第27話 都市の夢(アオト視点)
眠れない夜が続いていた。
正確には――眠っている“はず”なのに、脳が休まらない。
瞼を閉じれば、黒は来ない。
代わりに、街が来る。
ファランシアの石畳。
崩れた柱。
地下を這う配管。
冷えた空気の層。
それらが、夢のふりをして僕の中へ流れ込んでくる。
(……またか)
義手の奥が、鈍く熱い。
寝返りを打とうとしても、床の硬さが“情報”として刺さってくる。
この石畳はどこが脆い。
この壁はあと何時間持つ。
地下水の残量。
人の呼吸数。
心拍の乱れ。
――数えるな。
自分に言い聞かせる。
けれど、止められない。
街が僕を“使っている”のではない。
僕が街を“見てしまう”。
そしてその視界は、日に日に深くなる。
◆
夢は、映像じゃなかった。
それが一番きつい。
映像なら、まだ“外”だ。
見ているだけで済む。
でも、これは――内側から来る。
最初に来たのは、匂いだった。
焦げた石の匂い。
雨が降る前の土の匂い。
血と鉄が混じった、乾いた匂い。
次に来たのは、温度。
暖かい。
熱い。
焼ける。
冷たい。
凍える。
その温度の変化に、意味がある。
火が回った。
人が倒れた。
誰かが扉を閉めた。
誰かが逃げ遅れた。
耳には音が入らない。
代わりに、“音の欠落”が入ってくる。
さっきまであった足音が、急に消える。
笑い声が、霧散する。
叫びが、途中で途切れる。
――静かになる。
その静けさが、骨にくる。
(やめろ)
口の中で呟く。
でも、夢は止まらない。
誰かの手の震えが、僕の指先に移る。
誰かの息が詰まる瞬間が、僕の喉を締める。
誰かの「もういい」という諦めが、僕の胸の奥に沈む。
僕は、街の記録を見ている。
いや。
“街の記録の中にいる”。
それが、都市の夢だった。
◆
次の夜。
僕は自分の名前を忘れかけた。
夢の中で、誰かが呼んだ。
確かに呼ばれた。
でも、その声が「アオト」だったのか、「管理者」だったのか、判別できない。
目を開けた瞬間、僕は反射的に言った。
「……遮蔽率、下がってる」
誰もいない。
仮拠点の暗がり。
焚き火の残り火が、かすかに赤い。
言ってから気づく。
(今のは……僕の言葉じゃない)
口が勝手に動いた。
脳が、街の状態を口に出した。
僕は義手を握り、奥歯を噛んだ。
(境界が……薄くなってる)
恐怖は、死よりもそこにあった。
僕が消えるわけじゃない。
でも、僕の輪郭が溶けていく。
都市に溶ける。
情報に溶ける。
“必要な処理”に溶ける。
その時。
義手が、微かに脈打った。
《内部同期:微増》
《都市基盤:深層応答、断片的に確認》
――深層。
言葉だけで、背筋が冷える。
そこに届いたら、戻ってこれない気がした。
◆
翌朝。
セリナが、僕の顔を見て目を細めた。
「……眠れてないわね」
「少しは」
嘘じゃない。
眠った時間はある。
でも、眠っている間も働かされている。
それをどう説明すればいいのか分からなかった。
セリナは何も追及せず、焚き火の方へ視線を向けた。
人が少ない。
声が小さい。
配給の列が短い。
街が削られている。
刃物で切り取られるように、外側から生活が消えていく。
「……来ないわね」
セリナが、ぽつりと言う。
「うん」
僕は地面に指を当てないようにして、空気の“密度”だけで街を測った。
外縁の断絶。
物流の停止。
風の死。
虫の不在。
檻が完成している。
でも、七聖の攻撃は来ない。
それが一番、悪質だった。
攻撃なら、戦える。
反撃もできる。
覚悟も決まる。
だけど、これは“待つ”戦いだ。
いや、“待たされる”処分だ。
生存の余白を削り、こちらが勝手に崩れるのを観測する。
(……ノクス)
仮面の観測者の顔が、頭をよぎる。
あの目は、戦場の目じゃない。
解剖台の目だ。
◆
昼。
エリーナが、僕を引っ張って外へ連れ出した。
「今日は地面禁止です」
「……命令?」
「命令です」
冗談っぽい口調。
でも、目が本気だった。
僕は苦笑して頷いた。
「分かった」
地面から離れる。
それだけで、視界が“軽く”なる。
情報が遠ざかる。
街の声が薄れる。
普通なら安心するはずだ。
でも僕は、喉の奥が乾くのを感じた。
静かになると、怖い。
街が遠ざかると、僕が何者でもなくなった気がする。
(……依存してるのか?)
