第五章:第7.5節:エルゼ・レイラの思考
(ここからはエルゼ・レイラの一人称)
はぁ……。まったく、全部ユートフィンのせいだ。
俺が逃げ出さないようにと、あいつがギルド発行の証明プレートを没収……いえ、『保管』という名目で収納していなければ、こんな面倒なことにはならなかった。まあ、俺が本気で「返せ」と言えば、彼女は返してくれたのだろうが……それではまるで、「これから私は逃げます」と宣言しているようなものではないか……。はぁ……プレートさえあればなぁ……。
しかし、あの「インドア・ラビアン数字」というのは、本当にすごいものだ。あのアンという女の子が考え出したとは到底思えない。きっと、あれも大賢者イクトの仕業なのだろう。
あの数字を社会に速やかに普及させるには、初期費用もかかるし、旧来の方法に慣れた者たちからの反対の声も激しいだろうが、それでも実行する価値がある。あれは、単に計算が楽になるというだけではない。社会や、国全体の進歩に拍車をかける、鍵のような代物だ。
大賢者イクトも、その価値を知っているはず。だというのに、なぜあんなにも安易に、俺がそれを学ぶことを許可したのだろう……。リーシアン王国や、彼自身の「カガ領」だけの秘匿技術にした方が、国益に適うとは思わないのか……。
駄目だ。こんな無私な行為に対し、我々レイシヘイラ帝国が、ただ黙ってその恩恵を受けるべきではない……。そうだ、紙だ。さっきの「紙貿易の契約書」というのは、彼のハッタリだと分かっている。だが、わざわざそういうことをハッタリに使うということは、彼自身も紙に興味があるのだろう。何しろ、我がレイシヘイラ帝国の製紙技術と、その品質は世界一だからな。
帰国したら、リーシアン王国……いいえ、「カガ領」との貿易を進言しよう。大賢者イクトがいて、リーシアン国王からの支持も厚いこの男爵領は、間違いなく投資する価値がある。
しかし、カガ領の安全面には、少し心配が残るな……。先ほど見た守備隊の態度は……彼らが大賢者イクトの実力に絶対の信頼を置いているのは分かったが……。
魔法職の近接戦闘能力など、たかが知れている。……いいえ……。
確かに、彼は魔化ウサギ二体に不意打ちされても、子供を庇いながら返り討ちにし、無傷で勝利したという……。つまり、近接戦闘、少なくとも近接戦闘を仕掛けてくる相手に対しての戦い方には、心得があるはずだ……。なるほど……。一見すると人畜無害で、魔力の波動もほとんど感じられないが、あれは力を隠している実力者に違いない。
「……レイラさん? 聞いているか?」
「あぁ……すまん。少し考え事をしていてな……。それに、エルゼでいい」
大賢者イクトの声で、俺は思考の海から引き戻された。
「では、エルゼ殿。私はこれから公務があるので、これで失礼しようと思うのだが、もしよければ、今晩の夕食を共にしないか?」
「あら……私をデートに誘っているのか?」
ここはひとつ、冒険者らしく、からかってみるとしよう。
「いいえ。今晩、男爵邸で皆に簡単な発表があるので、あなたにもぜひ来ていただきたいと思っただけだ」大賢者イクトは、表情一つ変えず、平然とした声でそう返してきた。
……全く動揺しないとは。確かに私は魔道具で外見を調整しているが、それでも普通の人よりはるかに美しいという自信はある。だというのに……。そういえば、あの夜、私の……裸を見た時も、じっと見るでもなく、動揺はしていたが、反応は激しくなかったな……
……まさか。明らかに彼から直々にインド・アラビア数字を教わっている、弟子とも呼べるアン殿と、先程からずっと彼に親しげにしているクレオという少女……二人とも、まだ幼い女の子……。つまり、大賢者イクトはロリコン……? 道理で、私のような成熟した女性にはあまり興味を示さないわけだ……。なんという恐ろしい事実……
「……そこの青いの。君も来るといい。リュートが得意なのだろう」
「レインという名前があるんだよ。あだ名も『青藍のリュートリスト』だ」
「青藍……。やはり『青いの』じゃないか」
吟遊詩人のレインと冗談を言い合っている大賢者イクトに、俺は思わず、憐れみの視線を向けることしかできなかった。