第一章:第五節:予想外の申し出
クレオの瞳から溢れそうだった涙は、しかし、彼女の強い意志の光に押し戻されたかのように、頬を濡らすことはなかった。代わりに、その赤い瞳は決然とした輝きを増し、まっすぐに育人を見据えていた。
そして、彼女は、育人が全く予想していなかった言葉を口にした。
「だから……育人さん。あたしを……あたしを、弟子にしてくださいっ!」
その声は、まだ幼さを残しながらも、切実な響きを帯びて小屋の中に響いた。
(で……弟子!?)
育人は、クレオの突然の申し出に、言葉を失った。思考が完全に停止する。
(いやいやいや……どうして、どういう経緯でそうなったんだ!?)
つい先程まで、彼女の過酷な過去と、それに伴う深い絶望と孤独を聞かされ、同情と無力感で胸がいっぱいになっていたというのに。この急展開は、あまりにも予想外すぎる。
育人が混乱の渦に飲み込まれていると、クレオはさらに言葉を続けた。その赤い瞳には、疑いのない信頼と、そして一縷の望みを託すような強い光が宿っている。
「……アルビノとかいうの、よく分からないけど……育人さんなら、きっと、あたしの本当の力……引き出せるはずだって、そう思うんだ!」
彼女の言葉は、純粋で、疑うことを知らない子供特有の直感に基づいているのかもしれない。あるいは、長い孤独の中で、初めて自分を肯定し、希望の光を示してくれた育人という存在に、藁にもすがる思いで全てを託そうとしているのか。
(……ううっ、この真っ直ぐな眼差し……ずるい、とさえ思ってしまうな)
クレオの、期待と信頼、そして懇願が入り混じった瞳。それは、家庭教師として、答えに窮した際に生徒から向けられた、あの「先生ならきっと何とかしてくれる」という眼差しと重なった。教師として、その期待を裏切るわけにはいかない。たとえその場で答えが出せなくても、必ず次の機会までには調べて解決策を見つけ出すのが、彼の矜持だった。
(だが、今回は異世界だ。俺の知識はほとんど役に立たないだろうし、調べる手段もない。こうなったら……やはり、あの【伝授者の叡智】というスキルに頼るしかないのか……? 正直、まだ全幅の信頼を置けるわけではないが……頼むぞ、俺のスキル!)
育人は、クレオの真剣な眼差しから逃れることなく、静かに彼女の言葉を受け止めていた。
(さっき、アルビニズムについて教えようとした時の、あの感覚を思い出せ……。クレオに、この異世界でのアルビノとしての力を引き出す方法を……教えたい、教えるんだ!)
育人が強く、そう心の中で念じた瞬間、再びあの感覚が彼を襲った。ズキン、という軽い衝撃と共に、前回アルビニズムについて教えようとした時よりもさらに膨大な、獣人族のアルビノに関する様々な知識が、彼の脳内へと怒涛のように流れ込んできたのだ。
その生態、歴史の中でどのように扱われてきたか、関連する伝承、そして異世界特有の魔素との親和性や稀に発現する特異な能力の可能性など、多岐にわたる情報が流れ込んできた。しかし、その膨大な知識の中に、彼女の力を具体的に「どうすれば引き出せるのか」という明確な方法は、なぜか含まれていなかった。
(……これは「教える」というより、ほとんど「研究」に近いかもしれないな……。元の世界にいた頃は、手に負えないと感じる生徒は滅多にいなかった。万が一いたとしても、もっと専門的な知識を持つ他の先生に頼るという選択肢もあった。だが、このスキルにその「方法」がないということは……もしかしたら、この世界でもまだ誰も、彼女のような存在の力を引き出す具体的な方法を知らないのかもしれない……)
情報の奔流が収まった時、育人の頭の中には、クレオを導くための具体的な「方法」ではなく、膨大な「情報」と、そしてそれを元に試行錯誤していくしかないという厳しい現実だけが残されていた。
育人は、クレオの期待に満ちた眼差しに応えるように、ゆっくりと口を開いた。
