10月5日(金):言い逃げのひとこと
十月の風は、朝のうちは肌寒く、昼を前にしてようやく柔らかさを帯びる。
金曜の市が立つ広場では、朝から人の声と荷車の音とが入り混じり、秋晴れの空ににぎやかに響いていた。
道の片側では、農家の夫婦が栗や林檎を並べ、瓶詰めのジャムがその隣に控えている。
ほくほくと湯気を立てる焼き栗の屋台には子どもたちが群がり、紙袋を両手で抱えてはしゃいでいる。
軒下の影では、若い娘が手編みの靴下やマフラーを畳みながら、客とおしゃべりに花を咲かせていた。
向かいの荷馬車には、縞模様の布や綿入りのショール、秋仕立ての腰巻などが丁寧に掛けられていて、それを物色するご婦人たちがあれこれと品定めしている。
羊毛の匂いと焼き菓子の香り、果実の甘みと蜜蝋の蝋燭。
風に混ざる匂いさえ、秋の市ならではのものだった。
リューリカは、広場の端――いつもの木陰に簡素な布を敷き、乾燥させた薬草と茶葉の小袋を並べていた。
白い布の上に、緑がかった瓶や黄褐色の袋が無造作に置かれているが、どれにも名札も値札もない。
尋ねられたら答える。必要な人にだけ、必要な分だけ。
それが、彼女なりのやり方だった。
午前の市も後半に差しかかるころ、いつもの顔ぶれがぽつぽつとやってくる。
「あら、いたいた。今朝も腰が痛くてね」
最初に声をかけてきたのは、エリザばあさん。
曲がった背をさすりながら、小さな袋を指でトントンと叩く。
「湿布薬を、前と同じもの。朝晩貼ってるけど、夜が冷えると痛むのよ」
「温湿布にします。今回は樟脳を少し弱めに。香りが強すぎると眠れなくなるから」
リューリカは手際よく包みを解き、瓶から粉を匙で量る。
乾いた薬草の中に、少量の油と粉を混ぜて練り合わせ、紙の袋に納める。
「一日二回まで。貼ったあと、冷えないようにして。足元にも気をつけて」
「ええ、ありがとう。ほんと、助かるよ」
次に来たのは、アンゼルじいさん。
杖をつきながらも足取りはしっかりしていて、目も口もよく動く。
「喉が少しな。乾いてるだけかと思ったが、昨日から咳が出る。で、来てみた」
「じゃあ、乾燥系の咳ね。痰は?」
「出てない。ただ声がこもる」
リューリカは納得したように頷き、瓶の中からリコリスとマロウを取り出す。
さらにタイムをひとつまみ。これらを刻んで布袋に詰め、お湯で抽出できるように整える。
「温かいお茶として飲んでください。食後に一杯ずつ。喉が潤えば、咳も落ち着くと思う」
「なるほど。さすが、森の魔女様だな。子らが言うとったわ」
「”森の薬師”です」
「どっちでも構わんが、効けば文句はないよ」
三人目は、片手を首元に当てたレナーテおばあさん。
「ここのところ、寝つきが悪くて……。背中がざわざわするような感覚なの。熱はないのに」
「神経疲労でしょう。夜用のお茶を出します。少し苦いけど、香りはいいから」
袋に詰めたのは、カモミール、バレリアン、そしてほんの少しのレモンバーム。
ふわりと立ちのぼる香りに、レナーテは嬉しそうに目を細めた。
「懐かしい香りだわ。昔、母が飲んでいたのと同じような……」
「似てるかもしれません。うちの母がよく使ってた組み合わせです」
老人たちは、それぞれの症状に応じた薬を手に取り、満足そうに頷いてから立ち去っていく。
広場のざわめきの中で、彼らの足音だけが、ゆっくりと遠ざかっていく。
そのときだった。
ふと視線を上げた先――
広場の向こう、教会前の通りにて、見慣れた背の高い影が群れの中にあった。
クレメンスだった。
灰色の外套をきちんと羽織り、金髪は陽に透けて光っていた。
その周囲には、老人たちが数人。彼は腰を屈めて言葉を交わし、笑みを絶やさず話を聞いている。
まさに”品行方正な牧師”そのもの。誰が見ても模範的な光景。
(今日は話しかけてこないのね。よかった)
リューリカはそっと視線を逸らし、手元の瓶を整え直した。
市の最中に彼と話す気はなかった。
品行方正モードのクレメンスは、皮肉の応酬には応じない。
そして村人の前では、彼も”あちら側の人間”なのだと、リューリカは知っている。
けれど――
ほんの数分後。
彼はリューリカが出している店先に向かってどんどん近づいてきていた。
リューリカが少しだけ身構える。
品行方正なのだから、話しかけることも無いかもしれない。
こちらに向かってくる間にも、誰かに話しかけられては笑顔で会釈をしたり話したり。
リューリカは内心『まねできないわ…』と思った。
クレメンスは、近づいてきたと思ったら、スッと右側に道を逸れた。
リューリカは思わず目で追ってしまう。
(ただの通り道か…)
ホッとして気を抜いていた瞬間。
真横から、クレメンスの少し低く小さな声が降ってきた。
「今日もお忙しそうで、なによりです」
それだけ。
それだけを言って、彼は通り過ぎていった。
声の調子は穏やかで、表情は丁寧な微笑み。
村人が見ていれば、「感じのいい一言」で済んでしまう。
けれど、リューリカにはわかる。
あれは確かに返されたのだ――森で言った自分の台詞を、そっくりそのまま。
(あいつ、言いやがった……!)
”暇なんですね”に対する、明確な応酬。
しかも、堂々とした顔で、誰にも気づかれないように。
普段は森でしかやらない皮肉を、よりによって市のど真ん中で、言い逃げの形で混ぜ込んできた。
「……またそれ!?言ってすぐ去るの、なにあれ!」
誰にも聞こえないような小声で、薬草の袋を乱暴に直す。
誰が見ても、いつも通りの”森の薬師”。
けれど、爪先だけが地味に怒っていた。
(ああもう、ほんとに――)
悔しいのは、あの一言にちょっと笑いそうになった自分がいたからだった。