第五章:第六節:相殺
歌い出すのを遮られて、しょんぼりとしたレインの後ろから、マーディナがおずおずと手を挙げた。
「あ、あのぅ……育人先生の魔法か何かで、その方をなんとかしていただければ、よろしいのではないでしょうか……? 歴代の大賢者様は、ギルドでの魔法戦闘能力は、最低でもAプラスランク以上だったと、文献で見たことがございますが……」
(もし使えるものなら、とっくにそうしている……! あの日、魔力の流れを感じて、初歩的な操作までできるようになったが、それからというもの、忙しくて全く進展がないんだ。たとえ使えるのだとしても、ズブの初心者が、高位の冒険者にいきなり魔法を撃ち込むなんて……)
「魔法……魔法……茶色いの……茶色いの……よくもアンちゃんを……」
育人のそばで、クレオがぶつぶつと何かを呟いているのが聞こえた。
「クレオ、ここは私が……」
「ギシャーッ!」
育人が彼女を制止しようとするよりも早く、クレオが獣のような鋭い声を上げ、学校の塀へと一気に駆け出した。そして、その高い塀を、まるで平地を駆けるかのように一瞬でよじ登ると、中へと飛び込んでしまった。クレオが登った壁の箇所には、いくつか爪の形をした、まるで塩酸か何かで腐食されたかのように、じゅうじゅうと煙を立てる小さな穴が残っていた。あれが、彼女の爪痕のようだ。
「クレオ!」
(……もう! あの不審者は本当に高位冒険者であれば、今まで衝突にならなかったということは、彼女に敵意がないと思うがけど。クレオが攻撃を仕掛けてしまったら、事態の行方が見えなくなる。最悪だ。みんな、無事でいてくれ……)
「サーモンド隊長! ここを完全に包囲して、誰も通さないでください。私は中へ入ります」
「かしこまりました! ご武運を!」
(どうか、戦闘になっていないように……!)
育人は学校の正門へと回り、中へ入った。しかし、彼が目にしたのは、予想とは少し違う光景だった。戦闘になっているのは、クレオとその「不審者」ではなく、クレオと一匹の巨大な白い犬だったのだ。
その犬の全長は三メートルほどもあり、かなりの大型犬だ。その犬の右前足は負傷しており、傷口からは緑色の光と茶色い光が絡み合い、互いに相殺し合っているように見える。そして、犬の傷口そのものも、腐敗と治癒を凄まじい速度で繰り返していた。
犬は、明らかにクレオの攻撃を受けたようだが、その目に敵意は感じられない。ただ、クレオを警戒し、彼女がそれ以上前進するのを止めようとしているだけのようだった。
「ガガ……シャアッ!」
クレオは、その犬に向かって威嚇の声を上げている。彼女の赤い瞳は、普段よりも赤みを増しており、今にも再び攻撃を仕掛けようとしているところだった。
まさにその時、三人の声が同時に響き渡った。
「クレオ!」育人は、クレオの腕を掴んだ。
「クレオ姉さん、誤解です!」教室の戸口から、アンが叫びながら現れた。
「レディーナ!」そして、アンの後ろに立っていた、あの銀髪銀装の女魔剣士が、鋭く、しかしどこか心配そうな声で犬の名を呼んだ。
レディーナと呼ばれた犬は、その女魔剣士の声を聞くと、戦闘態勢を解き、まるで飼い主に慰めてほしいとでも言うように、「くぅん」と一声鳴いて、彼女の元へと駆け寄っていった。
「痛っ!」
育人は、クレオの腕を掴んだ方の手に、鋭い痛みを感じて思わず声を上げた。クレオの体から発せられていた、あの茶色い光に僅かに触れてしまったらしい。見れば、手の甲の皮膚が、火傷を負ったかのように赤く爛れ、薄っすらと煙を上げていた。
クレオが力を使い果たしたのか、あるいは育人に気づいて咄嗟に力を止めたのか、幸い、腐食は皮膚の表面だけで止まっているようだった。
アンは、クレオの元へ駆け寄ると、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。教室の窓からは、何人かの生徒たちが、好奇心に満ちた顔でこちらの様子を覗き込んでいる。
クレオは、別に理性を失っていたわけではなかった。ただ、アンの身を案じるあまり、焦って何も考えずに飛び込み、アンを探す邪魔になる、見たこともない大きな犬を敵だと見なしてしまっただけだ。アン本人が現れたことで、彼女はすぐに攻撃をやめた。
「……アン、無事だったんだね。てっきり、人攫いに捕まって、性奴隷にされちゃったのかと思った……」
「せい……どれい?」アンは、聞いたこともない言葉の組み合わせに、不思議そうに首を傾げた。
「クレオちゃん……その言葉は、どこで覚えてきたんだい?」育人は、眉をひそめて尋ねた。
「ええと……思い出した。建築隊のビリーさんとウンターさんが、『お金を貯めて、いつか性奴隷を買おう』って話してた」
(……建築隊には、粗野な連中も多いからな……。奴隷制度が合法なのはこの世界の常識だとしても、子供の前で話す内容ではない。いや、おそらくクレオの耳が良すぎて、遠くからも聞こえてしまっただけかもしれないが)
「なぜ、アンちゃんがその『性奴隷』になったと思ったんだい?」
