第25話 風が気づいたこと(エリーナ視点)
私は、今日も空へ向かう。
風を掴み、高度を上げると、この街の「呼吸」が手にとるように分かった。
ファランシアは、今日も死んだ魚のような灰色だ。
崩れた時計塔、煤けた石畳、終わりなく続く瓦礫の海。
なのに――そこには、昨日まではなかった「歪な規則性」が芽生えていた。
焚き火の煙は、意思を持っているかのように一定の角度で空を切り。
人々の足音は、無駄のない周期で重なり合う。
(……静かすぎる)
それは平和の静寂ではない。
音が消えたのではなく、すべての音が巨大な何かに「整理」され、吸い込まれていくような、背筋の凍る静けさだ。
私は旋回しながら、街の外縁を舐めるように見下ろした。
見えない線。
そこを越えた瞬間、風がひゅっと味を失った。
鳥は不自然な軌道でその線を避け、虫の羽音さえもそこには届かない。
――檻だ。
物理的な壁よりもはるかに残酷な、概念の切断。
私は震える指で通信石を叩いた。
「カイ。外縁が変……空気が死んでる。風が、そこで削られて消えてる」
『……了解した。すぐに降りろ、エリーナ』
カイの声はいつもより低く、鋼のように硬かった。
◆
地上へ戻ると、空気の重みはさらに増していた。
焚き火のそばではセリナ様が配給の列を整えている。
微笑んでいるけれど、その頬は痛々しいほど削げ、顔色は陶器のように白い。
その少し離れた場所で――アオトが、また石畳に義手を沈めていた。
(まただ……)
最近、この光景が増えた。
アオトが「街に触れている」のではない。街がアオトを「求めている」のだ。
私は音もなく着地し、ゆっくりと彼に近づいた。
「……アオト」
一拍。二拍。
まるで遠い深海から信号が戻ってくるのを待つような、絶望的な間。
ようやく顔を上げた彼の瞳は、私を見ているようで、私の後ろにある瓦礫の「亀裂」をスキャンしているような、無機質な透明感を帯びていた。
「エリーナ……? どうしたの」
「上空、外縁が閉じました。風の通り道が……殺されてる」
アオトは義手を地面につけたまま、感情の欠落した声で頷いた。
「うん。僕も、今それを処理したところだ。……物流も、人の流れも、外側から外科手術みたいに切り離された。もう、一滴の水も入ってこない」
あまりに淡々とした、天気予報のような口調。
私は思わず、彼の義手を両手で掴んだ。
「それ、怖くないんですか……っ!」
アオトは少しだけ首を傾げた。その動きさえも、どこか調整の遅れた機械のように見えた。
「怖い、というより……重いんだ。石畳の下を通る情報の激流が、僕の脳に直接砂を流し込んでくるみたいで」
彼は目を閉じ、愛おしそうに石畳を撫でた。
「でも、止められない。止めたら、この街の『システム』が死ぬ。そうなれば……君たちを守れなくなる」
「じゃあ……私たちが、その重さを半分もらいます!」
アオトが瞬きをした。
「アオトが一人で全部抱えるから、人間じゃなくなっちゃうんです。……浅いところの監視なら、私にだってできます。空を流れる熱量、瓦礫の影の動き。それを私が全部引き受けるから。だから――」
私は彼の、石のように冷たくなった義手を剥がすように持ち上げた。
「お願いです、アオト。……あなたが壊れていくのを見たくない。あなたが便利な『部品』として消えていくのが、七聖が来るよりずっと怖いんです」
アオトの瞳が、かすかに揺れた。
データの海に沈みかけていた彼の意識が、私の手の熱で強引に引き戻される。
「……ありがとう、エリーナ。少しだけ……視界が軽くなった」
その声に、ようやくかすかな「湿り気」が戻った。
けれど、彼が義手を地面から離した瞬間、一瞬だけ、恋人を奪われたような「飢えた目」をして地面を見つめたのを、私は見逃せなかった。
◆
翌朝。私は配給の列の前に立ち、喉が千切れるほどの声を張った。
「今日から、外への薪拾いも水汲みも禁止です! 全部、私たちが代行します!」
不安にざわめく人々に、私は一切の妥協を見せなかった。
怖いのは敵じゃない。
アオトという一人の少年が、この街という巨大な怪物に食い潰されることだ。
アオトが近づいてくる。
「エリーナ、そんな無茶をしたら君の翼が――」
「いいんです。アオトは、今日一日、地面に触らないでください。これは命令です」
私は彼の義手を見た。指先が、まだ地面を求めて微かに震えている。
「あなたが壊れたら、誰が私たちを導くんですか。……あなたは、ここで生きる『人間』でいてください」
アオトの表情が、劇的に揺れた。
“管理者”ではない、“少年”の顔。
「……わかった。少しだけ、休むよ」
その答えに、私の胸の奥が熱くなった。
◆
夕方。街に戻ると、アオトが焚き火のそばに座っていた。
地面には触れず、ただ炎を見つめている。
私はその隣に、そっと寄り添うように座った。
「……今日は、どうですか」
「情報が……遠い。……なんだか、ひどく静かだ」
アオトは少し寂しそうに笑った。その表情を見て、私は心底ホッとした。
「それでいいんです」
「でも、怖いんだ。静かになると、自分が何者でもなくなったみたいで……街が、僕を呼んでいる気がして」
私は迷わず、彼の冷たい手を握り直した。
「街が呼んでも、行かないでください。街が離れても、私たちはここにいます」
アオトが私を見た。その瞳には、はっきりと、迷いと、熱を持った「生」が宿っていた。
「……エリーナ。もし僕が、また街に引っ張られそうになったら」
一拍。
「止めてくれ。何度でも」
その言葉に、私は強く、折れるほど強く頷いた。
「止めます。絶対に。……あなたが私を拾ってくれたみたいに、今度は私が、あなたを街から拾い上げます」
アオトは、ほんの少しだけ笑った。
「……努力するよ」
空を見上げると、包囲の完成を告げる「鐘」のような共鳴音が、死んだ空気を震わせていた。
檻は完成した。
けれど、アオトの瞳にはまだ、火が灯っている。
三日のリミット。
私は、この風を、彼を救うための翼に変えると誓った。
◆
都市基盤レイヤー深層。
管理者接続率、低下。
《補助接続ノード……検出》
《新規感応対象:エリーナ=リヴィエ》
都市は、静かに記録していた。
少年を引き戻した、その“手”を。




