転落への序章〜傲慢の代償
冷たい風が吹き荒れる雪山への道は、まさに白銀の世界だった。
吹雪にかき消されそうな視界の中、ジュリウス・ラインフォードは先頭を歩くことを頑として譲らない。
「こんな風雪、俺の進軍を阻むには足りない。
ついて来られないなら置いていくまでだ」
高い場所から見下すような態度に、アストリッド・ロウレンスの銀色の瞳がわずかに光を増す。
彼女はこれまで何度となく苦言を呈してきたが、ジュリウスに聞く耳はない。
「ここは気温も低く、魔力の制御が難しくなる。
雪崩の危険だってある」
アストリッドが淡々と助言しても、ジュリウスは口角を上げただけだった。
「気温と魔力の話か。
くだらないな。
俺ならどんな地形でも、ひと振りで切り開いてみせる」
ノア・ディアスは吹雪に飛ばされそうなローブを押さえ込み、消え入りそうな声で言葉を継ぐ。
「雪山での魔物は特別な耐性を持つことが多い。
回復魔法だって瞬時に凍りつく恐れがあるんだ。
だから一度、拠点を整えるべきじゃ…」
ジュリウスは苛立ちを隠さず、雪を蹴散らすように進んでいく。
「俺がここで立ち止まるなんて笑い話だ。
強者にとって環境など言い訳にしかならない」
エヴリン・ローズウッドはツインテールを凍てつかせる冷気に頬を赤くしながらも、矢筒をしっかり抱えている。
「言い訳でも何でもいいから、ちょっとは私たちの都合も考えてよ。
このまま進むなら、それなりの覚悟が要るわ」
彼女の警告は真っ当なものだが、ジュリウスは鼻を鳴らす。
「覚悟ならとっくにできている。
俺を見くびるからお前たちは不安になるんだ」
足場の悪い斜面を乗り越えると、遠くの崖下から巨大な咆哮が聞こえた。
荒れ狂う雪煙の中、怪しげな影がうごめいているのが見える。
アストリッドが剣を握り、ノアが杖を構え、エヴリンは険しい表情で弓を持ち替えた。
だがジュリウスはその警戒態勢を嘲笑うように、いつもの強気な調子を崩さない。
「一匹や二匹、どんな化け物が潜んでいようと同じことだ。
この白銀の山道も、俺が通るための踏み台にすぎない」
彼は視線の先に巨大な魔物のシルエットを捉えた。
毛並みは白く、鋭利な角を持つ雪獣の群れが吠え声を上げている。
特に一際大きな個体が斜面を踏みしめ、こちらに狙いを定めたようだった。
ノアがすぐさま呪文を詠唱しようとするが、ジュリウスが手で制止する。
「余計な援護を出すな。
俺が先陣を切って蹴散らす」
エヴリンは青ざめた顔で口を開く。
「相手は雪山に適応した厄介な魔物よ。
下手に火の魔法を使えば、吹雪でうまく広がらないかもしれない」
ジュリウスは自信たっぷりにマントをはためかせた。
「一度や二度、火の魔力が届きにくいからといって俺が退くと思うか。
魔力の使い方など、頭の良い奴ならいくらでも工夫できる」
アストリッドが斜面の上で冷たい風に長い金髪を揺らしながら、険しい声を上げる。
「さっきから周囲が崩れやすい。
何度も警告しているはずだ」
しかし、ジュリウスは聞こうとしない。
「崩れる前に魔物を倒せば済む話だ。
お前はそのへんで震えていればいい」
その瞬間、雪を踏みしめていた一際大きな雪獣が低く身構え、突進を開始した。
ジュリウスは「いいだろう、受けてやる」とばかりに剣を抜き、真っ正面から迎え撃つ構えを取る。
ノアは必死に回復魔法の詠唱を始め、エヴリンが矢を番えて援護射撃の態勢を取った。
ところがジュリウスは「俺の邪魔をするな」と、わざと射線に割り込んでしまう。
エヴリンは弓を引くタイミングを逃し、苛立ちをあらわにする。
雪獣が凶暴な唸り声をあげ、その衝撃で足元の雪が舞い上がる。
白い視界の中でジュリウスは火の魔力を帯びさせた二刀を振りかざし、一気に斬り込もうとする。
しかし足場が突然崩れ、彼の体が不自然にバランスを失った。
吹雪が強まり、炎の威力も半減する。
加えて雪獣の剛腕が横から叩きつけられ、ジュリウスは反応が遅れた。
アストリッドが「やはり!」と叫んで駆け寄ろうとするが、突進してくる別の雪獣が行く手を塞ぐ。
ノアも回復魔法を間に合わせようとするが、ジュリウスの位置が大きく斜面側にずれてしまい、狙いを定めにくい。
エヴリンが必死に矢を放ち、雪獣の動きを止めようとするが、多勢に無勢。
慣れない雪山の地形と猛吹雪が重なり、パーティ全体が思うように動けない状況に陥った。
「ちっ、こんなところで!」
ジュリウスは唇を噛み、必死に体勢を立て直そうとする。
だが雪獣の乱打を受けた衝撃で崖際まで吹き飛ばされ、足元の氷が一気に崩れ落ちる。
彼は片手だけで剣を支点にしがみつくが、下には深い渓谷が口を開けていた。
耳をつんざくような吹雪と魔物の吠え声が入り混じり、エヴリンの声もかき消される。
ノアが慌てて杖をこちらに向け、治癒魔法の準備をするが、雪獣が迫ってくる圧力に耐えきれず、位置を変えざるを得ない。
「どうしてこんな危険な態勢になったのか…」
ノアは顔を歪めるが、アストリッドが剣を抜き直す。
「何とかジュリウスを救わないと…」
そう言いかけた瞬間、雪獣が豪快な一撃を放ち、ジュリウスが剣を刺していた氷面が完全に割れた。
「くっ…俺がこんな…」
彼は唇を強く噛み、視界が急に上下逆転する感覚に襲われる。
崖際で支えを失い、白い嵐の中へ滑り落ちていく。
アストリッドは必死に手を伸ばし、エヴリンも悲鳴を上げながら矢を無意味に放つ。
ノアは治癒魔法の詠唱を叫び続けるが、届かない。
吹雪の轟音とともにジュリウスの身体が崖下へ転がり落ち、やがて姿が見えなくなる。
雪獣の唸り声を背に、アストリッドたちは撤退を余儀なくされた。
彼らはここで戦い続ければ同じように崖下へ落とされる。
そう判断せざるを得なかったからだ。
「ジュリウスが、あんな形で…」
エヴリンの声は震えている。
ノアは答えを出せないまま、降りしきる雪と怒号のような風を睨んでいた。
アストリッドはこみ上げる苛立ちを抑えきれず、剣の柄を強く握りしめる。
そこには傲岸不遜だったはずの男の姿など、もはや見当たらない。
彼が深い谷底でどうなったのかはわからない。
パーティは魔物の追撃を振り切るだけで精一杯だった。
崖上に吹き荒れる吹雪は容赦なく、足元を狂わせていく。
視界の端に、不吉な影が揺れる。
白銀の山道は静かではない。
雪獣たちの咆哮が、とどめを刺すように轟いた。