10月6日(土):また来たわね、ほんとに
朝の霧が晴れはじめたのは、昼前になってからだった。
白く煙る森の奥に、陽が斜めに差し込み、空気はひんやりしているのに、木々の葉はもう赤みを帯びて揺れていた。
乾いた落ち葉を踏む音が、どこか軽やかに響く季節。
薬草小屋のまわりでも、秋の気配は確かに進んでいる。
南側の棚では、昨日摘んだヤローの花が逆さに吊るされ、軒先の干し網ではミントやマシュマロウの葉が乾燥中。
風が吹くたび、ほのかに甘く、湿った草の匂いと混じり合って鼻をかすめる。
リューリカは調合棚の前で、フェンネルの種をすり潰していた。
乳鉢の中でころころと転がる種を、すりこぎで押し潰すたび、独特の甘い香りが立ちのぼる。
(…昨日の言い逃げが本当に尾を引いてる気がする…この種みたいにあの牧師も転がしてやりたい…)
そんな思考をしているうちに――
コン、コン
扉を叩く音が聞こえた。
「……まさか……?」
思わずぼそりと呟く。
午後一時過ぎ。あまりにも予測どおりすぎて、もはや感心を通り越してあきれる。
扉を開ければ、やはりクレメンスが立っていた。
外套の裾にはまだ朝の露が残っていて、金髪が淡く濡れている。
朝のうちに降った雨が枝葉に残っていたようだった。
「こんにちは。今朝方、熱を出した赤子がおりまして。風邪薬も切れていると。昨日は外出できず、市で薬を買えなかったそうです」
「……あら、それは大変。風邪が流行っているのかしら…昨日もあまり子ども連れは見かけませんでしたね…」
クレメンスの微笑は崩れない。
当たり前のような顔で立っている、その姿勢の良さときたら、もう腹が立つほど整っている。
「ええ、そう聞いております」
リューリカは扉を広く開けながら、少し目を細めた。
「昨日、品行方正な牧師様が”忙しそうで何よりです”とおっしゃってたの、覚えてます?」
「覚えています。まさか、忙しくないと困るかと」
「……言い逃げにしては、なかなかよく練られてましたね」
「恐縮です。練ったつもりはありませんが」
「じゃあ素であれってことですか。救いようがないですね」
「”素で刺してくる”のは、あなたも同じかと」
「私は商売ですから、色々とあるんですよ」
「では私は布教活動の一環で」
「えっ、うそでしょ……」
小屋に入れば、すぐにいつもの空気が戻る。
瓶の並ぶ棚、乾いた薬草の香り、窓際の乾燥台に並ぶ花々――
すべてが整然としていて、どこか無言の気配に満ちている。
「赤子の熱なら、これ。エルダー、マロウ、あとレモンバームを少し混ぜて。煎じて冷まして、少しずつ飲ませてください。咳が出てるなら、こっちはシロップ。リコリス、カモミール、タイム少々」
「助かります。どちらも伝えます」
リューリカは薬草棚の前に立ち、まずは瓶のラベルに軽く指をなぞる。
エルダーの花、マロウ、レモンバーム。取り出した瓶の栓を開け、鼻先に近づけて香りを確かめた。
「湿気てない。大丈夫」
匙で一杯すくい取り、手のひらに落として触れる。
花弁が指先にくっつかず、さらりと離れるなら、使い頃。
小鍋に水を張り、順にハーブを重ねるように入れていく。
花は潰さず、葉はやさしく散らすように――火にかけると、すぐに淡い香りが室内に広がった。
「最初の泡が針の先くらいになったら、火を止めて」
そう呟く声は、相手に聞かせるというより、自分の”確認”のようなもの。
鍋の縁にできる細かな泡の大きさを見極めながら、タイミングを図る。
その間に、リューリカは別のテーブルで咳用のシロップの準備に取りかかる。
リコリスとカモミール、乾燥させたタイムの葉をひとつまみ。
それをすり鉢で砕き、蜂蜜と混ぜ合わせる――このとき、木べらを使うのが彼女のこだわりだった。
金属だと風味が濁る、というのは母の教えだったから。
煎じた薬液が冷めたころ、布で丁寧に濾す。
最後に清潔な瓶に注ぎ、蓋を閉めながら、クレメンスの視線を感じた。
「昨日も市で顔合わせたし、さすがに今日は来ないと思ってたんですけど」
「”来ませんでしたね”って言われるのも、それはそれで悔しくて」
「……あー、なるほど。皮肉で張り合うときの思考って、それですね」
「皮肉で張り合う薬師様に言われるとは」
「今のも課金対象ですね」
「本当に財布が心配です」
「たまには財布じゃなくて心を痛めてください」
「だから来たんじゃないですか、今日は。あなたが昨日の一言に傷ついてるんじゃないかなーってね」
「……んなわけないでしょ、言い逃げ常習犯のくせに」
「ええ、ですから本日は正面から、堂々と」
「……はぁ~~……」
心の底からの溜息が出る。
「その皮肉、今のところ課金対象です」
「では、まとめてお支払いを」
「はい、どうぞ。次の分も上乗せで」
クレメンスは銀貨を出し、瓶を受け取る。
扉の前で一礼し、何事もなかったように外へ出ていこうとするその背中を、リューリカはじっと見送った。
(……また来る)
今度は予測じゃない。確信。
だってこのやりとりは、もう――日常の一部になりつつある。
「ほんとにもう、なんなのよ……」
吐き出すようにその呟き、リューリカは扉を閉めた。
だけどその声には、少しだけ――
ほんの少しだけ、笑ってしまいそうになっているような気配が混じっていた。