「……クレオちゃん。正直に言うと、アルビノのことは少し知っているけれど、君の中に隠れているかもしれない力を、確実に引き出せる方法は、今の私には分からないんだ」
育人の言葉に、クレオの赤い瞳から期待の光が急速に失われ、不安と失望の色が濃く浮かんだ。彼女は俯いてしまい、小さな肩がかすかに震えているのが見て取れた。先程までの決意に満ちた表情はどこにもない。
その様子に胸を痛めながらも、育人は言葉を続けた。
「でもね、だからといって、何もしないわけじゃないんだよ。本当にクレオという名を響かせたいなら、ただ強いだけでは足りないんだ」
そして、いつもの家庭教師としての、優しく、そして少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「生徒として、私の元で他の必要なことを学びながら、クレオちゃんの可能性を一緒に探してみよう」
クレオは、俯いたまま、それでもわずかに顔を上げ、潤んだ赤い瞳で育人を見つめた。その瞳には、まだ完全には消えていない失望の色と、それでもなお育人の言葉に何かを期待するような、複雑な感情が揺らめいていた。
「必要なこと……?」
彼女の赤い瞳が、純粋な疑問を浮かべて育人を見つめている。
「ああ、そうだな……たとえば、だ。いつかクレオちゃんがすごく強くなって、大きなドラゴンを狩ったとするだろう?」
育人は、クレオにも分かりやすいように、具体的な場面を想像させようとした。
「その時、ある商人がやってきて、『そのドラゴンの死骸を買い取りたい』と君に言ったとする。さあ、クレオちゃんなら、いくらで売るかな?」
クレオは、育人の唐突な質問に少し戸惑ったようだったが、小さなフェレット耳をぴくぴくと動かしながら、一生懸命に考え始めた。そして、おずおずと、探るような口調で答えた。
「えっと……金貨……10枚、とか……?」
「ほう、金貨10枚か。どうしてその値段だと思ったんだい?」
育人は、クレオの答えに興味深そうに問いかける。
「あたし、金貨なんて見たことないけど……じいちゃんが、金貨はすごく価値のあるお金だって言ってたから……。だから、10枚もあれば、きっとすごい大金になるんじゃないかなって……」
クレオは、少し自信なさそうに、しかし一生懸命に自分の考えを説明した。
「うーん、それはクレオちゃんが、お金の価値についてまだよく知らないからかもしれないな……」
育人は穏やかに言いながら、頭の中で強く念じた。
(クレオに、この世界の貨幣価値について教えるんだ!)
瞬間、ズキン、と軽い頭痛と共に、スキル【伝授者の叡智】が発動した。今度は、この世界の貨幣制度、各貨幣の価値、流通状況、さらには主な交易品や物価に関する情報までが、整理された形で脳内に流れ込んでくる。
育人は、その中から必要な情報を引き出し、クレオに分かりやすく説明し始めた。
「クレオちゃんは、普段あまり買い物とかはしないかもしれないけど、普通の人が日常的に物々交換以外で何かを買う時は、主に『銅貨』を使っている、というのは知っているかな?」
クレオは小さく頷く。
「うん。その銅貨の上に『銀貨』があって、さらにその上に『金貨』があるんだ。年代や発行した国によって多少価値は変わるらしいんだけど……大まかに言うと、銀貨一枚で銅貨100枚から120枚くらいの価値がある。そして金貨はもっとすごくて、金貨一枚で、なんと銅貨の1万枚から1万8千枚分もの価値があるんだ」
「い、いちまんまい……!?」
クレオは、あまりの桁の違いに目を丸くした。彼女の赤い瞳が、驚きで大きく見開かれている。
育人は頷き、さらに続けた。
「ちなみに、これはアリシス王国っていう、ここから少し離れた大きな国での話らしいんだけど、以前、小型のドラゴンの死骸がオークションに出された時、最終的に1万5千2百アリシス金貨で落札された、という記録があるそうだ」
「いちまんごせん……にひゃく……きんか……」
