プロローグ
イグニス王国――険しい山々と海に囲まれた竜の加護を受けた豊かな辺境にある小国。
南には竜の尾と呼ばれる活火山がそびえ、今もなお噴煙を天に昇らせている。
だが、活火山を含んだ黒土は大地を潤し、王都の周囲には段畑や果樹園が広がっていた。
その国には、祝い事や神事には必ず火を焚べる風習がある。
今では王都の道を赤などの暖色で照らす“ルミナリア”という燃える花がその役目を担っていた。
王城の通路や回廊、騎士団の訓練場の脇にも植えられ、朝夕柔らかな赤き灯をともす。
竜の関わりある国の象徴でもあった。
人々はそれを“竜の祝福の炎”と呼び、日々の暮らしの中にも祈りと灯火を置いて生きている。
そのため王都は赤い屋根と石畳の道に彩られ、燃えるような光景を見せる。
王城のすべての通路は竜が通れるくらいに広く高い。
そして、イグニス王国を治める女王たちは代々金色に燃える"命の焱"を受け継ぎ、この地を守り、火を絶やさなかった。
現女王――ヴェラノラ・アウレリア・イグニスは、歴代でも比類なき炎の使い手だった。
燃えるような赤髪。
真紅の瞳は燃え立っていた。
その額には美しい金冠。
紅のドレスはまさに焔の女王と呼ぶにふさわしく、どんな屈強な者でもその凛々しさに膝を折らざるを得なかった。
強く、凛としていて誰よりも国を愛した彼女。
ただ一つだけ足りないものがあった。
――後継者と、伴侶。
国民は噂した。
「そろそろ本気で婚姻をするべきではないか」と。
貴族たちは嘆願し、イグニス国が辺境の地だとしても諸国からは求婚の書状が雨のように届いた。
彼女はそれらの名を全て、火の魔法で竜の末裔と言われる由縁の力で燃やし尽くす。
心の底では気づいていた。
誰のことも選べない。
――あの時、心を奪われた“少年”以外は。
過去街の片隅で。
襲われかけた幼い彼女の手を引いて走ってくれた少年。
帽子に髪を隠していた自分を、年の近い誰かだと思ったのだろう。
けれどあの時、繋いだ手の力強さと温かさ。
そして、蒼海の瞳。
今でもはっきりと記憶に残っている。
別れ際、ヴェラノラは自分のイヤリングと対になるもうひとつを、少年に託した。
あれからずっと、その子に再会できる日を夢に見てきた。
けれど――
そんな夢は、叶うはずがない。
再会など、あるわけがない。
あれは一度きりの奇跡。
忘れて、務めに徹するべきだ。
民意もある。
婚姻も、後継者も必要。
しかしここまで山のように婚約の手紙が来ては面倒が顔を出す。
だから……これは、ただのヴェラノラの衝動でしかなかったのかもしれない。
それでも、口から出てしまったのだ。
「貴様私の伴侶にならんか?」
謁見の間が静まり返った。
予想外の相手。
予想外の展開。
そして。
その言葉を受けた“騎士”は、口元を引きつらせながら、何とかこう答える。
「……仰せの、ままに」
けれどその声音には、どこか震えがあった。
それもそのはず――
その騎士は魔法で男の姿になっている、“とある秘密”を抱えた女だったのだから。