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第一章:第六節:新たな生活の始まり

クレオの真っ直ぐな瞳と、どこまでもついていくという決意の言葉に、育人は最終的に頷くしかなかった。異世界に来て右も左も分からない自分にとって、ひとまずの寝床と、この世界の案内役(兼、初めての生徒)を得られることは大きな助けになる。そして何より、孤独と絶望の中にいたクレオにとって、自分が少しでも支えになれるのなら、という思いが彼を動かした。

こうして、加賀育人は、獣人の少女クレオの「住み込み家庭教師」として、この異世界での新たな生活をスタートさせることになった。

クレオが「あたしの家」と呼ぶその小屋は、言葉の響きから想像するような粗末な掘っ立て小屋というわけではなかった。確かに、都会の洗練された家屋とは比べようもないが、森の中で雨風をしのぎ、数人が暮らすには十分な広さと頑丈さを備えているように見受けられる。

クレオの話によれば、この小屋は元々、彼女を育ててくれた「じいちゃん」の実の息子が建てたものだという。その息子は、クレオがじいちゃんに引き取られるよりもずっと昔に、「冒険者になる」と言って家を飛び出し、それきり二度と帰ってこなかったらしい。小屋のしっかりとした造りからは、その息子の腕の良さや、あるいは家族への想いのようなものが感じられた。

育人が目覚め、そして今も使わせてもらっている部屋は、元々はクレオのじいちゃんが使っていた部屋だそうだ。そして、クレオ自身の部屋は、その隣にある、かつてじいちゃんの実の息子が使っていた部屋だという。二つの部屋は簡素な木の壁で仕切られており、プライバシーは最低限確保されているようだった。

小屋の周囲には、じいちゃんが手入れをしていたのであろう、小さな畑の跡や、薪を割るための作業スペースなども見て取れる。森の奥深くではあるが、人の生活の営みが確かにそこにはあった。

育人がこの小屋での生活を始めて数日、クレオの日常は驚くほど規則正しく、そして忙しいものだということが分かってきた。

彼女の一日は早い。まだ薄暗い早朝に目を覚まし、育人が起き出す頃には、もう簡単な朝食の準備を終えている。それは大抵、昨日採ってきた木の実を潰して水で煮たものや、干し肉を少し炙ったものなど、質素だが生きるために必要な最低限の食事だった。

それを手早く済ませると、クレオはすぐに森へと向かう。彼女の目的は多岐にわたる。季節の果実や食べられる野草を採取し、森の各所に仕掛けた罠に獲物がかかっていないかを確認して回る。時には、きのこを採ったり、薬草を見つけたりもする。そして、その道すがら、手頃な枯れ枝や倒木を見つけると、それらを拾い集め、帰りに背負えるだけ持って帰ってくるのだ。

言葉にすれば簡単だが、森の中を歩き回り、これらの作業を全てこなすと、太陽が真上に昇り、昼時になっていることもしばしばだった。

昼過ぎに小屋へ戻ったクレオに、休む暇はほとんどない。まずは森での収穫物を片付けなければならない。果物は種類ごとに分け、傷みやすいものから食べるか、あるいは干して保存食にする。罠で捕らえた鳥や兎などの小動物は、手際よく解体し、血抜きをして、肉は燻製にしたり、毛皮はなめしたりする。育人は、地球ではおよそ見ることのないその光景に、最初は目を瞠るばかりだったが、それが彼女の日常なのだと理解するのに時間はかからなかった。

それらの作業と並行して、拾ってきた薪を割り、乾燥させるための場所に積み上げる。それに、育人が来てから一度もやっていないが、たまにも数日分の食料や毛皮など、貯まった物資を背負い、近辺の農家へ物々交換に出かけることもあったらしい。その「近辺」というのは、クレオが言った内容からすると決して近い距離ではなく、往復だけでもかなりの時間を要しているようだった。

最初の二日間、育人は何とかクレオの力になろうと、森へ行く彼女に「何か手伝えることはないか?」と声をかけた。しかし、クレオは決まって、「大丈夫。育人先生はここにいて」と、どこか遠慮がちに、しかしきっぱりと断るのだった。彼女なりに、育人が森の中で足手まといになることを心配しているのかもしれないし、あるいはまだ完全に心を許しきれていないのかもしれない。

森での手伝いを断られた育人は、せめて小屋の中で自分にできることを探した。元々綺麗好きというわけではないが、最低限の整理整頓は得意だ。クレオが狩りや採取で忙しく、手が回らないであろう小屋の掃除をしたり、壁際の棚に無造作に置かれていた干し肉や乾燥させた薬草、木の実などを種類ごとに分類し、簡単な在庫確認したりした。それは、地球で家庭教師をしていた頃、生徒の勉強部屋の整理を手伝った経験が少しだけ活きたのかもしれない。