「じいちゃんが、子供は人攫いに気をつけろって言ってた。捕まったら、奴隷として売られちゃうって。『性奴隷』が何なのかは分からないけど、ただの奴隷よりすごそうだから……その……だめ?」
「意味が分からない言葉を、勝手に使ってはだめだよ。大きな誤解をされてしまうからね。まずは、言葉の意味をちゃんと分かってから使うようにしよう」
「分かった。じゃあ、『性奴隷』の意味を教えてください」クレオは、無邪気にそう尋ね、隣のアンも好奇心に満ちた瞳で答えを待っている。
(……自分で自分の首を絞めた気がするが、かといってクレオに変な言葉を使わせ続けるわけにもいかない……。痛っ……)
「……その話は、今度ゆっくり教えるから。今は、この事件を終わらせるのが先だ」
「分かった……。そうだ、先生、手の傷……ごめんなさい、あたしのせいで」クレオは、しゅんとして謝る。
「あははは、大丈夫だよ。これくらい、すぐ治るから。痛くない痛くない」
「本当?」
(本当は痛いけれど……ここはクレオを心配させないように……ん? 痛みが……)
いつの間にか、あの巨大な犬、レディーナが育人の近くに来ていた。そして、クレオとは逆の方向から、そのふさふさした尻尾を、育人の手の甲の傷にそっと触れさせている。尻尾の先から、温かい緑色の光が流れ込んできた。
(気持ちいい……。これは、治癒魔法か? 先程、この犬もこの力で、クレオの腐食の力と相殺していたんだな。しかし、腐敗しては回復してを繰り返すなんて、どう考えても痛そうだったが……)
「……あ……ありがとう、その……」育人は、その犬にお礼を言おうとした。
「レディーナ。彼女の名前はレディーナよ」と、あの銀髪の魔剣士は言った。
(ああ、そうそう、レディーナ。先程もこの名前で、この犬を呼んでいたな)
「ありがとう、レディーナ」
「わぁん!」レディーナは、嬉しそうに一声鳴いた。
「はじめまして、エルゼ・レイラと申します。あなたが、カガ領男爵、イクト・カガ大賢者様ですね。この度の騒ぎ、大変申し訳ありません。今度のことは、完全にわたくしの不徳の致すところでございます」
銀髪の魔剣士は、育人に向かって深々と頭を下げた。その声は、凛としていながらも、どこかバツの悪そうな響きがあった。
(やはり、敵意はなさそうだが……まずは、事情と理由をきちんと聞かないと)
「アン、まずは君から事情を説明してくれるかな? みんなの視点から、何が起こったのかを全般的に理解したいんだ。しかし、君はまだ授業の途中だったと思うから、先に君の話から聞かせてもらおうか」
育人は、まずアンの安全と状況を優先した。
「はい」アンはこくりと頷くと、当時の状況を説明し始めた。
「わたくしが教室で皆さんに授業をしていたら、急にこのレイラさんが、塀の上から飛び降りてきたのです……......」
「……......それで、わたくしは『冒険者のプレートをお見せになればよろしいのでは?』と言って、このレイラさんの要求を一度は拒んだのですが、そうしたら今度は、『少なくとも、あの面白い数字の書き方だけでも教えてほしい』と、また別の要求を出してきたのです。あのような状況で、普通はそんな要求をしないでしょう?」
「当時のわたくしは、このレイラさんはただの残念美人ではないかもしれない、もしかしたら精神を病んでいらっしゃる可能性もある、とすら思いました。もしわたくしがきちんと対応しなければ、穏やかに見えるこの方が突然暴れ出して、他の生徒さんたちを傷つけるかもしれない、と。皆の安全のためにも、彼女の願いを一部受け入れるしかないと判断したのです。それで、彼女には廊下で授業を聞いていただくことにして、わたくしもついでに、まだ理解が追いついていなかった生徒さんたちに、復習の機会を与えることにしたのです」アンは、そう言って説明を終えた。
「残念美人……精神的に病んでいる……。俺は、そのように見えていたのですか……」エルゼ・レイラは、アンの率直すぎる評価に、ショックを隠せない様子だった。
「アォゥン」と、隣にいたレディーナが、まるで「わたくしも、そう思いましたわ」とでも言いたげに、エルゼの肩にそっと前足を置き、こくこくと巨大な頭を頷かせた。
「レディーナ!」
「事情は分かりました。アン、あなたは先に教室へ戻っていいですよ。……そして、あなたからのお話も聞きましょうか、残念美人さん」
(アンはただ驚いただけのようで、怪我もなくて良かった。私はアンが嘘をつくような子だとは思わない。だとすると、このエルゼ・レイラという人物は、悪意はないものの、要注意人物だな。常識がなさそうで、塀から学校を覗き見したり、空気を読まずに変な要求をしたり……)
「俺は、残念なんかでは断じてない」エルゼは、むっとしたように反論した。
「美人は否定しないのね」突然、クレオはそばからツッコミを入れてきた。
「アォゥ」レディーナは、まるでクレオの言葉に同意するかのように、彼女とアイコンタクトを取り、またこくこくと巨大な頭を頷かせた。
「……レディーナ、今日の晩ごはん、ステーキは抜きよ」
「わうぅ?」そのか細い鳴き声は、傍で聞く者すべてに同情を禁じ得なかった。