三十六話.誰そ彼に燃ゆ【ヴェラノラ視点】
パーティの熱は、すでに醒めていた。
それでも冷たい執務室の中で、手だけは熱を帯びていた。
――あの手……。あの視線。
書類を掴んだ手が燃えて、消し炭になるのを必死に抑える。
正直、書類の内容などほとんど頭に入ってこない。
ノックもなく、静かにドアが開く。
「まだいらしたのですね、アッシュ様」
入ってきたのはヴァルディス。
まだパーティ用の礼服のままだ。
今の今まで、片付けの指示でもしていたのだろう。
宰相の身でよくやる。……まあ、主催側だったから仕方ないか。
「本日は公務なさらないのでは? ……パーティでの疲れもありましょうし、少しお休みを」
「私は女王だぞ。竜の炎を受け継ぐ者だ」
じゃじゃ馬だった幼少期――“アッシュ”の時代を知る彼。
二人きりの時くらい、女王の仮面を外してもいいだろう。
バレたか、と不貞腐れながら言い返すと、ヴァルディスはくっと笑った。
「ふ……なるほど。やけに感情的だった炎、見間違いではなかったようですな」
「……何が言いたい」
「夜会での騎士殿の所作、拝見しましたよ。――そして、あれを見た陛下が目を細めていたのも」
書類を捲る手が、止まる。
調べろとは命じたが、そこまで見ているとは……。
「鋭いな。私と騎士。すべて炎で包み隠したつもりだったのに……。さすがだな」
「アッシュ様は、常に王として感情を制御しておられる……はずでしたが。あの時だけは違いました。まるで、長年探していた何かを見つけたような――。……無論、炎を出された時は驚きましたがね」
と、ヴァルディスは机に束を置く。
私は手元の書類を脇に寄せ、その束に目を落とした。
「ご依頼の件です。……しかしまあ、隠すのが得意なノル。表に出ても痛手にならぬ程度の裏の顔しか見つかりませんでした。襲撃者も死んでしまった今、証拠も難しいでしょう。……私が讒言しても、朝の集会にも来ない男ですからな」
これは――バリストン家の調査書か。
竜の家系、外交での裏の取引、かつて帝国に留学していたこと。
その程度。
……表面上の情報ばかりだ。
裏の取引も大体が葡萄……。
「この件は、もう少し追うとして――。さて、こちらは私からの願いなのですが」
「……?」
「騎士殿に、手合わせを所望したい。正式な場ではなく、あくまで軽く剣を交える程度ですが。近頃の若い騎士たちの中でも、どうにも違和感がありましてな」
「……集会に来ない男の養子を腹いせに叩く、にしか見えない申し出だな」
冗談めかして返す。
「いえいえ。騎士の感です。……それと少しだけ、アッシュ様のお気に入りに触れてみたくなりましてな」
ヴァルディスは髭を撫でながら、笑う。
さすが元騎士団長。
私には見えない何かを、彼なりに見ようとしているのだろう。
私は一拍置いて、笑う。
「ふふ、よかろう。それは騎士団へ直に伝えるといい。ただし――剣で語れがおまえの信条なら、言葉でも聞かせろよ」
「承知しました」
ヴァルディスは一礼して、部屋を後にする。
心なしか、ウキウキしているように見えたのは、きっと見間違いではない。
私は、窓の外に目をやった。
「レイは、どう答えるのだろう」
普通に手合いを受けるか。
それとも――疑問を持つか。
仮面を被ったままだろうか?
それとも……。
愛らしく慌てる姿が、なんとなく目に浮かぶ。
(ヴァルディスが、あそこまで直感を口にするとは。……庭園の件もあるだろうが。あの男の影に隠れていたせいで、今まで気づかなかったのか)
けれど。
あのヴァルディスが、わざわざ私に伝えるほど興味を示すのは――
やはり、普通ではない。
レイ。
まだまだ甘やかして、仮面を剥がしたいところだ。
炎をものともしない耐性。
人とは思えぬ腕力。
パーティの時は、腕力を見せなかった。
……だからこそ、あのお茶会では、一切手を出さなかったのだろう。
「ふふ……」
どれだけ、必死だったのだろうか。
思わず口元がほころぶ。
そして、何より。
――あの目。
お茶会の時も、パーティの時も。
一瞬だけ煌めいた、朝焼けのような白。
……あの少年の。
あり得ない。
そんな偶然。
けれど、もしかしたら――
そんな予感と、期待が。
心の隅から離れない。
指先が、無意識にイヤリングを撫でる。
(……おまえは、一体……)
窓の外では、王都の朝がゆっくりと始まりつつあった。
空は、いつも彼の近くに咲くルミナリアの色のように、淡く、優しい青だった。




