第一章:第二節:獣人の少女
育人は、目の前の光景に息を呑んだ。地球ではおよそ考えられない、しかしどこか神秘的な美しさを感じさせる姿だった。
一方、少女は自分のフードが外れたことに気づき、顔を真っ赤にした。そして、まるで何か恐ろしいものから隠れるかのように、慌ててフードを深く被り直し、震える手で尻尾を服の内側へと押し込もうとする。耳も、力なくぺたりと頭に伏せられてしまった。
「……み、見た……?」
先程までのぶっきらぼうな態度はどこへやら、少女は怯えきった小動物のように身体を縮こませ、か細い声で育人に問いかけた。その声は明らかに震えており、赤い瞳(フードの隙間からわずかに見える)は不安と恐怖に揺れていた。それは、育人がこの小屋で目覚めてから初めて見る、彼女の剥き出しの感情だった。
(この反応……まるで、何かを隠していたのがバレて、ひどく怯えているようだ。獣人族であることは、この世界では何か特別な意味を持つのか? この過剰な怯え方は、単に姿を見られたことに対する羞恥心だけでは説明がつかない気がする。もしかしたら、彼女たち獣人族は、この世界では何か困難な立場に置かれているのかもしれない……)
育人は、少女の尋常ではない怯え方から、何か複雑な事情があるのではないかと推測した。
そして、少女の不安を少しでも和らげようと、努めて優しい声で答えた。
「ああ、見たよ。……その、とても可愛らしい耳と尻尾だと思った」
それは、お世辞ではなく育人の正直な感想だった。そして、彼女への配慮も込めたつもりだった。下手に隠したり、見なかったふりをしたりするよりも、正直に、そして肯定的に伝える方が良いだろうと判断したのだ。
育人の言葉に、少女は顔を上げた。フードの隙間から見える赤い瞳が、驚いたように大きく見開かれている。
「……ほんと……? じいちゃん……と同じこと、言うんだ……」
か細い声で、少女はぽつりと呟いた。その声には、先程までの怯えとは違う、どこか懐かしむような、そして少し寂しそうな響きが混じっていた。
「じいさん? 君のおじいさんがいるかい? 今は出かけているのかな?」
育人は、少女の注意を彼女の外見から逸らそうと、そして少しでも彼女の警戒を解こうと、努めて何気ない口調で尋ねた。
しかし、その言葉は裏目に出た。
少女の表情が、さっと曇ったのが分かった。伏せられた耳が、さらに力なく垂れ下がる。
「……じいちゃんは、もういない」
消え入りそうな声で、少女はそう答えた。その言葉には、抑えきれない悲しみが滲んでいた。
(しまった……!)
育人は内心で舌打ちした。良かれと思って話題を変えようとしたが、結果として彼女の心の傷に触れてしまったようだ。配慮したつもりが、かえって無神経な発言になってしまった。
「ご……ごめん」
育人は、他に言葉が見つからず、素直に謝罪した。
少女は、フードの奥で小さく首を横に振った。
「……いい……大丈夫……。じいちゃんは、大往生だったから」
その声はまだ少し震えていたが、無理に気丈に振る舞おうとしているのが育人にも伝わってきた。彼女の言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。
(ぜんぜん大丈夫そうじゃないな……。「大往生でよかった」なんて、それ言えるはずがないだろうに……)
育人は、少女の健気な言葉に胸が締め付けられる思いだった。これ以上、彼女の過去に踏み込むのは避けるべきだろう。
「私は、加賀育人。加賀が苗字で、育人が名前だ」
とにかく話題を変えようと、唐突でも変えようと、育人は改めて自己紹介をした。苗字を後に言う文化かもしれないことも考慮して、わざわざ言葉を添えた。
「君の名前は……聞いてもいいかな?」
できるだけ優しい声色で、育人は尋ねた。
少女は、しばらく黙っていたが、やがて小さな声で答えた。
「……クレオ。……名前は、クレオ。……苗字は、ない」
(苗字がない……か。アフラ・マズダーの【言語能力】のおかげで、「苗字」という言葉自体は翻訳されて意味も通じている。ということは、この世界にも苗字の概念は存在するはずだ。それなのに彼女に苗字がないというのは、獣人族の慣習なのだろうか? それとも、彼女が何か特別な事情を抱えているのだろうか……)
