10月15日(月):噂にならない距離
朝の冷気が、すっと肺に入った。
夜のあいだに落ちたらしい枯葉が、足元をさらさらと滑っていく。
森の空気は澄んでいて、木々の枝先にはわずかな朝露がきらりと光を反射していた。
薬草小屋の屋根には数枚の葉がひっかかり、秋の深まりを音もなく主張している。
乾き始めた薬草棚のタイムやカモミールにも、かすかに冷気が差していた。
扉の向こうに気配が立ったのは、昼を少し過ぎた頃。
陽が高く、けれど風は冷たい。
秋の午後に特有の、光と空気のずれた感覚が広がっていた。
コン、コン
(……やっぱり)
扉を開けると、そこにはやはり彼が立っていた。
クレメンス。6日ぶりの森の訪問。
だが、前回目撃した時から数えれば、きっちり三日が空いていた。
金曜市のあと、彼は来なかった。
来ないまま、週が明けた。
(……ほんとに、三日)
自然に数えてしまっている自分に、リューリカは少しだけ苦笑した。
「ようこそ、森の小屋へ。どうぞ、また”暇そうに見える格好”でいらして」
「毎回、服装審査を受けるのは私くらいでしょうね。ありがとうございます」
微笑みは変わらない。
口調も、態度も、整っている。
だが、リューリカの中に何かが引っかかっていた。
(……金曜市のあと、来なかった)
別に予定があったわけではない。
薬の依頼がなければ来ない。それは当然だ。
だけど、前に比べれば少し長い”間”だった。
「で、今日はどこの誰が、何をこじらせたんです?」
「東の農家の奥さん。咳が抜けずにいるとのことで。市ではご主人が出ていて、本人は来られなかったそうです」
「ああ、じゃあ”来られなかったから来た”ってことね」
「まさに。来るしかなかったわけです」
リューリカは言葉を返しながら、薬草棚に視線を移した。
咳なら、まずはユーカリ。
それに気道をひろげるタイム、喉の炎症を和らげるカレンデュラを混ぜようか。
甘味と鎮静にカモミールも少量。仕上げにはリコリスで喉の滑らかさを。
「今回のはシロップでいきます。甘めに調整して、子どもでも飲みやすくしておくと言っておいてください」
「ありがとうございます。ご主人が味見して文句を言うタイプだそうなので、助かります」
「……じゃあ、もう少しだけリコリス増やします。ほら、文句を言う舌って、苦味に敏感ですから」
乾燥ハーブを刻む音が、小屋の中にこつこつと響く。
まな板に広げた葉が、重なるたびにわずかな音を立て、すり鉢に移された粉からは、温かくやわらかな香りがふわりと立ち上がる。
「この前の市では、いつもよりよく笑っておられたような?」
「なに…見てたんですか?」
「ちらりと。あちらでは、”課金”が怖いので控えめに」
「それ、控えてませんよ。今の一言でひと口ぶん」
「それは失礼。では、静かにしておきましょう」
鍋に移した煎じ液に蜂蜜を注ぎ、木べらで静かにかき混ぜる。
とろみを帯びた液が、鍋肌をゆっくりと這う。
ユーカリの強い香りに、リコリスの甘さが重なっていく。
「いい香りですね」
「そうでしょう?ただ、今のでまたひと口ぶん、増えました」
「そうだった、静かにしておかないと」
わざとらしく、手で口元をおさえるクレメンス。
ただ、それは淡々としたやりとりだった。
けれど、その応酬のどこかに、リューリカは妙な”調子の合い方”を感じていた。
瓶に注ぎ終えると、布で口を結び、クレメンスに手渡した。
その瞬間――ふと、あの市の光景が脳裏によぎる。
笑顔。囲まれる姿。誰からも信頼されている人。
誰が見ても「好かれている人」。
(……魔女の小屋に通ってるなんて、誰も言わないのかしら)
きっちり三日に一度、森の奥へ入っていく男。
それを村人は、どう見ているのだろう。
リューリカのことを”魔女”と呼んでいた村の若者たち。
そんな自分の元に、あの”人気者”が、何も言わずに来る。
(……噂になってないの?それとも――)
瓶を渡す手を伸ばしながら、彼女は心の奥で問いかけていた。
(あの人の噂が、強すぎるのかな)
「いつもありがとうございます」
クレメンスはいつも通りの口調で礼を言い、銀貨を置いた。
「ここの森の空気は、いつ来ても澄んでいますね」
「人気者の喉にも効く空気だといいですね」
「効いていると信じてます。牧師ですから」
「……信じれば効くなんて、魔女の薬みたい」
「それなら、あなたに扱われているのは理にかなってます」
リューリカは、思わず目を細める。
「皮肉の精度、高くなってません?」
「通い詰めの成果です」
リューリカは思わず、木べらを持ったままクレメンスを見た。
彼は外套の襟を直し、森の道へと向き直っていた。
「では、また薬が必要になったら」
「ええ、必要になったらどうぞ。減らない皮肉を吐く口に対しては、森の空気も課金対象になりますけど」
「すでに何口分か払ったような気もしますね」
そう言って、彼は静かに去っていった。
落ち葉を踏む音が遠ざかっていくのを、しばらく耳で追っていた。
扉を閉めたあと、リューリカは瓶を棚に戻しながら、ふと考える。
(私たち――こんなにも、噂の上では交わらない)
だけど、森では、確かに言葉を交わしている。
そしてその言葉たちは、なぜか毎回――少しずつ、面白くなってきている。
いつも21時に更新しようと頑張っているのですが、今日は少しだけ遅れてしまいました。
悪しからず~~~。
これからも、頑張ります。
皮肉、難しい!