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逃亡の果てに

  “空間転移”で、エステルは町から家の前まで逃げる。

 神官モニカが町に張った“神聖領域”から脱したことで、少しだけ痛みが薄れた。


 それでも、一度受けた効果はすぐに消えてくれない。

 既に体を蝕んだ不調は、今もエステルを苦しめる。


 あの精神状態で発動した“空間転移”で家の前に辿り着けた。

 それだけこの場所には執着があるということだろうか。


 家に帰ろうとして、足がもつれる。

 受け身を取ることもままならず、盛大に倒れる。


 全身が痛い、気分が悪い。

 辛くて、涙が止まらない。


 町の人に、魔法を使ったところを見られてしまった。

 魔王だと、知られてしまっただろうか。


 人前で魔法を使ったのは、フレデリックに教えられて詠唱付きの生活魔法を使った一度きりだ。

 後にも先にも、魔法の使用は自分で制限していた。


 あの時は、人族が使う詠唱について興味を惹かれて、思わず試してしまった。

 心を無にしても、神への感謝も忘れても、ただ詠唱を唱えるだけで使えてしまう魔法。

 今の人族は、本当に神への信仰を忘れてしまったのだろうか。


 それよりも、今は隠れないと。

 勇者に見つかってしまった。


 さっきの“空間転移”で細々と蓄えていた魔力をかなり消耗した。

 もう一度は使えない。


 ――ぁ……、ああっ!

 はたと気付く。


 町から直接、“空間転移”で逃げ帰ってしまった。

 自分がここに逃げてしまったら、勇者がここに来てしまう。


 勇者がここに来たら、ウィルフレドのことを知られてしまう。

 エステルを、魔王を保護したウィルフレドのことを。


 勇者は、人族の守り手。

 魔王である自分を、知らずに受け入れていただけの町なら見逃してくれるかもしれないが、知らずとはいえ保護したウィルフレドのことを無条件で見逃してくれるのだろうか。


 いや、許すはずがない。

 強引にでも審問し、強行な手段に出るかもしれない。

 なんせ相手はあの神官なのだから。


 ――間違えた。

 自分の愚かさに、頭を抱える。


 勇者に見つかり、居住地も知られてしまった。

 ウィルフレドの傍にいることは、もう彼の迷惑にしかならない。


 ウィルフレドには、自分が魔王である事を打ち明けていない。

 打ち明けられるはずもない。


 今のエステルにとって、ウィルフレドの存在が、優しさが生きる希望。

 冷たく突き放される事はないとしても、今までのような優しい笑顔はもう向けてもらえないだろう。


 そんな未来は耐えられない。

 それを失っては生きていけない。


 それでも、今は距離を取るしかない。

 ウィルフレドとの関係性を隠すために。


 自分から離れたいわけじゃない。

 しかし今は距離を取り、勇者が去るのを待つしかない。


 ――迷ってる時間はない。

 涙を拭う間もなく、エステルは家に飛び込む。


 ウィルフレドは机に向かい作業をしていたようだ。

 エステルがこんな時間に戻ってきたことに、とても驚いた様子でいる。


 しかし、深く事情を説明している時間はない。

 自分が魔王である事を明かさない状況説明ができるほど、頭の回転は速くない。


 とにかく伝えないといけない。

 勇者が来る前に。


「ウィル様」

「……どうしたんだい?」


 ボロボロで焦る様子のエステルに、ウィルフレドは努めて穏やかに返す。

 落ち着かせるような優しい笑みを浮かべるウィルフレドを見て、感情が溢れ出す。


 ――離れたくない。

 今までに何度、この人の優しさに救われてきたか。


 ――ひとりぼっちになった私を、救い上げてくれた人。

 この人がいなければ、今の生活は無かった。


 ――ずっと一緒にいたい。

 エステルにとって、無くてはならない大切な存在。


 しかし、決断しなければならない。

 ウィルフレドを守るために。


「ウィル様、今すぐに家から離れてください。

 裏の窓から、森の方へ。

 なにが聞こえても振り返らず、夜まで隠れてください。

 私は、しばらく姿を消します。でも、いつか必ず戻ってきますから。

 必ず、絶対に……」


 勇者から逃げ切れる保証はない。

 エステルの逃げ癖を知っている勇者は、今度こそどこまでも追ってくるかもしれない。


 もしかすると、これが今生の別れになることすらあり得る。

 しかしそんなことは考えない。


 考えてしまったら、離れられなくなってしまう。

 今から起きる困難に立ち向かえなくなってしまう。


 だから、別れの言葉は口にしない。

 絶対に戻ってくるのだから。


 ――来た。

 どんどん近づいてきている。


 気配は二人。

 神官モニカの気配は覚えている。

 あとの一人は、守りが上手い聖騎士か、魔法が上手い軽戦士か。


 どっちでも同じだ。

 神官モニカがいる時点で、万に一つの勝ち目もない。


「隠れてくださいねっ」

 エステルはそう言い残し、ウィルフレドを置いて家を飛び出す。


 エステルにとってこの家は、ウィルフレドと共に過ごした大切な場所。

 絶対に守らなければならない。

 勇者を近づけるわけにはいかない。


 今度は逃げることが出来ない。

 いや、絶対に逃げない。


 玄関の戸に背中を預け、深く息を吸う。

 まだ体の不調は回復しない。


 頭がガンガンと響くような頭痛が続いている。

 足も、立っているだけで激痛が走っている。


 呼吸も脈拍も乱れ、汗も涙も止まらない。

 それでも、立ち向かわなければならない。


 見えた。

 神官モニカと、軽戦士サーシャ。


 まだ遠くて、顔も見えない

 それだけ距離が離れているのに、顎が震える。


 勇者と相対する。

 体の震えが止まらなくなるくらいに怖い。


 でもそれ以上に、ウィルフレドに何かされることの方が怖い。

 ――させない。


 守り通してみせる。

 どんなに痛めつけられたとしても、ウィルフレドが隠れるまでの時間を稼ぐ。


 服の上から、首に下げたお守りを握り締める。

 決意を胸に、エステルは宿敵に立ち向かう。

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