10月19日(金):ありがとうの音
金曜市は、今日もにぎわっていた。
朝の空気はひんやりとして、地面にはうっすらと霜が残っていた。
それでも日が高くなるにつれて人が増え、鍋を煮る香りや、焼き菓子の甘い匂いが広場いっぱいに漂っていた。
野菜の台には、今朝収穫されたばかりのかぶや白菜、干した栗やくるみ。
赤く熟したリンゴの山のそばには、編まれた藁の籠や繕い布が並んでいて、どれも手作業の温もりが伝わってくる。
リューリカは、いつものように広場の端に腰を下ろし、薬草茶の小袋と、瓶入りの喉薬を並べていた。
名札も、値札も出していない。ただ必要な人にだけ、必要な分だけ渡す。
いつもの彼女のスタイルは昔からずっと変わらないまま。
(牧師の、魔女小屋通いの噂……どうやら無いみたい)
広場を歩く村人たちの声を、耳だけで拾っている。
笑い声、値段のやりとり、風邪の話題。
けれど、どこからもその話は聞こえてこなかった。
誰も、ささやかない。
クレメンスの名も、自分の名も、同時には出てこない。
(そう。牧師が気にしないなら、私も気にしないことにする…)
一人だけで気にするなんて、癪だった。
「湿布薬、もらえるかねえ」
低い声に顔を上げると、エリザばあさんが腰をさすりながら近づいてくる。
「前回のと同じので?」
「そう。朝晩になると、またずんずん痛くてね。あれ貼ると温かくなるから、ずいぶん楽だったんだよ」
「セイヨウオトギリのと、ユーカリの。ちょっと温感強めですけど、大丈夫?」
「大丈夫。あんたの加減は、ちゃんと効く加減だよ。ほんと、お母さんに似てきたねえ……」
リューリカは黙って、そっと薬を手渡す。
それ以上の言葉は必要なかった。
そのあとも、年配の男が咳をしながら近づいてきた。
「喉がイガイガしてな。甘いのは苦手だが、あの薬だけは効く」
「なら、リコリス少なめにしてあります。マロウとカレンデュラで調えてますから、飲みやすいはずです」
瓶を手にした老人は、一瞬じっと見つめてから、ぼそりと呟いた。
「……助かるよ。あんたが、いてくれて」
そう言って去っていった背中に、リューリカは何も言わず目だけで見送った。
そうして静かに時が流れていたとき――
ざわざわとした、子どもたちの高い声が風に乗って近づいてきた。
「え、ほんとにここにいるの?」
「この人が、あの魔女?」
「うちのお母さん、森には近づくなって言ってた!」
「でもね、ぼくの妹、あそこの薬で咳が止まったんだよ!」
笑い声と驚きと、好奇心と。
まっすぐすぎる視線が、一斉にこちらへ向けられる。
リューリカは、わずかに視線を逸らす。
――どういうこと?何を考えているの…?わざわざ、何も知らない子どもたちを……なんで連れて来るのよ。
その中心にいたのは、やっぱりクレメンスだった。
今日も灰色の外套に品行方正な笑みをたたえて、子どもたちに囲まれながら、自然にこちらへ歩いてくる。
「こんにちは。少し、寄ってもいいですか?」
「……どうぞ。……また子どもたち引き連れて、人気者ですね」
「人気者かどうかはわかりませんが、今日は”紹介”があって」
「紹介?」
クレメンスは、穏やかに、まるで何でもないことのように言った。
「みんなが病気になった時に、いつも薬を煎じてくれているお姉さんですよ」
「……魔女……?」
誰かの小さな声に、場が一瞬だけ静まる。
けれどクレメンスは、微笑みを崩さぬまま、柔らかく返した。
「魔女に見えますか?」
子どもたちは口々に、よくわからないという顔で首をかしげる。
「普通のお姉さんですよ」
その一言のあとで、さらりと続ける。
「さあみんな、薬を作ってもらってるんだから、お礼を言わないとね」
まだよく理解できていないという顔をした子もいた、だが、クレメンスの「せーの……」という掛け声がきこえてくると、子どもたちは大きな口を開けて言う。
「「ありがとう!!」」
一斉に響いた子どもの声が、リューリカの胸を真っ直ぐに貫いた。
(ああ……)
言葉が出なかった。
胸の奥に、なにかあたたかいものがすっと入り込んでくる。
弟のことが、浮かんだ。
あのとき、まだ六歳だった。
弟の小さな手は、火みたいに熱くて、薬草を煎じる鍋の前で、何度もかき混ぜながら――リューリカは何度も心の中で繰り返していた。
(もっと早く作れたら)
(もっと勉強していたら)
(もっと、生きてほしかった)
呼びかける声はかすれ、目も虚ろで、「ありがとう」なんて言葉は、最期まで聞けなかったし、言えなかった。
だからなのかもしれない。
あのとき以来、意図的に思い出さないようにしていた。
でも――いま、突然、あのとき止まっていたものが動いた気がした。
(……ありがとう)
私が、言うべきだった言葉なのかもしれなかった。
弟が、死の縁にある時に私が言ってあげれば良かったのかもしれない。
ここまで頑張って生きてくれてありがとうって。
そしたら、弟も、何かを返してくれていたかもしれない…。
ただ、それだけの言葉で、浮かばれる気持ちがあるのかと…。
「……どういたしまして」
リューリカの口から、ふとこぼれたその言葉は、誰に届くでもなく、市のざわめきに溶けていった。
子どもたちはすでに別の方へ走っていて、クレメンスもまた、他の村人たちへ挨拶をしに向かっていた。
彼女だけが、薬草のかごに手をかけたまま、小さく深呼吸をして、そっと目を伏せている。
さっきの声が、まだ胸の中で響いている。
風がひと吹き、色づいた落ち葉をさらっていった。
季節は、静かに、確かに進んでいく。