青を映す
久しぶりの投稿です。夏の分岐からかなり成長を感じられた作品になっています。少し長いですが読んでいただけると幸いです。
パシャッ――。
シャッター音が青い丘に微かに反響する。
カメラを下ろすと、ネモフィラの穏やかで優しい香りが、頬を撫でる。胸いっぱいに吸い込むと、青色の風が心の中にまで吹き抜けていった。
撮った写真を確認するが納得がいかない。美しさの本質はどこにあるのだろうか。そんな考えがと頭の中を駆け回る。何か大事なものだった気がするが、母を亡くしてからぽっかりと抜け落ちてしまった。
あの日、私は母の買い出しに付き添うことができなかった。いつもなら、一緒に行っていたのだが、この日は仕事の依頼の電話がかかってきて一緒に行くことができなかった。依頼の電話を終えると、一秒もたたないうちに、携帯の音が部屋に鳴り響いた。依頼主が何か言い忘れたことがあるのだろうと思い、『応答』と書かれたボタンを押す。
「もしもし」
「もしもし、小田切 花様のお電話でよろしいでしょうか」
誰だろうか。とても早口なため心が急かされているのを感じる。
「そうですが……」
「茨城県立中央病院の山下と申します。実は――。」
その後、気づいた時には病室におり、母の
手を強く握りしめていた。病院までどうやってきたのか、どの道を通ってきたのか全く覚えていない。
信号無視をした車に――。
この言葉だけが頭の中でこだまする。後悔の波に飲まれ、抗うことができず、世界から色を奪い去ってしまったかのようだ。
そのせいだろうか、私の撮る写真からも色がなくなり『美しさ』を失ってしまった。
「すみません」
白いワンピースに身を包む女性に声を掛けられ、現実に意識を戻す。その首には、レトロなデジタルカメラをぶら下げている。とてもかわいらしい。『可憐』で、ネモフィラに良く似合う。
「写真を一枚撮ってもらいたいのですが、お願いできますか?」
今の自分にうまく写真が撮れるのか分からない。だが断るわけにもいかないだろう。
私は「構いませんよ」と言いながら、心の中の窓をそっと閉めた。
「合図を出したらシャッターを切ってください」と言われ、カメラを受け取る。撮ってほしい場所へと向かう彼女からは良い匂いが漂ってきた。シトラスだろうか。この爽やかな香りが彼女の存在を際立たせている。
カメラ越しに見る彼女は、どこか寂しそうに感じる。カメラのフィルターのせいだろうか。
カシャ――。
指示はされていないが、試し撮りをしてみる。シャッターに触れている指が、微かに振動している。使っている一眼レフよりもシャッターが重いからだろうか。
「準備できました!」
丘の上から、彼女の黄色い声が聞こえてきた。再びカメラを構える。
「シャッターを切るのは彼女の動作の最高のタイミングで――」
心の中でつぶやき、シャッターに思いを込める。
――あれ?
力が入らない。自分の手に視線を移すと、さっきよりも激しく振動している。
「どうかしましたか?」
そう言って駆け寄ってくる彼女の顔を、見ることができない。「震えて撮れない」と言ってしまったら、幻滅されてしまうのではないか。そんな考えが、恐怖心を孕ませる。
「――大丈夫です。ご心配なさらず」
ここにきて、写真家のプライドが邪魔をする。
「その感じは……」
透き通った茶色い瞳が、私の心を見透かしているみたいだ。隠し通すことはできない。
「――震えてシャッターが切れないんです」 力が抜け、思わず倒れこんでしまった。
「少しお話しませんか?ここで会ったのも何かの縁ですしね」
この人は、私のどこまでのことを見透かしているのだろうか。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。わたしは、蝶野 澄月といいます」
そういってはにかむ彼女に、母の影が重なったような気がした。
「私は、小田切 花って言います」
「花さん!いい名前ですね!」
「ありがとうございます……」
声がかすれてしまった。まるで、久しぶりにしゃべったかのように。
「えっと、花さんの名前は、ご両親のどちらが考えてくれたんですか?」
「母です」
『花!花!』と呼ぶ声が奥の丘から聞こえる。その声の方向に振り向いたがそこには誰もいなかった。記憶の欠片を残して消えた。
「花さん!」
青色の声が耳から流れ込んできた。澄月さんは「何回も言わせないでくださいよ」と、頬を膨らましている。
