第五章:第七節:隠し子
「……俺はただ、任務のためにこの町に来て、学校に通りかかったら、先のアン殿の授業が聞こえてきて、そのインドア・ラビアン数字に興味を惹かれ、その便利さに魅了されただけだ。アン殿はまだ足し算と引き算だけを教えていたが、これなら掛け算や割り算も、以前の方法より何倍も速くできるだろうと、そう予想がついた」
「……そして、盗み聞きしたり、覗き見したり、学校に侵入して先生を脅かして教えさせようとしたりした、と」育人は、彼女の行動を冷静に要約した。
「あ、あれは……結果的にはそう見えるかもしれませんが、そういう形で学ぼうとしたわけでは……」
「事情は大体分かりました。つまり、あなたはインド・アラビア数字を学びたい、ということですね?」
「はい。ぜひ、わたくしがアン殿のもとで、勉強する許可をください。男爵殿。学費は、もちろんお支払いします」
「はぁ……」育人は、深いため息をついた。「許可を出してもいいですが、その前に、まずはあなたの身分証明書を見せてください。怪しい人物を、アンに近づけさせるわけにはいきませんからね」
「ええと、実は……身分証明書が……ないのです。……いえ、ちょっと待ってください、理由を聞いてください、本当に怪しいものではないのですから……」エルゼは、慌てて弁解を始めた。
「身分証明書がない、と言うよりは、持って歩いていない、というのが正しいのです。先程、説明もなしに守備隊員の方から逃げたのも、それが理由でした。ギルドの身分証明書は持っていませんが、これがあるのです。守備隊員の方々がこれをご存知ないと思ったので、さっきはお出ししませんでしたが、男爵であるあなたなら、これをご存知のはずだ」そう言うと、エルゼは胸元から一つのペンダントを取り出した。そこには、見事な貴族の紋章が彫り込まれている。
それは、先日、育人がエイルゼリアの手紙で目にした紋章と同じであり、さらに、省略されていない完全な形をしていた。
盾の本体に加え、両脇を固めるサポーターは、一対の黒と白の三眼馬。その他にも、育人には完全には判別できないものの、クラウン、勲章、モットーが書かれたリボン、リース、そしてクレストなど、完全な紋章の要素が全て含まれていた。
(これは……間違いなく、エイルゼリア様の紋章だ。ということは、彼女の依頼人はエイルゼリア様本人か……。ああ、そうだ、古代精霊語の文献の件か……。しかし、エイルゼリア様と関わりがあるにしては、どう見ても彼女の顔立ちが……なるほど……姉妹か何かだろうか。いや、しかし苗字が違う……。分かった、エイルゼリア様のお父さん、つまり、レイシヘイラ帝国皇太子の隠し子か……!)
