9月24日(月):森の薬草小屋にて
朝から、森には霧が立ち込めていた。
白くやわらかな帳が木々のあいだを漂い、湿った空気が肌に張りつく。地面の落ち葉は露で重たくなり、踏みしめればぬかるむような音を立てそうだった。
こんな日は、乾燥棚のタイムがよく香る。
煎じ用にと束ねていた葉をほどき、小皿に広げると、爽やかでほろ苦い香りが室内に満ちた。抗菌と解熱、どちらの処方にも使える優等生だが、香りが強すぎると赤子には向かない。控えめにして、後でエルダーと合わせるつもりでいる。
作業台の上には、すでに何本かの瓶が並んでいた。
ユーカリ、リンデン、マーシュマロウ。それぞれ粉末と乾燥葉、蜜漬け。今日の調合は、赤子の発熱と聞いていたから、気道を広げ、炎症を和らげ、寝つきを良くするものを選んでいる。
外の霧が濃くなる気配にふと顔を上げた、そのときだった。
コン、コンと、控えめなノックの音が扉を叩く。
(こんな時間に誰……?)
村の者なら日が傾くまではまず来ない。警戒しつつ扉に向かい、軋む蝶番を押して、わずかに開ける。
そこに立っていたのは、金髪の男だった。
霧を背負って立つその姿は妙に目を引いた。高身長で整った顔立ち、旅装にも見える深い色の外套。
だが、なにより印象的だったのは、そのアイスブルーの瞳だった。透明な硝子のように、冷たく澄んでいる。
彼は、軽く礼をするように頭を下げた。
「教会の者です。クレメンスと申します。先日、この村に赴任してきました」
(……ああ。噂の”新しい牧師様”ってやつか)
若い連中が市で騒いでいたのを思い出す。
「見目がいい」「声が落ち着いてる」「話が分かりやすい」――そんな取り巻きのような声。
それを聞いてもリューリカの心は一切動かなかったが、今、目の前にいる本人は……確かに、言葉通りの人物だった。
だが、それがどうしたというのだ。
「……ああ、そうか。今日は”神の使い”が来る日だったんですね」
まず皮肉を一発。それが彼女の常だ。
先に距離を置いておけば、必要以上に詮索されずに済む。
魔女だの何だのと、勝手なレッテルを貼る前に、口をつぐませるくらいの一言は投げておく。
「牧師さんが、こんな森の奥まで。よほど暇なんですね」
男は、ふ、と笑った。
「村のエルゼさんから託されました。赤子が昨日から高熱で、助産婦も困っているそうです」
……なるほど。そういうことか。
「助産婦に頼まれて、牧師様が来るなんて。……教会って、薬の使いもやるんですか。よほど暇なんですね」
言いながら、にやりとも笑わず、彼女は視線を逸らさない。
クレメンスはと言えば、まるで皮肉を受け取っていないかのように、柔らかく目を細めた。
「薬が欲しいなら、それなりの話をしてもらいますけど?」
「ええ、”面倒な人”だとは伺いました。実際に会ってみると、もっと面倒そうで、少し安心しています」
……なにそれ。
リューリカはしばし沈黙した。
クレメンスの顔は変わらない。あくまでにこやかに、しかし真っ直ぐにこちらを見ている。
(……なんだこいつ)
一瞬だけ、彼の眼差しに圧されそうになるのを、ぐっと堪える。
咄嗟に切り返すべきかとも思ったが、それもなんだか悔しい。
「……まあ、いいです。そこ座っててください。いま調合しますから」
作業台に戻り、手元のタイムをもう一度確認する。
量は、少し減らそう。代わりにリンデンを足す。これは赤子の神経を落ち着かせる。
そこにユーカリの葉を細かく砕いて加え、気道の通りを良くする仕上げとする。
袋に詰める前に、マーシュマロウの粉末をひと匙混ぜた。これで喉の痛みが和らぐ。
それらを小袋に詰め、紙に服用の注意を書き添えて、糸で留める。
作業のあいだ、クレメンスは一言も発さなかった。
(……黙ってると、意外と邪魔じゃないのね)
「……で、お代は?」
彼女が問いかけると、クレメンスはすっと銀貨を取り出し、差し出した。
「神の教えには”労働には報いを”とありますから。正当な対価はもちろん払いますよ」
礼儀正しく頭を下げると、彼は外套の裾を翻し、扉を開けて霧の中へと戻っていった。
小屋の中には、薬草の香りだけが残された。
リューリカは、渡した薬の袋をしばらく見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「……なんだあの牧師」
そう言ったあと、誰に向けてでもなく、ひとつ、深い息を就いた。
静かな空気のなかで、セージの葉がわずかに揺れていた。