第一章:第十四節:ヤキモチ
トーマス兄妹が嵐のように去っていった翌日。
育人とクレオは、いつもと変わらぬ朝を迎えた。ピキキたちの世話を済ませ、森での採取とピキキ小屋の建築資材集めという日課をこなす。育人も少しずつ森での活動に慣れてきており、クレオと協力して作業を進めることで、以前よりも多くの成果を上げられるようになっていた。
その日も、午前中の森仕事を終え、小屋に戻って簡単な昼食を摂った直後のことだった。
昨日と同じように、クレオが不意にぴくりとフェレット耳を立て、鋭い視線を森の奥へと向けた。そして、すぐにフードを目深に被り、尻尾を隠す。育人も、彼女のその仕草で来訪者の気配を察した。
(またトーマスさんたちだろうか……? 昨日帰ったばかりだというのに、何か急な用事でもあったのか……?)
育人がそう考えていると、思った通り、昨日と同じ方向から三つの人影が近づいてくるのが見えた。先頭を歩いているのは、昨日も見た快活な青年トンチと、しっかり者の少女アンの兄妹だ。そして、彼らの後ろには、二人よりも一回り大きな、がっしりとした体つきの中年男性が続いている。背丈はトンチより少し低いくらいだが、その鍛え上げられた筋肉は、一目で屈強な人物であることが窺えた。おそらく、彼がトーマス家の家長、イギリー・トーマスなのだろう。
育人とクレオが小屋の前に出て彼らを迎えようとすると、イギリーの大きな、そしてどこか陽気な声が森に響き渡った。
「おっ! クレオじゃないか! 息災だったか? そして、そちらが噂に聞く大賢者、育人先生ですかい!」
イギリーの豪快な声と、クレオが昨日紹介した「大賢者」という言葉に、育人は苦笑いを浮かべた。
「あはは、大賢者だなんて、とんでもない。ただの通りすがりの者ですよ。知識の量には多少自信がありますけどね、それはまあ……色々と学んできたおかげなので」
育人は、曖昧に微笑みながら、当たり障りのない返事をした。初対面の相手に、自分の素性や能力について詳しく話す必要はないだろうと判断したのだ。
すると、イギリーはにこやかな、しかしどこか値踏みするような目で育人を見ながら、満足そうに頷いた。
「育人先生、ご謙遜ですな。うちのアンが、先生のことをえらく評判が良いように話しておりましたぞ。昨日の今日で、もう先生呼びとは、あの子もなかなか隅に置けませんな。娘は、私や女房よりも賢いくらいですからな、そのアンの見る目を、私は信じておりますよ」
その言葉には、娘への深い信頼と、育人への純粋な興味が滲み出ていた。
そして、イギリーは育人の肩をバンバンと力強く叩きながら、豪快な声で続けた。
「ま、単刀直入に言わせてもらうとですな、育人先生! 今日は、先生とクレオが作ってるっていう、あのピキキ小屋の手伝いに来たんでさぁ!」
その声は、森の木々を揺るがすかのような勢いだった。
育人は、イギリーの突然の申し出に驚き、慌てて言葉を返した。
「いえいえ、それは恐れ入ります……! 私たちだけで何とか……」
「はっはっは! 遠慮なさるな、育人先生! 先生はどう見ても、あんまり力仕事に向いているタイプじゃなさそうですからな!」
イギリーは、育人の華奢とは言えないまでも、農作業に慣れた自分の体つきとは明らかに違う様子を見て、またもや豪快に笑った。
「ま、ただ働きをするって言うわけじゃありやせん。もし、先生が設計したそのピキキ小屋が上手くいって、本当にピキキの卵がたくさん手に入るようになったら、ぜひとも、うちの鶏の小屋も新しく設計していただきたいんですわ。今うちの鶏は、屋敷の隣にただ杭で囲ってるだけなんで、たまにキツネやイタチにやられちまうこともあって……」
イギリーは、少し困ったような顔でそう付け加えた。
(なるほど……いわゆる先行投資、といったところか。このイギリー・トーマスさんは、一見するとただ豪快なだけに見えるが、実はかなり計算高く、そして行動力のある人物のようだ。クレオちゃんも言っていたが、村から離れたこの土地を自ら開墾したというのも、先見の明と実行力がなければできないことだ。見かけによらず、なかなかの切れ者かもしれないな)
育人は、イギリーの申し出の裏にある意図を察しつつ、彼の人物像を改めて評価していた。
(それに、この申し出は、俺たちにとっても悪い話じゃない。むしろ、ウィンウィンと言えるだろう。ピキキ小屋の建設が早く進むのはもちろん、トーマス家との良好な関係を維持し、さらに深める良い機会にもなる。鶏小屋の設計図を書くのだって、頭は使うだろうが、それほど難しいことではないはずだ。ピキキと違って鶏なら、地球の既存の設計を参考に、この世界の素材や環境に合わせて少しアレンジすれば、十分に実用的なものができるだろう。ある意味、ピキキ小屋より楽かもしれないな)
そう考えると、育人にとっても、イギリーの申し出を断る理由はなかった。
イギリーとトンチという屈強な男手が二人も加わったことで、ピキキ小屋の建設作業は一気に効率が上がった。仕事の分担も自然と変わってくる。単純な力仕事の順番で言えば、この中で育人は下から二番目、アンよりかろうじて強いという程度だろう。重い丸太を運んだり、硬い地面に杭を打ち込んだりといった作業は、イギリーとトンチが中心となって進めていく。クレオも、持ち前の身軽さと森での経験を活かして、彼らの補助や細かい作業をこなす。