「……なるほど。事情は、理解しました」彼女が隠し子だと認定した育人は、思わず複雑な眼差しを向けた。
(皇太子の隠し子、か……。道理で、ギルドの身分証明書を持ち歩きたがらないわけだ。常識外れな行動も、その複雑な生い立ちを考えれば納得できる……)育人は、目の前の銀髪の魔剣士に、同情的な眼差しを向けた。
(こういう場合、母親が下級貴族や平民なら、その存在は徹底的に隠され、一生自分の出自を知らされずに生きていくことになるのだろう。もしバレるようなことがあれば、最悪、秘密裏に「処分」されたとしてもおかしくはない……)
(逆に、母親が有力な貴族であれば、今度は政争の駒として利用される可能性が高い。そして、こうして本人が優れた能力を持っているのなら、「道具」として扱われることもあるだろう……。どちらにしても、まともな人生を送るだけでも、さぞかし大変だったに違いない)
育人は、再び彼女に向き直ると、最後の探りを入れることにした。
「信じましょう。皇室の紋章を偽造するような人間は、そう多くはないでしょうから。……それで? あなたの任務は? 紙貿易の契約書か何かでしょう? 早く、出してくれませんか」
(もし、彼女が偽物なら、このハッタリでボロが出るはずだ)
エルゼは、育人のその言葉に一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに彼の真意を察したのか、その口元に、ふっと楽しそうな笑みを浮かべた。
「いいえ、契約書などではありませんわ。そのようなお仕事は、別の方にお願いしているはずです。わたくしが託されたのは、ある文献の『副本』を、あなた様にお渡しすること、ただそれだけですの」
そう言うと、エルゼは懐から一つの、まるで磨かれた黒曜石の目玉のようなものを取り出し、空中に放り投げた。
すると、その目玉は空中で落下することなく、その場に留まり、眩い光を放ち始めた。光が収まった時、そこには一頭の三眼馬が立っていた。その三眼馬の額にある三つ目の眼は、丁度、先程の目玉があった位置に収まっている。
エルゼは、その三眼馬の鞍についていた鞄の中から、茶色い革で作られた円筒を取り出すと、それを育人に手渡した。
育人がエルゼとやり取りをしている間、クレオは、おずおずとレディーナのそばへ歩み寄ると、その大きな顔を見上げて話しかけていた。
「レディーナ、だっけ? ごめんね、さっきは君を傷つけちゃって。おまけに、今日の晩ごはんのステーキもなくなっちゃったみたいだし……」
「オゥゥ……」レディーナは、悲しそうな声でクレオを見つめ返した。
「あのね、ピキキの卵、食べる? あたしの分、君にあげるよ」
「アゥ?」
「でも……君、すっごく大きいから、あたしの分だけじゃ足りないかも」
「オゥゥ……」
育人は、エルゼから円筒を受け取りながら、その光景にふと微笑んだ。
「ピキキの卵、食べるのか? 俺は以前一度だけ食べたことがあるが、ひどく臭くて、とても食べ物とは思えなかったが」エルゼが、ふとそう言った。
「あれは誤解ですよ。腐ったものを食べれば、臭いのは当然でしょう?」育人は、詳しい説明をせずに、ただ簡単にそう答えた。
「そろそろ、外に出ましょうか。サーモンド隊長たちが心配しているでしょうから」
レディーナの本来の姿が既に見られてしまったので、エルゼは彼女に改めて魔道具をかけるようなことはせず、育人とクレオの後ろについて、そのまま学校の敷地を出た。
学校の外では、サーモンド団長と、後から駆けつけてきた守備隊員たちが学校を包囲していたが、その様子に緊張感はない。というより、警戒すらしていないように見える。
マーディナに至っては、クレオが塀に残した爪痕を、身を乗り出すようにして熱心に研究しており、育人たちが出てきたことにすら気づいていないようだった。
ただ一人、吟遊詩人のレインだけが、正門の近くで、中の様子をキョロキョロと伺っており、育人たちの姿を最初に認めたのだった。
「男爵様!」 外で待っていたレインが、育人たちの姿を見て、安堵の声を上げた。
「だから、緊張するなって言っただろう。大賢者である男爵様が手を出されれば、もう万事解決だ」 サーモンドは、レインの背中を安心させるようにパンパンと叩いた。 その光景を見ていたエルゼは、一瞬だけ眉をひそめたが、数秒後には何かを釈然としたように、その表情を緩めた。
「お……でかい犬だな。いつの間に中に入ったんだ? これはもう魔獣の類だろう」サーモンドは、育人のそばにいるレディーナの巨体に今更ながら気づき、驚きの声を上げた。
「レイン、お前、あいつを知っているか? その、なんだ、『銀猟装の魔剣士』はお前の知り合いなんだろう」
「……いいえ、俺が知る限りでは……。確かにずっとソロで活動していて……せいぜい騎獣を連れているくらいで……あれ? 何か、思い出したような気もするが……」
「知らないなら、まあいいか。後で本人に直接聞くとしよう」