六十九話.綻びと命令と【ヴェラノラ視点】
レイが一歩、こちらに踏み込んだ。
彼もまた、酷く傷ついていた。
焦げついた黒衣 。
炎に焼かれた皮膚と、滲む血。
それでも迷いなく拳を握るその姿は、美しく、そして悲しかった。
青い焔が、再びその手に灯る。
初めて恐怖が沸き起こった。
けれど――
その眼差しが。拳が。
私の顔を捉えた瞬間。
彼の足が、止まった。
ふわりと目の前の拳の風圧で髪が凪いだ。
焔に濡れた視界の向こうで、彼の瞳がわずかに揺れた。
私はその視線の先に、視線を落とす。
――イヤリング。
かつて、セレスタに渡したそれとお揃いの。
今も、私の耳にある。
「……!」
青焔が、不規則に揺らいだ。
眉が寄り、唇が震え、そして――
「っ、ああ……っ、やだ……っ」
レイが、頭を抱えた。
膝をつく。
肩が大きく揺れ、息が乱れる。
その場に崩れ落ちるように、苦悶する姿――
「……セレスタ……!」
私は、駆け出した。
今しかない。この“綻び”が見えた今しか、彼に届く瞬間はない。
「お願い、思い出して……!」
手を伸ばす。
あと少しで、届く――そのとき。
――声が、響いた。
『もう少しだよ、レイ』
それは幻聴のように、でも確かに聞こえた。
低く、甘く、支配するような声。
彼の耳元で囁くように、あの男の声が――
「レイ」
彼女の名を、愛しげに呼ぶその響きが。
彼の苦しみを飲み込んでいく。
「や……めて……ッ、やだ……っ、わたしは、違う……!」
レイは、頭を抱えた手をそのまま爪で掻きむしる。
自分自身を壊すように、身体を抱きしめて震える。そのまま青き火に包まれていく。
炎が暴れ、風が巻き起こる。
私は、叫んだ。
「セレスタ……! 大丈夫よ、私はここにいる――!」
その叫びに白桃色の瞳が一瞬だけ、顔をこちらに向けた。
目が揺れていた。
けれど――
その揺れを飲み込むように、再び焔が灯る。
青い炎が、そのまま身体を包み込んでいく。
「……――っああ……仰せのままに」
声が変わる。
その瞬間、私はすべてを悟った。
再び、彼が跳ね起きる。
もう、そこには迷いも、苦悩も残っていなかった。
焔が爆ぜ、セレスタの身体が空を裂く。
「――っ!」
私はとっさに炎を展開する。
けれど、間に合わなかった。
拳が、私の防御を砕いた。
痛みと共に、私は仰向けに吹き飛ばされる。
呼吸が止まるくらいの衝撃。
「――かはっ、!!!」
青の残光が、視界を撹乱する。
空が、視界に広がる。
彼の拳が、振り上げられ――そして。




