10月9日(火):縮まらぬ道
朝の空気は澄んでいて、草の匂いが少し強かった。
葉の擦れる音が小さく響き、露をまとった枝先が朝陽にきらりと光っていた。
森の木々は葉を落としはじめ、枝先の赤や黄色がわずかに揺れている。
薬草小屋の前に植えてあるマジョラムが、風にゆらゆらと揺れていた。
その根元には、昨日落ちたばかりの栗の殻がひとつ。動物たちがかじった跡が残っている。
秋の深まりを告げる森は、静かで、少しだけ物寂しい。
リューリカは、窓を開けて空気を入れ替えながら、扉の向こうに立つ気配を――もはや予感ではなく、確信として感じていた。
ノックが鳴る前に開ければ、案の定。
「……やっぱり暇なんですね」
先制に皮肉。
扉を開けた瞬間、まるで決まり文句のように口をついて出る。
「まさか、気付いていらっしゃったとは」
そう言いながら、クレメンスは微笑を浮かべる。
「またその顔。来るたびに得意げですね」
「違います。”来られたこと”に感謝しているんです」
「……うさんくさ」
それでも、クレメンスはまったく臆さず微笑んだ。
「暇な人は依頼を断ると思いますよ。私も忙しくて、本当に」
「へえ、そうなんですか」
「ええ。森の道が、いつか縮まないかって毎日観察してますけど――全然、縮んでくれないんですよね」
リューリカは一瞬だけ目を瞬かせた。
(……今日はやけに、最初から喋るわね…)
けれど、それを気にするようなそぶりは見せず、視線を棚の方へと向ける。
「今日は?」
「先日のラウフェンさん宅。次は上のお姉ちゃんが鼻詰まりで眠れなかったようです」
「そっちも鼻ですか。じゃあ、ユーカリとペパーミント。軽いほうで組みます。使い切っても治らなければ、ちゃんと来させて」
「はい、伝えます。”ちゃんと”と念押しするあたり、薬師の信念を感じますね」
「誰かさんみたいに、暇で来てる人とは違いますので」
「では、そろそろカードでも作っていただけます?常連さん専用の」
「あなたの場合は、課金カードならお出しできますけどね」
「それは、どういった趣旨で?」
「皮肉の数だけ押されるんですよ、スタンプが。空欄を全部埋めたら、シロップ1滴進呈します」
「では、目指してみましょう…今ので何個目ですか?」
「数えてませんよ。それくらポンポン出てるってことです。だいたい数てえたら負けな気がする…」
棚からユーカリとペパーミントを取り出し、リューリカは作業に移る。
香りと手触りを確認しながら葉を刻み、さらにマロウブルーをほんのひとつまみ加えた。
切れ味のいい小刀で刻むと、ユーカリの香りが空気にふわりと広がった。
その鋭い清涼感は、ほんの数秒でペパーミントと混じり合い、鼻を突く刺激から、柔らかくすうっと通るような香りへと変わっていく。
切り口がわずかに湿り、小さな音を立てながら木のまな板に吸い込まれていくのが心地よい。
それらをすり鉢に入れ、すりこぎで円を描くように砕いていくと、葉脈がぱりぱりと折れる微かな音が、静かな小屋にやさしく響いた。
マロウを加えると、混ざり合った粉の中に鮮やかな青がぽつんと顔を出す。
「……青いのが、綺麗ですね」
クレメンスがぽつりと呟いた。
作業中、クレメンスは手元をよく見ているが、声を出すのは珍しい。
リューリカは手元のマロウを指先でひと撫でする。
――本当は、自分もその青が好きだった。
でも、同じ感性だと知られるのが、なんだか癪で…。
ただ黙って、湯気の立つ鍋を見つめるだけにした。
葉を砕いた粉を鍋に移し、そこに蜂蜜を加える。
木べらで混ぜると、蜂蜜はねっとりと重たく、鍋の底をほどよく火にかければ、鍋の縁に小さな泡が細かく立ち始め、やがてとろりとした温度のある湯気が静かに立ちのぼる。
その香りは、甘く、そしてすこし薬くさい――kれど、それが効き目の証だった。
「これは、眠る前に。温かいお茶かミルクに溶かして飲ませてください」
「はい。伝えます」
瓶詰めした薬を布で包んで差し出すと、クレメンスは丁寧に受け取った。
同時に、銀貨を置く手がリューリカの手元に一瞬重なりそうになって――しかし、触れない。少しだけリューリカはひるんだかもしれない。直前で手を止めてしまった。
「……今日、風が冷たいですね」
「ええ。帰り道、お気をつけて。道は、縮まりませんので」
「ほんとうに、祈っているんですけどね」
「牧師様が祈っても縮まらないなら、もう諦めたほうがいいんじゃないですか?」
「それでも祈るのが信仰というものですよ」
「皮肉にも律儀なんですね」
「仕事ですから」
クレメンスは肩をすくめるように微笑み、外套の裾を整えてから扉を出た。
背筋の伸びた背中が、落ち葉を踏みながら静かに遠ざかっていく。
リューリカは、しまった扉の前にしばらく立ち尽くしていた。
ふと、ぽつりとつぶやく。
「毎日観察って……どんな忙しさよ」
声に怒気はない。ただ、呆れと、ほんの少しの笑い声が混じっていた。
また来る。きっと、あの足音がまた聞こえる。
それだけは、なぜかもう疑いようがなかった。




