9月28日(金):混ぜやがった
秋の空は、どこまでも澄んでいた。
乾いた風が木の葉を揺らし、首筋を撫でて通り過ぎる。
朝よりも陽は高く、光が白くなってきた。
金曜市の広場には、にぎやかな声が飛び交っていた。
栗や林檎の山、干し葡萄や瓶詰めのジャム、焼きたての黒パン。色とりどりの布や毛糸細工も並び、どこからともなく甘い焼き菓子の香りが漂ってくる。
リューリカは広場の端、教会からは見えにくい場所に席を取っていた。
膝に籠を抱え、小さな机に商品を並べる。薬草茶、喉のシロップ、粉薬、煎じ薬、そして数枚だけの湿布。どれも少量ずつ。薬売りではなく、”薬師”としての体裁を守るため。
道に面した側に、白布に草の名前と効能を手書きした札を並べると、ぽつぽつと客が来はじめた。
最初に声をかけてきたのは、ミナばあさんだった。
背を丸め、大判のショールに身を包み、手押し車を押しながら近づいてくる。
「先週の、あの茶がよく眠れたって……うちの人が言っててね」
「――うちの人」とは、八十を越えるご主人のこと。かすれた声で照れるように言うミナに、リューリカは茶の包みを差し出した。
「飲む前に少し冷ましてください。熱すぎると逆に目が覚めますから」
ミナは「そうかいねえ」と頷いて、手押し車に包みを収めた。
次に現れたのは、ヘルベルトじいさん。
背は高いが足が悪く、いつも杖を突いている。今日もぼそぼそとした声で言った。
「……この間の咳止め、またもらえるか」
「前回と同じで?」
「うむ。夜中に楽だった」
リューリカは無言でうなずき、瓶を選び取る。喉の炎症が続いていると見て、今回はリコリスとタイムを少し多めに入れたタイプにした。
「寝る前だけで十分です。あとは、湯気だけでも吸わせれば効果はあります」
「ふむ。そうする」
代金を置いていく背中は、相変わらず無口で素っ気ない。でもそれが、リューリカにとっては心地良かった。
三人目に現れたのは、エリザばあさん。
腰に手を当てて近づいてくるその姿は、年寄りには見えないほど達者だった。
「風邪薬は今あるからいらないけど……湿布薬をおくれ。夫が薪割りで背中をやってしまってね」
「熱感があるなら、これ。冷えてるだけなら、こっち。どちらも一晩は貼り替え禁止です」
「ええ、わかってるよ。あの人すぐ動きたがるから、きつめのやつにしといてちょうだいな」
湿布の包みを渡すと、エリザは「ありがとね」と言いながら、布袋の口をきゅっと絞めて去っていった。
(……今日は来るかな)
老人たちが途切れたところで、リューリカはふと顔を上げる。
空の眩しさに目を細め、視線を落とした先に、見慣れた背の高い影が現れた。
教会の方から歩いてきたのは、クレメンスだった。
老婦人や子どもたちに囲まれて、彼はまるで舞台の中央にいるようだった。
誰にでも同じように丁寧な声をかけ、腰を屈めて目線を合わせ、子どもの手を取って笑っている。
(……ほんと、品行方正)
無意識に鼻で笑ってしまった。
整いすぎた外見。穏やかすぎる言葉。きっちり整った”理想の牧師”。
あの森で皮肉を返してきた同じ男とは、とても思えない。
こちらに気づかず通り過ぎるかと思ったが――
目が合った。その瞬間、クレメンスの足が自然に向きを変え、まっすぐ歩いてくる。
「こんにちは。今日は市にもいらっしゃったんですね」
「――あら、品行方正な牧師様がこんな隅にまで見回りとは。暇なんですね」
にこ、と、変わらない微笑み。けれど返事はなかった。
(……あれ?)
いつもなら、すかさず何か返してくるのに。
引用でも、言い回しでも、何か一つは引っかけてくるくせに。
でも、ここは市。人の目がある。誰に対しても同じ態度で接する、それが彼の”牧師としての顔”・
(まあ、そうか)
少しだけ、つまらないと思った。
クレメンスは去りかけ、歩みを戻そうとした――そのとき。
彼はふと足を止め、わずかに振り返る。
「……あ、そうだ。さっき”品行方正”って仰ってましたね」
「え?」
「それ、今度森で使ったら課金されますか?」
一瞬、言葉が出なかった。
声の調子は柔らかいまま、でも目の奥に、あの森と同じ”愉しさ”の色が灯っていた。
返そうとして、言葉がうまく出てこない。
彼はそのまま、子どもたちの輪へと戻っていった。
腰を屈めて話しかけ、荷物を持ち、また”品行方正な牧師様”に戻っている。
リューリカはその背中を見送りながら、ぽつりとつぶやいた。
「……混ぜやがった」
本気で呆れたのか、それとも笑いそうになったのか――
わからないまま、ひとつだけ瓶の向きを直し、また次の客を迎える準備をした。