そうなると、育人の主な役割は、木の板に描かれた設計図を元に、全体の指示を出すことになった。柱を立てる位置、梁を渡す角度、壁板の取り付け方など、スキルで得た知識と、現実の資材状況を照らし合わせながら、的確に指示を与えていく。
そんな育人のそばを片時も離れようとしないのが、アンだった。彼女は、他の三人が力仕事に汗を流している間も、小さな物を運んだりする時以外は、ほとんど育人の隣にぴったりとくっついていた。そして、育人が描いた設計図を熱心に覗き込みながら、あるいは育人が指示を出す言葉に耳を傾けながら、建築に関する様々な知識や、図面に描かれた線の意味などについて、次から次へと質問を浴びせてくるのだった。その瞳は、昨日にも増して知的好奇心にキラキラと輝いていた。
一方、クレオは黙々と自分の作業をこなしていた。時折、アンと育人が楽しそうに言葉を交わしている方へ、ジロリと鋭い視線を送っている。フードで顔の大部分は隠れているものの、その雰囲気から、彼女がどこか機嫌を損ねているらしいことを、育人は薄々感じ取っていた。
育人は、クレオのその様子に気づき、アンに優しく声をかけた。
「アンちゃん、ちょっとトンチお兄さんのところへ行ってもらえるかな? たぶん、お兄さんは私の説明で、まだよく分かっていないところがあると思うんだ。アンちゃんが近くに行って、もう一度説明してあげてくれると助かるんだけど」
育人は、アンの知的好奇心を満たしつつ、少しクレオから離れてもらうために、わざとそう言った。
「え、本当? しょうがないわね、お兄ちゃんは」
アンは、育人の言葉を素直に受け取ったのか、あるいは何かを察したのかは分からないが、少し得意げな顔をすると、喜んでトンチの作業している方へと駆けていった。
アンがトンチの方へ駆けていくのを見送った後、育人はクレオに向かってそっと手招きをした。
「クレオちゃん、ちょっといいかな」
クレオは、黙々と蔓を編んでいた手を止め、少し訝しげな表情で育人の方へ近づいてきた。フードの奥の赤い瞳が、何かを問いかけるように育人を見つめている。
「どうしたんだい? なんだか、さっきから少し不機嫌そうに見えるけど……何かあったかな?」
育人は、できるだけ優しい声で尋ねた。
クレオは、育人のその言葉に少し驚いたような顔をした。自分が不機嫌なのを気づかれていたとは思わなかったのだろう。
「え……別に、そんなこと……」
彼女は、視線を逸らし、小さな声で否定しようとした。
「本当かい? でも、なんだか唇が尖っているように見えたけど」
育人は、少し悪戯っぽく微笑みながら、クレオの顔を覗き込んだ。
「……そ……それは……」
クレオは、育人の言葉にますます顔を赤くし、言葉を詰まらせた。
「クレオは、アンちゃんのこと、嫌いなのかな?」
育人は、単刀直入に、しかし穏やかな口調で尋ねた。
「き、嫌い……じゃない……」
クレオは、慌てたように首を横に振った。しかし、その声にはどこか歯切れの悪さが残っている。
「じゃあ……もしかして、アンちゃんと私がずっと話しているのが、嫌だったりするのかな?」
育人は、核心に迫るように、さらに優しく問いかけた。
すると、クレオは俯いてしまい、小さな声でぼそりと呟いた。
「……アンちゃんは……育人先生の、生徒でもないのに……ずっと、先生に、質問ばっかりして……」
その声には、明らかに不満と、そしてほんの少しの寂しさが滲み出ていた。
育人は、クレオのその言葉に、思わずくすりと笑ってしまった。そして、彼女のフード越しに、そっと頭を優しく撫でながら言った。
「たとえ明確な約束がなくてもね、私に何かを知りたい、教えてほしいと求めてくる人は、みんな私の大切な『生徒』だよ。アンちゃんだって、クレオちゃんだって、私にとっては同じように大切な生徒なんだ」
クレオは、育人のその言葉に何も返事をしなかった。ただ、俯いたまま、もじもじと足元の土をいじっている。そして、不意に、育人がフード越しに撫でていたその手を、小さな両手で掴んだ。
そのまま、クレオは育人の手を自分のフードの中へとそっと引き込んだ。育人の手のひらに、柔らかく、そして少しひんやりとした獣の耳の感触と、温かい髪の毛の感触が直接伝わってくる。
(これは……あれだな。小さい子供がよくやる、懐いている先生への独占欲みたいなものか。そういえば、地球にいた頃、霞ちゃんと鏡ちゃんも、小学生の頃はよく俺を取り合って喧嘩していたっけな……懐かしい。二人とも、中学生になったらさすがにそんなことはしなくなったけど)
育人は、クレオの子供っぽい行動に苦笑しつつも、彼女が自分を信頼し、慕ってくれていることを感じ、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
育人は、クレオの髪を優しく撫でながら、そっと声をかけた。
「クレオ、アンちゃんが戻ってきたら、一緒に私の授業を聞いてみるのはどうかな? 本格的な授業というわけではないけれど……アンちゃんだけじゃなくて、クレオちゃんだって、きっと私に聞きたいことがたくさんあるんだろう?」
クレオは、育人の手のひらに自分の耳をすり寄せるようにしながら、目を閉じたまま、その心地よい感触を楽しんでいるようだった。そして、育人の提案に、薄らと、しかし確かに頷いた。