クレオは、もはや想像もつかない金額に、呆然とした表情を浮かべている。
育人は、そんなクレオの顔を見て、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
「さて、クレオちゃん。金貨十枚でそのドラゴンを売ってしまった自分を、今、どう思うかな?」
クレオは、はっとしたように顔を上げ、それからみるみるうちに顔を真っ赤にした。
「う……うわあああ……! あたし、とんでもない大損するところだった……!」
両手で顔を覆い、羞恥と後悔で身悶えするクレオの姿は、年相応の子供らしくて、育人は思わず微笑んでしまった。
「物の価値を知る、というのは、生きていく上で必要なことの一つなんだよ。他にも、文字の読み書きや計算、人と上手く話す方法、自分の身を守る術……そういう色々なことを知っておかないとね」
育人は、優しく諭すように言った。
「いくらクレオちゃんが強くなっても、そういう知識がなくて人に簡単に騙されたりしたら……もしかしたら、『間抜けな竜殺しのクレオ』なんて、不名誉なあだ名で呼ばれちゃうかもしれないよ?」
「ま、間抜けな……!?」
クレオは、顔を覆っていた手を外し、心外だと言わんばかりに育人を睨みつけた。その赤い瞳には、先程までの羞恥心とは違う、明確な嫌悪の色が浮かんでいる。しかし、同時に、育人の言わんとすることも理解したのだろう、その表情にはどこか納得したような色も混じっていた。
「……それは……嫌だ……」
ぽつりと漏らした言葉には、彼女の素直な気持ちが表れていた。
「じゃあ、クレオは、私のこの世界で初めての生徒、ということになるな」
育人は、改めてクレオに向き直り、にっこりと微笑んだ。
すると、クレオはこくりと頷き、少しだけ頬を赤らめたように見えた。そして、思い出したように口を開いた。
「……そういえば、育人先生は……『別の世界』から来たって言ってたよね。これから先生は、どこか行くあてでもあるの? それに、どうして森の中で倒れてたりしたの?」
クレオの赤い瞳が、今度は純粋な好奇心に満ちて育人を見つめている。彼女の中で、育人に対する警戒心よりも、興味の方が大きくなってきたのかもしれない。
「ああ、行くあては……今のところ、全くないんだ」
育人は苦笑しながら答えた。
「森で倒れていたのは……その、アフラ・マズダーという方に、いきなりこの世界の森の中に放り込まれてしまってね。それで、多分、その衝撃か何かで気を失ってしまったんだと思う。気が付いたら、クレオちゃんに助けられて、この小屋にいた、というわけだよ」
「アフラ・マズダー……?」
クレオは、その名前に何か引っかかるものを感じたのか、小さく首を傾げた。白いフェレット耳がぴくりと動く。
「……どこかで、聞いたことがあるような……ないような……」
(アフラ・マズダーの名を知っているのか? いや、この反応だと、はっきりとは知らないが、聞き覚えがある、という程度か。彼の布教活動は、この世界ではまだそれほど広がってはいないのかもしれないな。それとも、クレオちゃんのような森の奥で暮らす子には、まだ情報が届いていないだけか……。いや、でも、彼女のような子でも何となく印象に残っているのなら、すでにある程度は人々の間に知れ渡っていると考えるべきか……?)
育人は、クレオの曖昧な反応から、この世界におけるアフラ・マズダーの知名度や影響力について、様々な可能性を頭の中で巡らせていた。
「とにかく、私もこの世界に来たばかりで、これからどこへ行こうかとか、まだ何も決まっていないんだよ」
育人は、現状を正直にクレオに伝えた。
すると、クレオの赤い瞳が、きらりと輝いた。
「どこにも行かないなら……ここに残って、あたしを教えてくれるってことだよね? ……あたし、先生がどこへ行くことになっても、絶対についていくって決めたけど」
彼女の声には、先程までの弱々しさはなく、確かな決意と、そして育人への強い信頼が込められていた。