神の現身? アヴィナ -5-
「なにがなんでもあんたを手元に置いておくんだったよ、まったく」
高い酒を持って『瑠璃宮』を訪れたおかみさんは愚痴を言いつつも元気そうだった。
ただし、たばこと香水のにおいがきつい。
服に染みついているのだ。俺は懐かしさを感じながらせき込んだ。
「おかみさん、その服は洗濯していらっしゃいますか?」
「当たり前じゃないか。久しぶりだっていうのに失礼だね」
洗った程度ではもはや落ちないのか。
奇跡は癒やしや浄化が得意分野、ちょっと試してみるか。
「失礼いたします」
繊維に付着したにおいまで綺麗にして欲しい、という願いに神が答えて。
女主人はすぐに「あら」と気づき、くんくんしたおかみさんは眉をひそめた。
「なにか変わったかい?」
「余計なお世話だろうけれど、客を増やしたいならもう少したばこを控えなさい」
「わたしもそう思います」
ここぞとばかりに頷くと、めちゃくちゃ複雑そうな顔をされた。
「あんた……今はアヴィナだったかい? この女に似てきたんじゃないか?」
そうだろうか。
微笑むだけの女主人を見つめて「だとしたら嬉しいな」と思った。
「わたしにとっては母親のような方ですので」
「なんだい、あたしじゃ駄目だってのかい?」
「おかみさんはなんというか、おばちゃんという感じです」
「あんたそれ、絶対褒めてないだろう」
言いつつも、彼女はどこか胸のつかえがとれたような表情をしていた。
「良ければうちにも顔を出しにおいで。で、あの子たちに発破をかけておくれ」
「お姉さま方はまだいらっしゃるのですか?」
「ああ、まだ何人かはね」
ふむ。懐かしくはあるし、たまにはそういうのも悪くはないが。
「うーん……『瑠璃宮』の空気に慣れたわたしにあそこは毒でして」
「たばこがなきゃこんな仕事やってられないじゃないか」
そんなこと言ってると早死にするぞマジで。
いっそのこと、建物ごと丸洗いとかできないか?
俺は女主人を振り返って、
「娼館内で奇跡を行使するだけなら神殿の許容範囲内、で、通りますでしょうか」
「通らないと思うけれど、対立する前提なら構わないんじゃないかしら」
ああ、それなら損はしないか。
「では、少々遊びに行ってまいります」
◇ ◇ ◇
「到着いたしました、アヴィナ様」
「ええ、ありがとう」
『瑠璃宮』お抱えの御者にお礼を言って馬車を降りた。
「……なんだか、本当に久しぶり」
お昼過ぎ、娼婦たちにとっては朝食が終わったくらいの時間。
あの頃と変わらない様子の娼館の門を叩き、迎え入れられて。
大きく息を吸い込んだ俺は──においきっつ!?
思わずけほけほとせき込んだ。
「アヴィナ様、ここの空気は本当に毒なのでは?」
綺麗な空気に慣れている俺のお付きも顔をしかめて口を押さえている。
これ、本気で建物にまで染みついてるって。
「い、いえ。せっかく来たのだから挨拶していきましょう」
「ええ……? 服が二度と着られなくなりそうですが」
「あら、ご挨拶じゃない」
ぞろぞろと出てくるこちらの娼婦たち。
「『瑠璃宮』の箱入りがこんなところになんの用?」
「こら、お前たち! そういう態度を止めろっていつも言ってるじゃないか!」
「なによ、おかみさんだって『舐められたら終わり』って言うくせに」
ああ、うん、なんか懐かしい空気だ。
知的で誠実な人間の多い『瑠璃宮』と違って、ここは気怠く気安い雰囲気がある。
身寄りのない子が下働きとしてこき使われるのはあれだが。
ここはここで、行く当てのない人間の受け皿だ。
少なくとも野垂れ地ぬよりはマシな生活ができる。
俺は、演技を込めない100%の気持ちでくすりと笑った。
「お久しぶりでございます、お姉さま方」
さっき俺に警戒心むき出しにしてきたのは、当時いなかったか見習いだった娼婦。
俺を追い出した張本人たちはなにも言わずに俺を見つめており、
「……あんた、本当にあの時のあの子?」
「? わたし、そんなに変わりましたでしょうか?」
「変わったなんてものじゃないでしょう! こんな、ここまで……!」
