第一章:第十二節:来訪者
育人がこの異世界に来て九日目の朝を迎えた。ここ数日と変わらず、クレオと共に早朝にピキキたちの世話をし、森へと向かう。育人もだいぶ森の道に慣れ、クレオの足手まといになることも少なくなってきた。午前中は森での採取と建築資材集めに精を出し、昼過ぎに小屋へ戻って簡単な昼食を摂る。そして午後からはピキキ小屋の建設作業、というのがここ数日の日課となっていた。
その日も、いつものように昼食を終え、さあ午後の作業に取り掛かろうかと育人が腰を上げた、まさにその時だった。
「ん……?」
不意に、隣にいたクレオがぴくりとフェレット耳を立て、それまで和やかだった表情を瞬時に引き締めた。彼女は素早く立ち上がると、森の入り口とは逆の方向――小屋のさらに奥へと続く、開けた草原のような方角へ鋭い視線を向けた。そして、次の瞬間には、まるで条件反射のように、慌てて頭にフードを深く被り、服の裾から覗いていた尻尾を素早く隠した。その一連の動作は、驚くほど迅速で、彼女が普段からいかに自分の姿を隠すことに慣れているかを物語っていた。
「クレオちゃん、どうしたんだい?」
育人が声をかけようとした、その時。
クレオが見つめる方向の、遠くの木々の切れ間から、育人の視力でも辛うじて二つの人影のようなものが見えた。距離がかなり離れているため、その姿や服装、性別すら判別できない。ただ、何者かがこちらへ向かってきている、ということだけは確かだった。
森の中でクレオと二人きりの生活に慣れ始めていた育人にとって、それは予期せぬ出来事だった。
「知り合いなのかい? それとも、知らない人かな?」
育人は、クレオの獣人としての優れた視力を頼りにして尋ねた。自分には豆粒のようにしか見えない人影も、彼女にはもっとはっきりと見えているはずだ。
クレオは、フードの奥からじっと遠くの人影を見つめたまま、小さな声で答えた。
「……うん、たぶん……近くの、トーマスさんのところの人たち」
「トーマスさん……。以前、物々交換に行くと言っていた農家の方かな? 関係は……悪いのかな?」
育人は、クレオの緊張した様子から、あまり良い関係ではないのかもしれないと推測した。
「ううん……別に、悪くはない……と思う。じいちゃんは、時々あそこのお父さんと話したり、獲物を分けてあげたりしてたから……」
クレオは、少し言葉を選びながら答えた。
「でも……あたしは、あんまり……。トーマスさんたちが、ここまで来たことなんて一度もないし……あたしが獣人で、それに……この赤い目を、見せたこともない……」
彼女の声は、後半になるにつれてどんどん小さくなり、最後はほとんど聞き取れないほどだった。フードの奥で、彼女がぎゅっと唇を噛み締めているのが、育人には分かった。
育人は、クレオの不安を察し、できるだけ安心させるように言った。
「……そっか。じゃあ、私が対応しようか? クレオちゃんは、無理しなくても大丈夫だよ」
クレオは、フードの奥で数秒間黙り込んでいたが、やがて、小さな、しかしどこか決意を秘めた声で答えた。
「……いい」
その短い言葉に、育人は彼女の心の内で何かが変わろうとしているのを感じ取った。
それから間もなく、二つの人影は小屋のすぐ近くまでやってきた。育人にも、それが若い男性と、まだ幼い少女の二人組であることが見て取れる。
「おーい、クレオ! いるかー?」
元気で、少し間の抜けたような若い男の声が、小屋の扉の向こうから聞こえてきた。
続いて、それよりも少し高く、しかし落ち着いた少女の声が響く。
「クレオ姉さんは、お留守なのかしら?」
小屋の裏手にある作業場でピキキ小屋の建設準備をしていた育人とクレオは、その声に顔を見合わせた。クレオは一瞬、びくりと身体を強張らせたが、育人が無言で頷くのを見ると、意を決したように小さく息を吸い込み、小屋の正面へと回り込んだ。育人も、彼女の少し後ろについていく。
小屋の前に現れたのは、やはりトーマス家の兄妹だった。兄のトンチは、クレオの姿を認めると、安堵と喜びが入り混じったような顔で駆け寄ってきた。
「クレオ! 無事だったのか! ここ何日も顔を見せないから、父ちゃんも母ちゃんも、アンも俺も、みんな心配してたんだぞ!」
その言葉には、嘘偽りのない心配の色が滲んでいる。
そして、トンチはクレオの後ろに立つ育人の姿に気づき、怪訝そうな表情を浮かべた。
「……そっちの人は、見ない顔だな。人間族みたいだけど……バファロ爺さん(クレオの祖父のことだろう)の知り合いか何かか?」
育人が一歩前に出て、「はじめまして。私は加賀育人と申します。少し前にこの森で…」と自己紹介を始めようとした、まさにその時だった。トンチが「あっ!」と何かを思い出したように声を上げ、育人の言葉を遮るようにして腰の革袋を探り始めた。
「そうだそうだ、クレオ! 母ちゃんから頼まれてたんだ。これ、お前に持って行けって」
そう言ってトンチが革袋から取り出したのは、革製の作業用グローブだった。彼はそれを、クレオに差し出した。