「わたし、花さんに写真を頼んだのは理由があるんです」
そういう彼女はどこか遠くを見ている。私も無意識のうちに彼女と同じところを見ていた。
「花さんって有名な写真家の方ですよね?雑誌で名前と写真を拝見したことがあります」
まさか知られているなんて……。すこし目の前がぼやけてきた。
「すみません、情けないとこお見せしてしまいましたよね」
足元の草に水滴が落ちた。
「そんなことないです」
「え?」
思った答えとは違うものが返ってきて間抜けな声が出た。
「花さんに何があったのかはわかりません。他人ですから」
彼女から向けられる眼差しは、とても真っ直ぐで、強く引き付けられると同時に目の奥が揺れている。
「実は、最近大好きな父を亡くしました。自殺でした。誰の目にもつかない路地で倒れていたらしいです」
さっき、彼女が遠いところを見ていた理由がようやくわかった。私の母ももう帰ってはこない。だが、もしかしたらこの世界のどこかで……。
私と同じだ。
「ごめんなさい。辛いことを思い出させてしまって」
「大丈夫です!わたしのほうこそ暗い話をしてしまいすみません……」
大丈夫というその笑顔はぎこちないようにも思えた。
「花さんもわたしと同じ匂いがして、それで写真をお願いしたんです」
「匂い?」
自分の匂いを嗅いでみたが、彼女のような爽やかな匂いはしない。
「匂いというのは……」
少し言いにくそうな顔をしているのを見てどういう意味で「匂い」という単語を使ったのか理解した。
「そう、私も」
今まで感じていたネモフィラのような青い感情を、私もぎこちない笑顔で覆い隠した。
家に帰り、リビングの扉を開ける。乱雑に置かれた本や雑誌などが床を埋め尽くしている。母がいなくなってから、何をするにもやる気が出ない。ため息が部屋の雰囲気をさらに重くしていく。そのせいだろうか、今まできれいな緑色をしていた観葉植物たちが、地面に垂れ下がっている。まるで、何かを背負っているかのように。
ポケットが振動する。スマホの画面を見ると【とき】と書かれている。
ネモフィラの丘で話した後、澄月さんから「連絡先を交換しましょう」と言われ交換していた。
【花さん!見てください】
そのコメントと共に、一枚の写真が添えられている。まるで血のような真っ赤な花だ。【これは蔓薔薇?】と送信すると、1秒もたたないうちに既読が付いた。
【そうです!よくわかりましたね!】
薔薇を見ると、その棘で心を刺されたかのように、胸がチクリと痛む。
【お花は好きですから】
植物はかなり好きだ。
【そうなんですね!私も好きなんです!】
【気が合いますね】
【たしかに!それと急なんですけど……一緒にお出かけしてくれませんか?】
驚いて「え」と声に出てしまった。お出かけか――。人と出かけるのは数年ぶりのような気がする。
【構いませんよ】
【やった!デートですね!】
思わず、笑ってしまう。だだ、予定を確認しなければ。
【あと花さんはため口でいいですよ?私より年上ですし】
そう言われると少しため口を使いづらい。きっと、彼女にとってはそのほうが接しやすいのだろう。
【わかった】
【ありがとうございます!】
【出かけるのはいつにするの?】
【明日なんてどうでしょうか?】
返信を見た時少し固まってしまった。スケジュールを見たが、特に用事もないので【いいよ】と返信する。
【ほんとですか!ありがとうございます!】【いえいえ、それじゃおやすみ】
【はい!おやすみです!】
スマホをテーブルに置き、キッチンへと向かう。彼女はとても元気な印象だ。身近な人の死と向き合うのは辛い。だが前向きに向き合っているのがすごいと思った。なぜか今日はものすごく飲みたい気分。野菜室からワインを取り出しソファに腰を掛けた。
窓からスズメの声が流れ込んできた。頭がずきずきする。スマホを手に取り電源を入れた。【9時に勝田駅に待ち合わせで!】と通知が来ている。今の時刻は……。
〈7:56〉
「やばい!」
昨日は飲んでそのまま寝てしまった。夢に母が出てきたような気がするが、思い出す暇などない。風呂も入っていない。服からは体育館のマットのような、汗の染みついた匂いがする。
急いで準備をする。澄月さんの隣で歩くのだ。いつも以上におしゃれをしなければ。
トップスは白いブラウス、パンツは裾が広いブルーグレーのもの。瑠璃色のカーディガンを羽織る。唯一もっている高い服だ。