自分の中で、何かが軋んだ。
その瞬間、ふっと、都市の夢が“昼”に侵食してきた。
焚き火の匂いが変わる。
炎の色が変わる。
人の影が、ほんの一瞬だけ“違う”配置になる。
――違う。
これは今じゃない。
記録だ。過去だ。
瓦礫の通りに、誰かが走っている。
背中が小さい。
子どもだ。
次の瞬間、音が消える。
足音が消える。
世界が、真っ白になる。
僕は反射的に手を伸ばした。
「待て――!」
指先が空を掻く。
エリーナが驚いた顔で僕を見る。
「アオト?」
僕は息を荒くして、首を振った。
「……なんでもない」
でも、胸の奥が冷え切っていた。
(今のは……僕の記憶じゃない)
知らない。
見たことがない。
でも確かに、“触れた”。
都市の記録が、僕の現実に混ざり始めている。
◆
夜。
僕は一人で座っていた。
焚き火の輪から少し離れた場所。
地面には触れない。
触れたら、戻れなくなる気がしたから。
それでも、街は来る。
今度は、圧力だった。
地下深部から、巨大な何かが“息を吸う”感覚。
街全体が、わずかに沈む。
そして、静かに持ち上がる。
鼓動。
ファランシアの鼓動。
その鼓動に合わせて、僕の心臓が一拍ずれる。
――合わせてくる。
(都市が……僕を見てる?)
言葉じゃない。
視線でもない。
でも確かに、“観察”がある。
僕がどこまで耐えるか。
どこで折れるか。
どこで“手放す”か。
街は僕を拒絶していない。
同時に、僕に従ってもいない。
必要としている。
でも、支配しない。
ただ――確かめている。
その時、義手の奥で、微かな“形”が変わった。
カチ、と。
金属が噛み合う音。
投影が、勝手に開く。
《深層アクセス:候補》
《認証条件:未達》
《観測継続》
観測。
七聖だけじゃない。
都市も観測している。
僕は、唇を噛んだ。
(……僕は、試されてる)
七聖に。
都市に。
そして、自分自身に。
◆
ふと、セリナの声が背後からした。
「アオト」
振り返ると、彼女が立っていた。
焚き火の明かりが、銀の髪を揺らす。
「眠れないの?」
「うん」
短く答える。
長く言えば、境界が崩れる。
そう思ってしまう自分が怖い。
セリナは隣に座り、しばらく黙って炎を見ていた。
そして、静かに言った。
「あなた、遠くなってる」
心臓が、ひゅっと縮む。
僕は笑おうとした。
でも、口元が動かない。
「……気のせいだよ」
セリナは首を振った。
「気のせいじゃない。分かる」
一拍。
「あなたが何かを背負ってることも、分かる」
僕は、視線を逸らした。
言えば、壊れる。
言わなくても、壊れる。
どちらにしても、時間は少ない。
七聖は、急がない。
急ぐ必要がない。
僕の限界が先に来るのを知っているから。
セリナが、僕の手を取った。
義手じゃない方。
冷たくなりかけていた右手。
「アオト」
彼女の声が、はっきりと僕を呼んだ。
その“呼び方”が、救いだった。
管理者じゃない。
鍵じゃない。
都市の部品じゃない。
アオト。
僕は、ようやく息を吐いた。
「……セリナ」
それだけで、少しだけ戻れた気がした。
けれど、同時に分かってしまう。
街は、僕を呼んでいる。
七聖は、僕を削っている。
そして――
都市は、選択の準備を始めている。
深層が、眠りから起き上がる直前の、あの重さ。
僕は、震える指で義手を握りしめた。
(次は、夢じゃ済まない)
都市の鼓動が、もう一段、強くなった。
まるで――
「目を開く前の合図」みたいに。
そしてその夜、ファランシアの外縁で、またひとつ。
見えない包囲が閉じる音がした。




