序章:第三節:夢授業とスキル
「……帰る術はない、か」
育人はアフラ・マズダーの言葉を反芻し、小さく呟いた。その表情には、諦観と、それからわずかな困惑が浮かんでいる。
「困りましたね……」
アフラ・マズダーは、育人のその反応を意外そうに見た。もっと取り乱したり、あるいは絶望したりするかと思ったのだろう。
「ほう? 家族や恋人のことが心配か? それとも、元の世界にやり残したことでも?」
育人は静かに首を横に振った。
「いえ……家族と呼べる者はもうおりませんし、恋人もいません。親友と呼べる男は一人いますが、彼ならば私の不在も上手く受け流してくれるでしょう。そういう奴なので」
そこまで言って、育人はふと遠い目をした。彼の脳裏に浮かんだのは、特定の個人の顔ではなく、複数の、まだ幼さの残る顔、顔、顔だった。
「ただ……少し、気掛かりなのは、今の教え子たちのことです」
ぽつり、と漏れた言葉には、偽らざる心配の色が滲んでいた。
「彼らは、これから大切な時期を迎える。私が突然いなくなったら、きっと混乱するでしょうし、勉強へのモチベーションも……。約束した進路指導も、まだ途中でしたし……」
それは、神の壮大な計画や異世界での新たな人生といった大きな話の前では、あまりにも個人的で、些細な悩みかもしれなかった。しかし、育人にとっては、今この瞬間に最も心を占める、切実な問題だったのだ。家庭教師として、彼らと真摯に向き合ってきた自負があるからこそ、その責任感が彼を苛む。
アフラ・マズダーは、育人のその言葉を黙って聞いていた。その金色の瞳が、わずかに細められる。そして、満足そうに深く頷いた。
「フム……やはり我が選んだ男よ。その心根、実に善きものだ。我が神としての見る目に間違いはなかったな」
アフラ・マズダーはそう言うと、一瞬、何かを考えるように宙を眺めた。
「しかし、お前の肉体を地球に返すのは、今の我には到底不可能だ。次元を渡るというのは、それほどに大掛かりな術なのでな。だが……」
そこでアフラ・マズダーはニヤリと笑みを浮かべ、懐から何かを取り出した。それは、滑らかな玉石を磨き上げて作られたかのような、薄い板状の物体。現代のスマートフォンによく似た形状だが、表面には微細な紋様が刻まれ、淡い光を放っている。
「そうだ、こういうのはどうだ? お前の魂と、その教え子たちの魂を繋ぐ。週に一度、お前が彼らの夢の中に現れ、教えを施すことができるように手配しよう。これならば、お前の心配も多少は和らぐであろう?」
育人は、アフラ・マズダーの意外な提案に目を見張った。夢の中で教える?そんなことが可能なのか?
アフラ・マズダーは、その玉石製のスマホのようなものを手際よく操作し始めた。その表面に、光の文字や図形が次々と浮かび上がっては消えていく。
「ふむ、こういうことは、ちゃんと御当地の神々に話を通しておくのが礼儀というものだ。勝手に他所の信徒の夢に干渉するのは、後々面倒なことになるからのう」
そう言いながら、アフラ・マズダーは玉石の板を耳に当てた。
「おお、もしもし? ヤオヨロズの神々の窓口担当の方でおられるかな? こちら、アフラ・マズダーと申す者だが……いやはや、いつもお世話になっております。実は少々、そちらの世界の魂にアクセスさせて頂きたく……ええ、ええ、もちろん、悪用などでは断じてありませぬ。むしろ、教育的指導の一環でしてな。はい、対象は……」
アフラ・マズダーは、流暢な(しかしどこか古風な)口調で、見えない相手と会話を始めた。その姿は、まるで敏腕のビジネスマンが他社との交渉を進めているかのようだった。
育人は、あまりの展開に言葉を失い、ただ呆然と神の「電話交渉」を見守るしかなかった。
(……なんか、思っていた神様の人物像と、だいぶ違うような……)
育人の脳裏に浮かんだのは、もっと荘厳で、近寄りがたく、人間の些事など意にも介さない絶対的な存在としての「神」のイメージだった。しかし、目の前で玉石の板を片手に「電話交渉」に勤しむアフラ・マズダーは、どこか人間臭く、目標達成のためなら手段を選ばないやり手の事業家といった風情だ。そのギャップに、育人は戸惑いを隠せないでいた。
しばらくすると、アフラ・マズダーは満足げな表情で玉石の板を懐にしまった。
「よし、できたぞ、加賀育人よ。ヤオヨロズの神々も、教育熱心な若者の未来のためならばと、快く許可をくださったわ。これで週に一度、お前が眠りについた時、その魂が教え子たちの夢の中へと渡り、彼らに教えを施すことができるようになった。感謝するが良いぞ、我が交渉力と、日本の神々の寛大さにな!」
アフラ・マズダーは得意満面といった様子で胸を反らせた。
育人は、まだ半信半疑ながらも、アフラ・マズダーの言葉にわずかな安堵を覚えた。教え子たちへの気がかりが完全に消えたわけではないが、それでも、何らかの形で関わりを持てるというのは大きな救いだ。
「……ありがとうございます。その、アフラ・マズダー様、そして日本の神々にも」
「うむ、礼には及ばぬ。これも我が布教活動の一環……いや、善き行いをする者への当然の報いというものよ」アフラ・マズダーは咳払いを一つして、話を戻した。
育人は、そこでふと新たな疑問が湧いたのを口にした。