洋服にはあまり興味がなかった。しかし、母が、「コーディネートしてあげる」と急に言い出したことがあった。母に連れられ、二人で東京まで行ったことを思い出す。
まさか、ここにも母との思い出があるなんて――。
鏡に映る服に励まされているような気がした。洋服は現代の鎧なのではないかと思ってしまう。
ハッとして時計を確認する。
「8:40か!」
かなりギリギリになりそうだが、急げば問題ないだろう。カメラを持ち、スマートウォッチを付け、重たい扉に鍵をかけた。
〈8:57〉
ここに来る途中、何回時計を確認しただろうか。勝田駅には着いた。しかし、彼女の姿が見えない。とりあえず、【着いたよ】と連絡をいれる。駅構内へ向かおうとしたとき腕が振動する。
【すみません!電車が遅延してて遅れるかもしれません……】
「あら……」
【大丈夫。焦らないで】と返信した。
電車に乗るということだったので、とりあえず改札を通り、すぐ目の前の椅子に腰を掛けた。
「すみません!」と透き通った声が私に向かって一直線で飛んできた。スマートフォンから声の通ってきた道へと視線を移す。上部が青色、スカートの部分がホワイトブルーのロングワンピースに身を包む彼女の姿があった。やはり、首にはレトロなカメラがぶら下げられている。前とは違うところは、茶色のベルトリュックを背負っていることくらいだろうか。
「すみません……。私から誘ったのに」
眉を八の字にしている姿もかわいらしい。
「大丈夫」
「そういってもらえると少し気持ちが楽になります!」
「ところで――。今日はどこに行くの?」
「今日はですね……」
そう言ってリュックの中からメモ帳を取り出した。
「花さんと行きたいとこを考えてきたんですよ」
「用意周到だね」
「よく言われます!」
てっきり、行き当たりばったりなのかと思っていた。それに、よく笑う子だ。母とは真逆の――。
「水族館に行きましょう!ちなみに、予約してあります」
「本当に用意周到だね」
ドヤ顔をしている。
「水族館って、アクアワールド?」
「そうです」
「だから勝田駅集合なんだね」
「ご名答です!」
彼女の細い人差し指が私に向けられた。
「それじゃ!いきましょう!」
水族館の最寄り駅からはタクシーで向かった。
窓を少し開けると風が流れ込んできた。磯の匂いを私たちに届けてくれる。
「花さんは海が良く似合いますね!」
私の顔を覗き込む。
「なんでそう思ったの?」
「それは……」
彼女が言葉を紡ぎ始めた瞬間、風がそれを妨げた。
「ごめん大事なところが聞き取れなかった」
そういうと彼女は「恥ずかしいのでもう言いません!」とそっぽ向いてしまった。
水族館へと着くと、「写真のフラッシュにはお気をつけください」と受付の人に言われた。きっと二人ともカメラをぶら下げているからだろう。
「このカメラどこでフラッシュ切るの?」
彼女がボソッとつぶやいたのが聞こえてきた。
「ここだよ」
カメラのあるボタンを指す。
「ここなんだ!今まで使ってて全然気づかなかったです……」
「そのカメラかなり使い古してる感じがあるし、結構撮ってるんじゃないの?」
持ち手の部分の塗装が少し剥げている。
「花さんの名前が雑誌に載っていたのを見たことがあるって、昨日少し話したときに言いましたよね」
ワインのせいで抜けていた記憶が一気にフラッシュバックしてきた。
「そういえば言ってたね」
「実は、花さんの撮る写真に一目惚れしてですね……」
その先の言葉をのどに詰まらせている。
「それで?」という声のトーンが少し高くなるのを感じる。
「中古でカメラを買って、撮り始めたのも最近なんです」
そういえば、取材の撮影は海だった気がする。
「もしかしてタクシーで『私は海が似合う』って言ったのは、雑誌に載ってる私の写真が海だったから?」
「はい……」
さっきまで感じていたもやもやが晴れた。それと同時に、今までに感じたことのない気持ちが湧き出てきた。きれいな景色を見た時の気持ちと酷似している気がする。
中へと進むと、青色の世界が広がる。そんな世界を歩く足音はリズミカルで、どこかにありそうな曲を奏でる。
「花さん見てください!すっごくきれいですよ!」
彼女の目線の先には、ぷかぷかと自由に漂う海月の姿があった。
「ほんとだ」
とても可憐で魅了されてしまう。つい澄月さんを見てしまう。そんな彼女の顔は「私もこんな風になれたらいいのに」と言っているような気がした。根拠はない。だが、その眼には確かに羨望の輝きが感じられた。