震える声に込められたのは畏怖、あるいは恐怖。
そうか、そんなに変わったのか。
一生懸命に「武器」を身に着けた甲斐があったというもの。
自信が背筋を伸ばさせ、笑顔をさらに輝かせる。
「私たちを見返すためにわざわざここに来たってわけ?」
「まさか、そんなことはいたしません。わたしは、ここを綺麗にしに来たんです」
十一歳の少女相手に、プロの娼婦が劣勢を確信している。
どうだと言ってやりたい気持ちと同時に少しだけ寂しい気持ちになった。
それを隠したまま微笑み、羽織ってきたコートに手をかける。
薄手の、そのコートを全部脱いでしまうと、その下には。
成長途上の、平面と曲線が同居する、アンバランスかつ絶妙なバランスの美。
「は、裸って! あんた、正気なわけ!?」
「ここは娼館で、関係者しかいないのですから構わないではありませんか」
全裸は果たして衣装か、と問われると禅問答めいてくるが。
敢えて着飾らないのも着飾ることだと俺は思う。
つまり、一糸まとわぬ姿もまたえっちな衣装だ。
さすがに往来や神殿ではできないので、こういう時にはもってこい。
「あんたたちは見るんじゃないよ!」
雑用や用心棒の男衆にすかさず一喝したおかみさんはさすがと言うべきか。
ほんの短時間だったというのに、彼らの中には「俺、金を貯めていつか絶対『瑠璃宮』に行く」と呟いている者がいた。
娼婦たちでさえ、同性の裸に呆然と見入っている。
ふふん、どうだエロいだろう。
俺は今度こそ胸を張って。
「な、なにをするつもりよ!」
「こうするんです」
今回はあらかじめ、ヴィオレから神像を借りてきている。
娼館のロビーに跪き、祈りの姿勢を取ったうえで、抱いた像を下腹部に押し当てる。
目を閉じて願うのは娼館全体の浄化だ。
建物だけでなく家具や備品に至るまで、汚れやにおいを根こそぎ落としてぴかぴかの状態に戻す。
ここで暮らす子供たちのため、娼婦たちのために。
今まで使ってきた奇跡とは比べものにならない規模なので、果たしてどうなることかと思ったが──。
光はこころなしか今までよりも大きく、力強く溢れた。
俺たちのいた場所を中心に広く、かなりの領域が美しさを取り戻して。
一度の祈りで全体もひょっとするといけたか?
移動を挟みつつ複数回かに分けて浄化すると、娼館の空気はすっかり澄んだ。
建物に染みついたにおいもなくなって呼吸がすっと楽になる。
今まで通りたばこ吸いまくってたらそのうちまた逆戻りだろうが。
「……まったく、想像以上の金の卵だね、あんたは」
苦笑しつつ「今、買い戻すとしたらいくらになるんだろうね」と言うおかみさん。
目眩とふらつきを感じながら、俺は微笑んで答えた。
「店主によれば、最低でも竜貨200枚だそうです」
「200……!?」
「ああ、そんなものだろうさ。……ったく、ままならないねえ」
日本円に直すと二億。
驚く娼婦たちと、納得するおかみさん。
仮に毎月竜貨一枚=金貨100枚の純利を得られるとして、一年で竜貨12枚、十年で120枚なので突飛な数字ではない。
「さっきの大掃除の礼金だけでもかなりの額になりそうだけど、あんた、なにが目的だい?」
「お金で支払ってもらおうとは思っておりません。もしそうしていただくお気持ちがあるのであれば、娼婦を増やしたり、食事を改善するのに使ってください」
おかみさんは「そんなことでいいのかい?」と訝しんだが、
「良いのです。娼婦が増えれば、飢える女の子が減ります。服や下着の注文が増えて、もしかしたら職人も増えるかもしれません。スラムの改善に少しは繋がることでしょう」
ついでに、娼館に通う人が増えればえっちな衣装の社会的地位が多少なりとも上がる。
作られる衣装が増えれば、娼婦以外からも露出を増やす動きが出るかもしれない。
さらにおまけで言うならば。
大神官派や神官長派ならぬ「アヴィナ派」として、巻き込める相手を巻き込んでいく狙いも多少はあったりする。
ぽかん、とする娼婦たちに俺はにっこりと微笑みかけた。
「お土産もありますので、お茶の時間にいたしませんか、みなさま?」