そして何より、育人はクレオを注意深く観察し続けていた。彼女の言葉遣い、知識の偏り、物事への反応、得意なこと、苦手なこと。

(クレオちゃんは実年齢13歳だと言っていたが、獣人としては見た目がかなり幼いように感じる。この世界では、獣人族は亜種によって大きな差が生じるものの、一般的には人間よりも1.3倍ほど成長が早いとスキルからの情報があった。だとすれば、13歳の彼女は人間でいうところの16歳か17歳くらいの体つきをしていてもおかしくないはずだ。しかし、どう見ても小学生の高学年くらいにしか見えない……。これまでの過酷な生活による栄養不足が原因なのか、それとも彼女のフェレット族という種族が、他の獣人に比べて成長が遅いタイプなのか……。どちらが原因なのか、今の俺にはそれを知る術がないな)


ちなみに、相手に何か教えようとすると、たとえ教育的な気持ちでなくても、スキルが少しだけ発動する。本格的に教育としてスキルを発動する場合より、脳に流れ込んできた情報が少ないのですが



身体的な成長の遅れだけでなく、教養面でもクレオは年齢相応とは言えなかった。おそらく、これまできちんとした教育を受ける機会がなかったのだろう。簡単な文字の読み書きもおぼつかず、計算に至っては、指を使わないと一桁の足し算や引き算もおぼつかない様子だった。この世界の歴史や地理、文化といった一般的な知識も、ほとんど持ち合わせていないようだった。

しかしその一方で、狩人としての生活能力は驚くほど高かった。それは、亡くなった「じいちゃん」からしっかりと教え込まれた賜物なのだろう。育人はまだ実際にクレオが狩りをする場面を見たことはないが、彼女が話す罠の知識や、森の動物の習性に関する話は非常に具体的で、経験に裏打ちされたものだと感じられた。小屋に時折持ち帰られる小動物の肉や毛皮も、彼女が小弓や罠を巧みに使って仕留めている証拠だった。

それら全てが、彼女の「教師」として、これから何をどう教えていくべきか、その計画を立てるための貴重な情報となった。クレオの持つ可能性を最大限に引き出すために、そして彼女が「名前を輝かせる」という目標を達成するために、自分に何ができるのか。育人は、静かに思考を巡らせていた。

そして三日目の朝。いつも通り森へ向かおうとするクレオに、育人は再び声をかけた。

「クレオちゃん、今日こそは私も一緒に行ってもいいかな?」

クレオは、案の定、少し困ったような顔をして首を横に振ろうとした。

「でも、先生は……」

「ほら、クレオは毎日朝早くから夕方近くまで森で働いているだろう? その努力自体は本当に素晴らしいことだと思う。でもね、それじゃあ、肝心の『授業』を受ける時間がなくなってしまうんじゃないかな?」

育人は、少し意地悪く、しかし優しい笑顔でそう言った。

「私が森について行って、少しでもクレオの仕事を手伝えれば、その分早く帰ってきて、勉強する時間も作れると思うんだ。それに、森の中で実際に色々なものを見ながら教えた方が、クレオも分かりやすいかもしれないしね」

育人のその言葉に、クレオはうぐっと言葉を詰まらせた。「授業」という言葉を出されると、彼女も強くは反論できないようだ。彼女自身、育人に何かを教えてもらうことを強く望んでいるのだから。

しばらく逡巡した後、クレオは小さな声で、「……わかった。でも、危ないことはしないでね」と、ようやく同行を許可したのだった。

育人の同行を承諾したクレオは、少しだけ表情を和らげると、小屋の隅にある小さな物置――彼女が「蔵」と呼んでいる場所――から、少し古びた背負い籠を取り出してきた。

「これ、じいちゃんが昔使ってたやつだけど、先生なら使えると思う。軽いし、丈夫だから」

そう言って、クレオは育人にその籠を手渡した。それは、丁寧に編まれた蔓製の籠で、長年使い込まれている割には手入れが行き届いているようだった。

一方、クレオ自身はいつものように、手際よく森へ行く準備を整えていく。左腰には鞘に収まった手製のナイフと、小さな矢が数本入った矢筒。右腰には、彼女の背丈に合わせた小ぶりな弓。そして、背負い籠には、ロープや小さな鎌、火打石など、森で活動するために必要な道具が手際よく詰め込まれていく。その姿は、とても13歳の少女とは思えないほどに手慣れており、森で生きる者の厳しさとたくましさを感じさせた。

育人は、この見知らぬ世界の、見知らぬ小屋で、一人の獣人の少女と共に、新たな一歩を踏み出すことになったのだ。期待と不安、そして家庭教師としての使命感が、彼の胸の中で静かに燃え始めていた。


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