第26話 削られていく日常(ファランシア視点・群像)
最初に消えたのは、日常の「輪郭」だった。
焚き火の爆ぜる音が、夜の静寂に吸い込まれるように小さくなった。
人々の笑い声は霧散し、夜の見張りで交わされる軽口は、生きるために必要な最低限の「信号」へと置き換わっていく。
誰も「何かが起きている」とは口にしない。
言霊となって、この薄氷のような平穏を割ってしまうのが怖かった。
◆
灰色の空の下、配給所の前に死んだような列が伸びていた。
列が短いのは、秩序が保たれているからではない。人々から、怒るためのエネルギーさえ奪われ始めているからだ。
「……これで、今日の分は終わりだ」
木箱の底が虚しく石畳を叩く音が響くと、誰かが短く息を呑んだ。
水袋の数は足りている。だが、その中身は昨日より明らかに軽い。
奪い合いは起きなかった。ただ、泥のように濁った瞳で互いの順番を確認し、機械的に列を離れていく。その生気のない譲り合いが、どんな罵声よりも恐ろしかった。
◆
アオトは、石畳に触れていなかった。
代わりに、冷たい壁に背を預け、虚空を見つめている。
呼吸は浅く、胸の上下もわずかだ。
(……まだ、耐えられる。接続しなくても、計算は合う)
そう自分に言い聞かせ、地面から意識を離す。
触れれば、分かってしまうからだ。この街の隅々で、誰の心臓がどれほど弱っているかまで。
「アオト」
セリナの声。彼はゆっくりと目を向けたが、その瞳はセリナの顔を捉えるより先に、背後の瓦礫の耐久値をスキャンするように無機質に彷徨った。
「配給の備蓄が、底を突きかけているわ。このままだと……」
「……ああ。想定内だ。あと四日で全在庫がゼロになる」
一拍の間もない、効率化された即答。
セリナの不安を共有する「人間としての間」さえ、今の彼には無駄なリソースだった。
「外には、出られそう……?」
「無意味だ。包囲の収束率は現時点で九十八パーセント。出口が存在する確率は、限りなくゼロに近い」
平坦な、事実の羅列。
セリナが、震える自分の指先を隠すように握りしめたことに、彼は気づかない。……あるいは、気づいても「生存に不要なノイズ」として処理してしまったのか。
◆
エリーナは、地を這うような低空を飛んでいた。
高く上がれば、風が死んでいる。
低く飛べば、風は狂ったように乱れる。
その「生存圏」の境目が、刻一刻と街の中心へと寄ってきている。
(……昨日より、三メートル近い)
外縁に張られた、見えない断絶の線。
そこを越えた風は、二度と戻ってこない。拒絶されるのではない。ただ、存在しなかったかのように消去されるのだ。
「ここから先は、不要である」
そう世界に宣告されたような、絶対的な切断。
◆
夜。焚き火の数は、昨日の半分になった。
誰も命令はしていない。ただ、全員が「明日がないかもしれない」という本能に従い、薪を、そして自分たちの命を節約し始めていた。
バルドが、消えかけの炎の前で腕を組む。
「……なぁ」
「何?」
「これ、本当に戦争かよ」
誰にともなく投げられた言葉。
しばらくして、彼は自嘲気味に吐き捨てた。
「剣も飛んでこねぇ。魔法も撃たれねぇ。……なのに、ただ腹が減って、手足が冷たくなっていく」
それは、誇り高い死さえ許されない「処分」の感覚だった。
◆
深夜。
アオトは、抗いきれずに指先を石畳に触れさせた。
一瞬。脳に砂を流し込まれるような激痛と共に、データの激流が流れ込む。
(……地下水、残り三千リットル。……人心、絶望への閾値まで残り三十二時間。……個体、死者ゼロ。維持可能)
「個体」
かつて「仲間」や「人」と呼んでいたものを、脳内のシステムがそう書き換えた瞬間。
アオトの心臓が、鋭い痛みで跳ねた。
(……僕は、人を物みたいに数えているのか?)
義手を地面から剥がし、彼は暗闇の中で激しく喘いだ。
◆
同時刻。雲海の上。
テンレア主艦のブリッジで、巨大な投影盤が冷たい青白さを放っている。
映し出されているのは、解剖台に乗せられた標本のような「ファランシア」
「……熟してきたわね」
ミハイマールの指先が、投影盤の上でダンスを踊る。
物流、熱源、人々のバイタル。すべてが彼女の手のひらの上で、緩やかな死の曲線を描いていた。
「攻撃は不要。数字が揃えば、街は自ずと崩壊する」
「逃げ道があると、人は希望を持つ。希望があると、無駄に粘る」
ノクスの冷徹な声が、死刑宣告のように響く。
「……さらに閉じろ。希望という名の『不純物』を絞り出すまで」
投影盤の外周が、呼吸を止めるように内側へと縮んだ。
◆
ファランシア。
夜風のひと吹きが、また音もなく消えた。
誰も気づかない。
だが、この街の生命線は、確実にまたひとつ削り取られた。
だが――
基盤レイヤー深層で、微弱な再構築信号が記録された。
都市は、まだ「生存」を放棄していなかった。