「澄月さんは海月が好きなの?」
気になって聞いてしまった。
「はい、一番好きな生き物と言っても過言ではありませんね!」
「何か理由とかってあるの?」
好きに理由はない。だが、海月に向ける目線が何なのか気になった。
彼女は「そうですね……」と考え込んでしまった。
「理由があるとすれば、あんなにきれいなのに毒があるってことですかね」
「どういうこと?」
「んー、あんなにきれいで自由に泳いでいるのに、その毒が人間でいう心の闇だとして、他人から見たら自由に見えるけれど、自分で自分を見つめてみると縛られて生きているようで。どこか寂しさがあって、それでいて美しい。ということですかね」
心に波が立った気がした。『美しい』という言葉のせいだろうか。今の私には美しいと言える瞬間が分からない。子供が生まれる瞬間か、それとも世界で有名な絵画を見たときか。はたまた、エベレストの頂上から見える景色か。彼女の言葉で何かがわかりそうだった。海月を見つめる彼女の横顔にカメラを向けるがやはりシャッターを切ることができなかった。
「花さん?」
「ごめんなさい。勝手にカメラを向けてしまって」
「大丈夫ですよ。でも撮るときはかわいくお願いしますね!」
そう言って笑う顔に救われる。急がなくていい。自分のペースで大丈夫。そう言い聞かせて、水族館内を見て回った。
お昼ごろ館内にアナウンスが鳴った。
『13時30分にイルカショーを行いますので、ぜひご覧くださいませ』
「花さん!イルカ見たいです!」
目を輝かせながらこちらを見ている。海月を見ているときとは打って変わって、幼い子供のようだ。
「いいよ、いっぱい楽しもっか」
視線を前に移すと、進む足が止まった。
「花さん?」
目線の先には売店コーナーにあるイルカのぬいぐるみがあった。そして、小さい頃の自分もそこに立っている。
「お母さん!お母さん!」
「どうしたの、花」
イルカのぬいぐるみを抱え「これ買ってほしいの!」と母のもとへと駆け足で向かっている。
「珍しいね、花がおねだりだなんて」
「だめ?」
「いいよ、特別に買ってあげる。大事にするんだよ?」
「うん!」
満面の笑みを浮かべている自分を見た瞬間に二人の姿は消えてしまった。
その後のことはあまり覚えていない。だが常にイルカと一緒だったことだけは覚えている。寝るときも、ご飯を食べるときも。そんな私をニコニコしながら眺めている母の顔が鮮明に浮かんできた。
「花さんもしかして、あのぬいぐるみのストラップが欲しいんですか?」
「うん、あなたとお揃いで」
彼女の顔を見ると、ものすごい満面の笑みを浮かべている。まるで小さい時の私のように。
「いいんですか!」
「あなたと来た思い出になるでしょ?」
「やった!」
彼女は買ってすぐにカバンにつけていた。とても気に入ったようでずっとにこにこしている。
イルカショーまでの時間が残り十分となった。少し足早で向かう。横目に流れていく青色の景色が私の心を撫でてくれているような気がした。
「何とか席取れましたね」
「そうだね、前来た時よりもお客さんが多くてびっくりした」
「前ってどのくらいですか?」
「だいたい……20年前くらい?」
「相当前ですね」
「ここができてすぐにね、母と行ったのを覚えてる」
「そうなんですね!あ、始まりますよ」
イルカが泳いできたのと同時に。「ご来場の皆様、本日はお越しいただきまして、誠にありがとうございます」というアナウンスが会場内に響き渡る。
懐かしい――。そんな言葉が頭には響いていた。イルカがジャンプした時の音、調教師の合図の仕方、その一挙一動がなぜか心を揺らした。
ふと彼女を見てみると、水しぶきが飛んできてもいないのに頬が濡れていた。
いったい何を感じているのだろうか。とても心豊かで明るい。この一日で感じた彼女の印象だ。私や母とは真逆の。彼女の心の核はきっと澄んだきれいな色をしているだろう。そんな色を写真に収めたい。
そんなことを思っていると、いつの間にかショーは終わっていた。
「澄月さん」
そう話しかけると、満開の笑顔で「なんでしょう?」とこちらに振り返った。さっきまでの感情を笑顔で殺しているのが私にもわかる。
「これ使う?」
無意識のうちにポケットからハンカチが取り出されていた。
「すみません……。ありがとうございます」
そういうとまた雫が頬を伝っているのが見えた。それをハンカチで拭いながら「少し話してもいいですか?」と言ってきた。
