10月12日(金):金曜市にて
広場に人が集まる頃、風が少し冷たくなってきた。
朝からよく晴れていたが、陽射しはどこか頼りなく、秋の気配がしっかりと足元を撫でている。
木々の葉は乾いた色に変わり始め、揺れるたびに、さらさらと控えめな音を立てていた。
村の中心にある広場では、各家が持ち寄った品々がずらりと並んでいる。
かごに山と積まれたリンゴ、まだ土のついたじゃがいも、編み目の揃った毛糸の手袋。
焼き菓子の香りが風に乗って漂い、どこかの犬がパンの端を狙って吠えていた。
リューリカは市の端、教会とは反対側の木陰に腰を下ろし、乾かした薬草と小袋を手前に並べていた。
目立たない布を敷き、看板も立てず、値段も記していない。
必要な人にだけ売る――それが、彼女の市でのやり方だった。
声を張ることもなければ、値引きにも応じない。
誰かと並んで客を呼ぶこともなく、ただ静かにそこにいる。
そんな商いの仕方を、もう十数年と続けているのだ。これまでのことを、変えようとは欠片も思ったことがなかったし、買っていく老人たちの顔ぶれもほとんど変わらない。
だが最近は、少し違っていた。
視界の隅に、ひときわ目立つ動きが映ると、思わずそちらを見てしまうようになったのだ。
リューリカは思わず捉えてしまった。視界の先には、あの牧師。
今日も村の老婦人たちに囲まれ、笑顔で何かを話している。
礼儀正しく頭を下げ、ひとりひとりに視線を合わせ、子どもにも男にも女にも、老若男女関係なく、同じように声をかけている。
笑みを絶やさず、丁寧で、誠実そうで――誰が見ても”立派な牧師様”。
(……相変わらず、人気者)
リューリカは、薬草の籠をいじる手を止めず、ただちらりと見る。
(森じゃ、あんなに喧嘩腰なくせに)
皮肉で刺せば皮肉で返す。
暇そうだと言えば、お忙しそうでと返し、しかも常連さんカードなどと言い出す。
変わらぬ表情で言い合いながら、瓶を受け取って、律儀に銀貨を置いて帰っていくくせに――
(よくやるわね、ほんとに)
視線も合わない。声も交わさない。
それでいい。
ここでは、何も起こらない。それが自然。
リューリカはまた視線を戻して、ひとつ袋を直しながら、小さく鼻を鳴らした。
「リューリカさん。今日は、湿布のやつ、ありますかね?」
声をかけてきたのは、背を曲げたマルタ婆さんだった。
足を引きずりながら近づいてきて、ついでに腰も痛むらしい。
「ありますよ。前回と同じ分量で良ければ」
「ええ、ええ。今朝も冷えてね、腰が抜けるかと思いましたよ」
棚の下から、袋入りの湿布薬を出して渡す。
乾燥させたローズマリーとカモミール、それにセントジョンズワートを配合したもので、温めて貼ると筋肉がやわらぐ仕様になっている。
「これ、息子にも使わせてるんですよ。あの子、畑仕事で腕も足もがちがちだから」
「息子さんが使うには、ちょっと香りが甘すぎるかもしれませんが」
「いいのいいの。嫁よりもあんたの薬のほうが合うって言ってますからね、ふふっ」
笑って、銀貨を置いていく。
それを受け取って、何も言わずに小さく会釈した。
次に現れたのは、ヨーゼフじいさん。
いつも口が悪く、少しぼやきながら歩く。
「まったくよ、また喉が枯れてきてさ。しゃべりすぎたわけじゃないんだけどね」
「それは珍しいですね」
「どういう意味だい」
「そのままの意味です。今回は、ユーカリとマロウで軽めにします。念のため、咳止めも出しておきましょうか?」
「おお、ありがてえ。咳までは出てないが、念のためってやつだな」
ハーブの組み合わせと煎じ方を短く伝えると、ヨーゼフは「毎度どうも」と言って小銭を差し出した。
(……なんだかんだ言って、皆ちゃんと使ってる)
リューリカは、手のひらの中で銀貨の温度を確かめながら、ほんの少しだけ目を細めた。
最後に立ち寄ったのは、ゲルト婆さん。
目があまりよく見えないため、手探りで薬袋を探す。
「先週の、あの茶……夜によく眠れたの。まだあるかしら?」
「あります。ラベンダーとリンデン、それにバレリアンを加えたもの。煎れる前に、袋の中を揉んで、香りを立ててください」
「ふうん……こういうのって、本当に効くんだね。あんたのお母さんの頃から買ってんだけどさ、ずーっと半信半疑なのよ……でも、年取るとわかってくるもんだわ」
「薬って、そんなもんです。疑ってても効くときは効きますから」
「薬の効いてくる年になったってことかねぇ…もう少し遅くても良かったけど」
苦笑して、袋を受け取り、腰をさすりながら去っていく。
その後ろ姿を目で追っていると――
再び、あの姿が目に入った。
教会側の通りの先で、クレメンスが子どもたちに囲まれていた。
帽子をひとつ取られて、それを笑いながら取り返している。
年配の婦人には手を取られて、なにか冗談を言っているらしい。
笑い声が遠くまで響く。
(……ほんと、誰にでも愛想いいのよね)
そのくせ、森に来るときだけは――
リューリカは、ふっと視線を下ろした。
今さら声をかけることもないし、かけられることもない。
けれど、あの輪の中心にいる男を眺めながら(人気者ね)ともう一度思う。
そして、ちょっとだけ、口の中でつぶやいた。
「……あれが、”品行方正”か」
まるで誰に言うでもないような、ひとりごとだった。