トンチは、母親であるメールスに託された言葉を一生懸命に思い出そうとするように、少し眉間にしわを寄せながら説明を始めた。
「ええと、クレオはいつも、ドロネズミとかヒモリスみたいな森の獲物を持ってきて、うちの野菜や穀物と交換してくれるだろ? それで、母ちゃんがな、その時にもらった革の切れ端がちょうどいい大きさで余ってたから、お前のためにグローブを作ってくれたんだ。『いつも本当に助かってるから、これを使って少しでも作業が楽になれば』って、そう言ってたぞ」
その言葉に、クレオは慌てたように両手を振った。フードの奥で、彼女の顔が赤くなっているのが分かる。
「だ、だめです! これはいただけません! あたしが持って行った獲物は、全部、何かと交換してもらうためのものだったんですから……。もう、お塩とか、少しですけど穀物とか、ちゃんといただいているので……!」
クレオは、普段のぶっきらぼうな口調とは裏腹に、しどろもどろになりながら、トンチの申し出を必死に断ろうとしていた。
「……あ、そうか。それもそうだよな」
トンチは、クレオの言葉にあっさりと納得した様子で頷くと、差し出していたグローブをこともなげに革袋に戻そうとした。
「じゃあ、これ、持って帰るわ」
「この阿呆兄貴っ! 何そんなに簡単に引き下がってるのよっ!」
その瞬間、トンチの隣に立っていたアンが、ついに堪忍袋の緒が切れたといった様子で叫び、トンチの膝の裏を思い切り蹴りつけた。
「い、痛っ! なんだよアン、いきなり!」
トンチが情けない声を上げる。
アンはそんな兄には目もくれず、クレオに向き直ると、先程までの落ち着いた口調とは打って変わって、少し早口に、しかし理路整然と話し始めた。
「えっとね、クレオ姉さん。ほら、このグローブの大きさ、母さんがクレオ姉さんの手に合わせて作ったのよ。父さんや母さん、それにこのバカ兄貴には大きさが合わないの。私はちょうどいいかもしれないけど、私の分はもう母さんが作ってくれたのがあるし。ほら」
アンはそう言って、自分の小さな両手をクレオに見せた。確かに、彼女の手には可愛らしい、しかし実用的な革のグローブがはめられている。
「だから、もしクレオ姉さんがこれを受け取ってくれないなら、このグローブ、捨てるしかないのよ。せっかく母さんが作ってくれたのに、もったいないじゃない?」
「アン、捨てるわけが……痛たたっ!」
トンチが何か言い返そうとしたが、再びアンに膝裏を蹴られ、言葉を詰まらせた。
(なんだか、まるで兄妹漫才を見ているみたいだな……。お兄さんの方は、良くも悪くも素直すぎるというか、裏表がない性格なんだろう。対して妹のアンちゃんは、まだ幼いのに非常に大人びていて、頭も切れる。二人とも、根は優しい、いい人たちなんだろうな)
育人は、トーマス兄妹の微笑ましい(そして少し騒がしい)やり取りを、興味深く見守っていた。
アンの言葉と、兄への容赦ないツッコミに、クレオは困ったように眉を寄せながらも、差し出されたグローブを恐る恐る受け取った。
「……あ、ありがとう……ございます……」
小さな声で礼を言うと、彼女はグローブをぎゅっと握りしめた。
それを見たトンチは、満足そうな顔で大きく頷いた。
「おう! クレオはたまたまこっちに顔を見せるからよ、じゃあ、俺たちはこれで帰……じゃなかった!」
トンチは何かを思い出したように、慌てて言葉を継いだ。
「危うく忘れるところだったぜ。……そこのあんた、一体誰なんだ?」
ようやく、という感じでトンチの視線が育人に向けられた。
「危うく、じゃなくて、一回完全に忘れて、また思い出しただけでしょ、このバカ兄貴」
すかさず、アンの冷静なツッコミが入った。
その言葉を聞き、育人が改めて自己紹介をしようと口を開きかけた、その時だった。
「……育人先生は、通りすがりの大賢者様だよ。あたしの、自慢の先生なんだから!」
隣にいたクレオが、少し胸を張って、しかしどこか照れくさそうに、トンチとアンに向かってそう宣言した。
「本物だよ、育人先生は本物の大賢者様だよ。何でも知ってるんだから!」
クレオは、二人の不信感を払拭しようと、さらに言葉を重ねて強調した。
(……な、何が大賢者だよ。そんな大層な称号を名乗った覚えは全くないぞ。クレオちゃんは一体何を言っているんだ……?)
育人は、クレオの予想外の紹介に内心で激しく動揺していた。
「……へぇ、大賢者様、ねぇ……」
「じゃあ、大賢者様! 俺、隣村のイリスちゃんと、いつ結婚できるか教えてくれよ!」
トンチは、クレオの言葉を意外なほどあっさりと信じたようだった。そして、何かを期待するようなキラキラとした目で育人を見つめると、真剣な顔で尋ねた。
「……ほら、言わんこっちゃない、このバカ兄貴! なんですぐ信じちゃったのよ! それに、たとえ本物の大賢者様だとしても、バカ兄貴の縁談なんか知るわけないでしょ!」
アンは、呆れ果てたというように大きなため息をつくと、再びトンチの膝裏に鋭い蹴りを入れた。