最近、料理してないな……」
そんなことを思いながら、一口飲む。
「はぁ……疲れたな」
家族がいる。
子供たちの成長も嬉しい。
妻との何気ない会話も楽しい。
幸せは、ちゃんとある。
でも、何かが違う。
ボタンをかけはぐったほどではない。
それでも、なんだか噛み合っていない。
それがなんなのかが、わからない……。
そのときだった。
外からサイレンが聞こえた。
消防車だ。
赤い光が窓を横切る。
「……懐かしいな」
防火衣。
無線。
仲間。
現場。
火事臭さ。
一瞬で、昔の空気が蘇った。
俺は、大学卒業後から三十六歳まで消防吏員として、市民の生命、身体、財産を守るため、消防行政に従事した。
過酷な現場はいくつもあった。
被災者のことを思うと、胸が締め付けられることもあった。
それでも、これらを理由に辞めたいと思ったことは、一度もなかった。
むしろ、若い時だからこそ経験するものだと考えていたくらいだ。
それでも、俺は踏ん張ってきた。
そして、いつかそれを乗り越えてきた。
今も、あの頃と同じように苦しい。
また、辛い壁……。
サイレンが遠ざかっていく。
静かになった部屋で、俺はグラスを見つめた。
――俺は、道を間違えたのだろうか……。
俺はスマートフォンを手に取った。
最近、ときどきAIに相談している。
人間には話しにくいことでも、AIなら話せる。
慰めてくれるわけじゃない。
聞けば、事実を答えるだけだ。
それでも、何かにすがりたかった。
俺は画面を開いた。
少し迷ってから、文字を打つ。
『俺の人生って、これでいいのかな』
少しして、返事が来た。
『「良い人生」の定義は個人によって異なります。』
「……まあ、そうだよな」
続けて、いくつかの項目が表示された。
『経済的な安定』
『健康』
『家族との良好な関係』
『仕事への満足感』
『良好な人間関係』
『趣味や余暇の充実』
『自己成長の実感』
俺は画面を眺めた。
経済的には、生活できている。
家族もいる。
子供も元気だ。
妻との関係も悪くない。
料理も好きだ。
「……」
俺は苦笑した。
「じゃあ、俺は幸せじゃないか」
『現在の情報のみから判断すると、幸福度が低いと判断する明確な根拠はありません。』
「……はは」
やっぱり、そうなるか。
スマートフォンを伏せる。
違う。
俺が聞きたかったのは、そんなことじゃない。
でも――
何を聞きたかったのか、自分でも分からなかった。
「……なんだか、疲れたな」
そう呟いて、目を閉じる。
その夜は、それ以上ナビに話しかけなかった。
ただ、眠りにつく直前。
なぜか、あの言葉だけが頭に残っていた。
**『自己成長の実感』**
俺は本当に、成長しているのだろうか。