「あの、もう一つ質問させて頂いてもよろしいでしょうか。先程、あなたは『この世界の時間で言えば』と仰いました。つまり、この異世界と地球とでは、時間の流れが異なっているということでしょうか? もしそうなら、『週に一度』というのは、どちらの世界の時間を基準にしているのですか?」
アフラ・マズダーは、育人の鋭い指摘に感心したように頷いた。
「ほう、良いところに気が付いたな。確かに、世界によって時間の流れる速さは異なることがある。特に、生まれたばかりの若い世界の時間は、我々のような古くから存在する世界のそれよりも遥かに速く進むものだ」
アフラ・マズダーは、まるで宇宙の講義でもするかのように語り始めた。
「だが、安心するが良い。この世界も、かつては地球よりも時間の流れが速かった時期もあったが、宇宙がある程度拡大し安定期に入ると、時間の流れは徐々に緩やかになるものだ。そして今現在、この世界の時間の流れは、お前たちがいた地球のそれと、ほぼ同じになっている。故に、『週に一度』というのは、どちらの世界の感覚で捉えても、そう大きな差異はない。心配する必要はないぞ」
その説明に、育人はようやく納得したように頷いた。
「なるほど……ご説明、ありがとうございます。色々と、腑に落ちました」
育人は一礼し、顔を上げた。その表情には、先程までの混乱や不安の色は薄れ、目の前の状況を受け入れ、そしてこれから起こるであろう未知の出来事に対する、ある種の覚悟のようなものが浮かんでいた。
アフラ・マズダーは、満足そうに頷いた。
「うむ。では、いよいよお待ちかね、ドキドキワクワクのスキル授与の時間と行こうではないか!」
アフラ・マズダーは、まるで子供が悪戯を思いついたかのように、楽しげに目を輝かせた。
「お前の魂から生み出されるものだからな、正直、我にも何が飛び出すかは分からんのだ。まあ……ある程度の『当て』はあるのだがな、ククク」
そう言って、アフラ・マズダーは再び育人の胸元に手をかざした。先程、育人の制止によって中断された光球が、再びその輝きを増し始める。
今度は、育人も覚悟を決めていた。光球はゆっくりと、しかし確実に育人の胸へと近づき、そして――スゥッと、吸い込まれるように彼の身体の中へと消えていった。
瞬間、育人の全身を温かな何かが駆け巡った。それは決して不快なものではなく、むしろ心地よい高揚感と、頭の中に膨大な情報が流れ込んでくるような不思議な感覚だった。まるで、今まで閉じていた知識の扉が、一斉に開かれたかのように。
目の前にあった光の板が、再びその表示を変える。そこには、新たな文字が浮かび上がっていた。
【スキル:伝授者の叡智】
効果:他者に知識や技術を「教える」という明確な目的と意思を持った時、対象となる知識・技術を一時的に習得し、行使することができる。伝授可能な範囲は、自身の理解度と相手の受容能力に左右される。
「ほう……やはり、これか!」
アフラ・マズダーが、満足そうに声を上げた。その表情は、まるで自分の予想が的中したことを喜ぶ研究者のようだ。
「『伝授者の叡智』……お前の魂の本質、家庭教師としての経験と、生徒を想う心が結実した、実にお前らしいスキルではないか! 我が見立て通りだ!」
育人は、自分の内側に宿った新たな感覚と、目の前のスキル説明を交互に見比べた。
「伝授者の叡智……教えるためなら、一時的に知識を身に着けられる……?」
それは、まさに家庭教師であった彼にとって、これ以上ないほどに適合した能力と言えた。地球にいた頃は、自分の知識の範囲内でしか教えることはできなかった。しかし、この力があれば、理論上はどんなことでも教えられる可能性があるということだ。
「素晴らしい……これなら、異世界でも、誰かの役に立てるかもしれない……」
そして、夢の中とはいえ、教え子たちにも、より多くのことを教えられるかもしれない。育人の胸に、新たな希望の光が灯った。
育人は、ふと顔を上げ、アフラ・マズダーに問いかけようとした。
「あの、アフラ・マズダー様。このスキルについて、もう少し詳しくお聞きしても…例えば、どの程度の知識まで扱えるのか、あるいは何か制約のようなものは…」
しかし、アフラ・マズダーは楽しそうに首を横に振った。
「フム。それについては、我が口から説明するよりも、お前自身で試してみるのが一番であろう。何せ、お前の魂から生み出された力なのだからな。使いこなすうちに、自ずと理解も深まるはずだ。それに、その方が面白いであろう?」
悪戯っぽく笑う神の言葉に、育人は苦笑するしかなかった。確かに、自分で試行錯誤する方が、この神の性格には合っているのかもしれない。
アフラ・マズダーは、そんな育人の様子を満足げに眺めている。
「うむ、その力をどう使うかは、お前次第だ。この世界で生き抜き、そして願わくば、我が教えを広める一助となってくれることを期待しているぞ、加賀育人」
その言葉には、相変わらず打算的な響きも含まれていたが、今の育人には、それ以上に、この神からの期待と、新たな世界への扉が開かれたことへの興奮が勝っていた。
こうして、加賀育人の異世界での新たな人生が、一つのユニークなスキルと共に、幕を開けようとしていた。