五十話.陽だまりの名前【セレスタ視点】
静かな時間が流れていた。
ここは、月下の間の上階らしい。
二階があったなんて、知らなかった。
確かに、見下ろせば吹き抜けの下。
見知った……というか、風景としての記憶は曖昧だけど、なんとなく見たことはある気がする。だんだんとあの時の恥ずかしい記憶が蘇ってきたので、顔を背ける。
二階のバルコニーには、心地よい陽だまり。
白と蒼のルミナリアが、ちょうどよく陽射しを調節してくれているようだった。
「ふにゃ……」
眠気をこらえて、ぎこちなく小さな丸卓の椅子に座る。
その向かいには――陛下。
それだけで、胸がどくどくして、どうしても視線を合わせられない。
「……あ、あの……」
「どうした?」
威厳を纏っているのに、不思議とやわらかい。
日差しがイヤリングと、赤い髪を優しく照らしていた。
紅茶を口に運ぶその仕草は、まるで絵画のようで――思わず、生唾を飲み込む。
きゅっとスカートの太腿あたりを握りしめる。
「レイって呼ばれるの、……ちょっと、くすぐったいです」
ぽつりと漏らすと、陛下はふっと唇を緩めた。
「ふむ、では……何と呼ぼうか? レイではないなら……――」
冗談めかした問い。
けれど、胸の奥にはふわりと、あたたかな火が灯る。
……絶対、調べてるはずなのに。
知らないふりして、ずるい。
「一応、レイでもありましたけど……セレスタ、です。セレスタ・イゼルファ」
もじもじと。
視線は握りしめた手のまま、不敬だとは分かっているけれど、顔が上げられない。
震える声で名乗ったその名前が――こんなにも怖くて、そして嬉しいものだなんて、ようやく気づいた。
「バリストン姓ではなかったか」
「こっちが姓だと伝えられました……。母が叔父様の姉にあたりまして、私が生まれた頃に母は亡くなって、父も……わからなくて。そのあとは、叔父様に……養われました」
しばし私を見つめた後、陛下は優しく笑った。
「ふふ……そうか。セレスタ、か」
「は、はひ……」
叔父様以外に呼ばれたことのなかった名前。
それを、陛下が呼んでくれるだけで、胸がいっぱいになった。
「……あの、私は……いろいろ、恥ずかしいことを……してしまいました」
ちらりちらりと陛下の表情を伺いながら、赤くなった顔を伏せる。
陛下の声はさらに柔らかくなった。
「たとえば?」
――知ってるはず、なのに。
こうして聞いてくるあたり、きっとわざと。
でも、それでも自分の言葉でちゃんと伝えたくて。
「お、お茶会で……陛下の手に、その、頭を乗せたり……カーテシーしたり……令嬢たちに笑われたりとか……っ」
「あれは笑われたのではない。……そうだな、歓声と言えばいいかな。 所作も、レイだった頃の気品があった。今思えば、セレスタだからこそ出てしまった礼だな」
そこまで仮面を剥がしてくれたのか、と陛下は笑って、紅茶に口をつける。
「か、歓声……私が……?」
レイとしての記憶がよみがえるたび、顔が熱を持ってしまう。
陛下は楽しげに目を細めた。
「気取らぬ仮面より、今の、素が出たレイ――セレスタの方が、絵になる。……それとそう、お茶会の話だな。あれはあれで、愛らしかった。私も撫で返しておけばよかったと、あとで後悔したよ」
「……ぅ」
思わず顔を覆ってしまう。
耳まで赤くなっているのがわかる。意味なんてないのに。
「しかし……まさかあの時の少年が、女の子で。こんなに可愛らしい騎士が隠れていたとはな。……あの時の私は、まんまと恋をしたというわけだ」
懐かしむように――けれど照れくさそうに。
陛下は頬を染めながら言った。
私は、思わず目を見開いた。
「……少年?」
「ああ。昔、町を歩いていたとき、男の子に助けられた。その彼に、別れ際、イヤリングを片方渡したんだ」
まさか――。
陛下も、間違えてたなんて。
「私も……あの時、陛下を男の子だと思ってました。短髪で、言葉もしぐさも……だから、ずっと……」
「あれは隠していたのだ」
「そ、それに、今より……失礼ですが、落ち着きがなかったというか……」
「ふ、それはな。ずーっと王城で座学漬けだったのだぞ? 私は身体を動かしたかったし。実際に自分が治める町を見るのは当然だろう? ……兄上に唆されたのは、確かだがな」
「お、お二人とも……」
「そうだ、兄も兄で私以上の暴れん坊だった。よくヴァルディスに『またおらぬ』などと言われていたものだ」
(今でも、執務室以外で会えるのは、その名残……?)
陛下の意外な一面を知って、私は思わず微笑んだ。
「ようやく笑ったな」と言われて、また赤くなる。
「あ、あと、アッシュって……?」
「ああ、私の幼名だ。あだ名みたいなもの。暴れん坊で、遊びまわったあとすぐ寝てしまう子だったから、そう呼ばれたらしい。兄上の命名だな」
「そんな……ふふっ」
白と赤の視線が交差する。
見つめ合って、ふっと笑い合う。
「アッシュと呼んでも構わんぞ?」
「うぅ……」
――畏れ多すぎる。
でも、いつか。いつか呼べたらいい。
「慣れたら……」
そう答えた私に、陛下はとても優しい顔をした。
会話が一段落した頃、陛下は背もたれにそっと身を預けた。
イヤリングと、少年の記憶。
過去と今が重なって、安堵の笑みを浮かべている。
炎に包まれるような、あたたかい感情が、胸の奥でふくらんでいく。
誤解も、秘密も――
今では、全部、大切な思い出だ。
そしてようやく。
今、同じ時を見つめ合うことができた。