育人は、クレオの言葉に新たな疑問を抱いたが、それを顔には出さなかった。
「クレオ……いい名前だね。私の故郷にある、古い国の美しい女王も、確かそんな名前だったよ」
育人は、クレオパトラのことを思い浮かべながら、穏やかな笑顔でそう言った。少しでも彼女の緊張が解ければ、という思いからだった。
育人の言葉に、クレオはわずかに顔を上げた。フードの隙間から見える赤い瞳が、少しだけ揺れたように見えた。
「……女王……?」
彼女の声には、戸惑いと、ほんの少しの興味が混じっている。美しい女王と同じ名前、という言葉が、彼女の心に小さな波紋を投げかけたのかもしれない。
「あたし……そんな、立派な名前じゃ……」
クレオは、俯きがちにそう呟いた。その声には、自己肯定感の低さが滲み出ている。
育人は、クレオのその反応を見て、さらに言葉を続けた。
「そんなことはないよ。名前は、その人がどう生きるかで輝きが増すものだと思う。クレオ、君がこれからどう生きるかで、君の名前はもっと素敵なものになるはずだ」
それは、家庭教師として多くの生徒たちに伝えてきた、育人の信念でもあった。
クレオは、育人の言葉にハッとしたように顔を上げた。フードの奥の赤い瞳が、今度は驚きと、そしてほんのわずかな希望の光を宿して育人を見つめている。
「あたしも……あたしの名前、じいちゃんがくれた名前を、輝かせられるの……?」
その声は震えていたが、そこには確かな意志の力が感じられた。
(「私が輝く」ではなく、「名前を輝かせる」か……。どうやら、お爺さんのことを本当に大切に思っているんだな)
育人は、クレオの言葉に彼女の祖父への深い愛情を感じ取り、胸が温かくなるのを感じた。
「ああ、努力すれば、きっとできるさ」
育人は、力強く頷いた。
しかし、育人のその言葉に、クレオの表情は再び曇った。希望の光が宿ったかのように見えた赤い瞳も、また不安の色に揺らめく。
「でも……あたし、獣人族だし……それに、この目、赤いから……生まれた村では、忌み子だって……」
クレオの声は、最後の方はほとんど聞き取れないほど小さくなっていた。
育人は、クレオのその言葉に胸を痛めた。彼女が抱えるコンプレックスの深さが伝わってくる。
「瞳が赤いのは、何か悪いのかな?」
育人は、できるだけ穏やかに、彼女を問い詰めるような響きにならないよう注意しながら尋ねた。
クレオは、びくりと肩を震わせ、さらに深くフードを引いた。
「……うん……。故郷の村では、みんなに言われた……魔族の血筋だって……忌み子だって……」
途切れ途切れの言葉からは、彼女が受けてきた仕打ちの過酷さが窺える。
「お父さんとお母さんが……戦争で、魔族に殺されてからは……もっと酷くなって……。それで、結局……村から、追い出されたんだ……」
クレオの声は、最後には涙声になっていた。
「忌み子なんて、そんなの迷信だよ」
育人は、きっぱりと言った。(神様が実在するこの世界で、「迷信」と言い切るのは少々乱暴かもしれないが、今はクレオの心を少しでも軽くすることが先決だ、と彼は判断した。)
「ほら……君のその可愛らしい耳と尻尾、そしてルビーみたいに綺麗な赤い瞳を見せてごらんよ。そんな素敵なものを隠していたら、もったいないじゃないか」
育人は、できるだけ明るい声で、クレオに語りかけた。
クレオは、フードの奥で小さく顔を上げた。その赤い瞳には、まだ涙が滲んでいる。
「……でも……じいちゃんは、他人には見せちゃだめだって……」
か細い声で、クレオは反論した。それは、祖父の言いつけを頑なに守ろうとする、子供らしい純粋さの表れでもあった。
「僕は他人じゃないさ」
育人は、少し悪戯っぽく笑って見せた。
「クレオは、僕を助けてくれたじゃないか。助けてくれた人は、もう他人なんかじゃない。そうだろ?」
少々、屁理屈かもしれない。だが、今のクレオには、そんな理屈でも何でも使って、彼女の心の壁を少しでも取り払ってあげたかった。