突然の不調
エステルはその場に蹲る。
活気に満ちた大通りで、突然の不調。
いったい何が起きたのか。
――気持ち悪い。
エステルが歯を食いしばりながら周囲に視線をやる。
突然倒れたエステルを見た周囲の人が慌てて駆け寄ってくる。
「エステルちゃん!」
「大丈夫かいっ?」
どうやら自分以外にこの症状に襲われている人はいない。
これはエステルだけに起きている現象だ。
周りの無事にひとまず安堵するが、この苦しさは和らいだりしない。
呼吸がうまくできない。
視界がチカチカとちらつく。
誰かが体を揺すって無事を確認しようとしてくるが、揺すられるたびに吐き気が襲ってくる。
まだ何も入っていない胃から胃液がこみ上げそうになる。
必死に口を閉ざすが、その拍子に咳き込む。
涙がぽろぽろと溢れ出て、失禁してしまいそうなほど苦しい。
頭の中までぐちゃぐちゃで、状況が整理できない。
脈も早く、心臓の音が煩くて、周りの人の声もうまく聞こえない。
かすれた視界に、いっぱいの人が見える。
この町はみんな優しい人ばかりだ、きっと心配してくれている。
なのに、声が全然聞こえない。
みんなの声が、全然耳に届かない。
さっきまであんなに賑やかだったのに。
活気に満ちた声も、心配する声も、全然聞こえない。
――どうして。
まるで世界から隔離されてしまったような孤独感。
――返して。
幸せに満ちた日々を取り上げられてしまったような喪失感。
いやだ。
失いたくない。
手放したくない。
縋るように、手繰り寄せるように手を動かす。
なにか、なにか無いか。
誰かが手を握ってくれる。
青果店の女主人だ。
力なく震えるエステルの手を心配そうな表情で握り締める。
「大丈夫、大丈夫だよ」
「町長が万能薬もってるはずだ。貰ってこい!」
励ます声も、焦る声も、エステルには届かない。
心配している表情だけが、霞んだ視界からでも分かる。
――心配かけてごめんなさい。
悔しい。
みんなを笑顔にしたいのに、みんなを元気にしたいのに。
こんな表情をさせたくなかったのに。
みんなの元気な声を聞きたい。
楽しそうな声を聞きたい。
「そういうことか」
それは聞きたかった声じゃない。
なのに、その声だけがはっきりと聞こえた。
今度こそ、呼吸ができなくなった。
少ししか聞いたことはないけど、はっきりと覚えている声。
『これで終わりだ』
エステルが初めて戦った相手。
王城を破壊したのに、なぜか無傷だった敵。
誰よりも前に突進してきて、エステルの攻撃をものともせず凌いで見せた。
かろうじて与えた攻撃も、まるで無かったかのように回復された。
一年以上過ぎた今でも忘れられない、どこまでも冷たい、恐ろしい声。
そして、杖を振りかぶって目の前に迫って来た時の凍り付くような眼差し。
敗走し、ウィルフレドに保護された後も夢に見た。
何度も何度も、思い起こされる絶望の瞬間。
思考が恐怖で凍り付く。
かすれた視界の中で、一つだけはっきりと映る人の姿。
全身を包む大きなローブを羽織り、先端に宝石の付いた長い杖を持っている。
――なんで、ここにいるの。
北の砦に向かったはず。
勇者が、エステルの天敵が、神官モニカがそこに立っていた。
冷たい視線が、エステルを貫く。
いつか見つかるんじゃないか。
そう思って怯えていた頃もあった。
でも、北の砦に向かったと聞いたときは安心した。
北に向かったのなら、ここにはもう来ない。
――なのに、なんでここにいるの。
怖い、怖い、怖い。
恐怖で思考が停止していても、これだけは分かった。
この不調は、モニカの仕業に違いない。
まずい、まずい、まずい。
モニカの視線、あれは絶対に自分の正体に気付いている。
町の人にも、ウィルフレドにも明かしていない、エステルの正体。
かつて魔王としてこの地に現れ、瞬く間に討伐された前回の魔王である事を。
逃げて、隠れ潜んで、魔王である事を知られないように、魔力を隠蔽した。
魔法も使わないように、頼らなくても生活できるように努力してきた。
隠しているはずの闇の魔力を、老魔法使いフレデリックに見破られたときは肝を冷やしたが、幸いにも正体に気付かれることはなかった。
しかしモニカは違う。
王城での戦いで、彼女はエステルの仮面を叩き割り、その素顔を間近で見ている。
一年以上前のことではあるが、モニカは確信しているはずだ。
今のエステルに向ける視線、それは苦しんでいる者を見る慈しみの目ではない。
かつてエステルを完膚なきまでに叩きのめした時の、あの時の目だ。
――死にたくない。
以前の経験がエステルに告げている。
絶対に勝てないと。
ある程度立ち直ってから、エステルも力をつけるべく、こっそりと鍛えてきた。
誰にもバレないように、闇の魔力を練り続けた。
いつか再戦するためではない。
守りたいものを守れるように、自分で決めた意地を貫けるように。
しかし、それを脅かさんとする者が現れた時、エステルは悟ってしまった。
――無理だ。
努力が足りなかった。
勝てる気がしない。
逃げる。
それ以外に選択肢はない。
ここで逃げたとしても、相手がモニカなら、住民に危害が及ぶことはないはず。
彼女は勇者、人族の英雄。
町の人を傷つけたりはしないはず。
“空間転移”
エステルは逃亡した。
幸い、“魔法解除”を得意とするサーシャは、人だかりから抜け出してきたばかりで状況が飲み込めていない。
“空間転移”は妨害されることなく、エステルの逃亡は成功した。
町を離れ、ウィルフレドの元へ。
安心できる場所へ。