「もちろん」
「実は……」
家族みんなで来た思い出の場所がここであること。このイルカショーが父と最後に見たものであること。そして、彼女の父がイルカの調教師であったことを話してくれた。
「父はショーにも出ていて、それをよく見に行っていたんです。ショーに出ている父はとても楽しそうでした。自殺するような雰囲気は感じないくらいに」
返す言葉が見つからない。亡くした人を似ている人に重ねる気持ちは痛いくらいに分かる。今の私もそうだから。
「そっか……」
「ごめんなさい、暗い空気にしてしまって」
「いいの。心の内を話せるのって、親友みたいで私はうれしい」
「ありがとうございます」
そう言ってまた笑う彼女がかっこいいと思えた。
「ところで次行くところは決まってるの?」
「あったんですけど、こんな時間になってしまったのでまた今度にしようと思ってます。もしかして花さん、いきたいところあるんですか?」
「うん、実は一つだけ、いいかな?」
あなたとだから行きたいところ――。
出かけた言葉は、言葉にはならず心の底に沈んでしまった。
「ちなみにどこなんです?行きたいところって」
「内緒」
水族館を出ると太陽は西に傾いていた。かなり水族館にいたらしいが、そんな実感はない。
「那珂湊駅までお願いします」
タクシーを呼び止め乗り込んだ。
さっき通って来た道を戻っているだけなのに、初めてきた道を通っているような感覚に襲われた。駅へ着くと最初に乗った勝田駅ではなく阿字ヶ浦駅へと向かう。
駅に着くころには風の匂いも変わり、太陽を月が追いかけてきている時間だった。
「海浜公園までお願いします」
タクシーの運転手にそう伝えると「え」という声が隣から聞こえてきた。
「急に行きたくなったの。それに、あなたから頼まれた写真まだ撮ってないでしょ?」
「そうですけど、無理しないでください」
ものすごく心配されているのが伝わってくる。だが、今逃げていてはこれから先、写真がずっと撮れない状態が続く気がしてならなかった。
「料金は860円になります」
「すぐ戻ってくるので待っててもらってもいいですか?」
「構いませんが、待機料金が発生するかもしれないですのでご了承ください」
「わかりました」
薄暗い公園内は昼間とは違った雰囲気を出していて、どこか孤立感があるようだ。
「花さん、急に来たくなったって言っていましたけど……。何か話したいことができたんじゃないんですか?」
初めて出会ったときも思ったが、彼女は心を覗く能力でもあるのだろうか。
「よくわかるね」
「なんとなくですよ」
笑っている顔には「得意なんです」とでも書いてあるようだった。
「水族館で海月を見た時、澄月さんは海月を人間に例えていたじゃない?」
「はい」
「今まで私は、みんながみんな心に闇を持っているわけじゃない。ごく少数の人間だけが闇を抱いている。そう思っていたの」
「それはちがいます」
「そう、ちがった。あなたと出会って闇がある、ないじゃなくて、その大きさが大きいか小さいかだと気づいたの。それに私は、あまり仕事以外で人とかかわってこなかったの。それは私の母も同じでね」
彼女は何もしゃべらずただただ歩みを進めている。
「母とも小さい頃はいろんなところによく出かけたりしていたけど、中高生くらいになったときには喧嘩ばっかりで。そんなときにカメラに出会ってさらに一人の時間が増えてしまったの。でもあなたとここで出会って、母との思い出がたくさんあったことを思い出すことができた。ありがとう」
彼女にとっては私が憧れの人だったから声をかけただけかもしれない。だけど私から見れば救いの手を差し出してくれた恩人だ。
大切なものはすぐそこにあったと気づかされた。
「花さん!私は何もしていませんよ。花さんが見つけたものは、ずっと美しく残り続けます!これから先どこでも成功することを願っていますね」
月明かりが彼女の顔と、小さなイルカのぬいぐるみをふんわり縁取っていた。私はカメラを握りしめ、ふと手に視線を落とす。手は震えていなかった。指先がシャッターに触れる。パシャッ。フレームに残ったのは、彼女の笑顔と静かに揺れるぬいぐるみの影、そしてネモフィラだった。シャッター音はどこまでも遠く響く、救いのある音だった。
読んで頂きありがとうございました。初の短編小説で少し展開がおかしいとこがあるかもしれませんでしたが、楽しんでいただけたでしょうか。感想等お待ちしております。




