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サーシャの過去4 知らない魔法

 森の中、逃亡の果てにルーウェンに出会ったサーシャ。

 言葉を交わすことなく事態を把握したのか、彼女を受け入れるように手を差し伸べたルーウェンに、サーシャは迷うことなく駆け寄った。


 出会ったばかりとは思えない程、サーシャはルーウェンに信頼を寄せた。

 この人なら絶対に助けてくれる、と。


 たとえ半裸であろうと。

 たとえ汗にびっしょりと濡れていようと。


 サーシャは気にすることなく、子が親に抱き上げられることを求めるようにルーウェンへと手を伸ばしながら飛び込んでいく。


「おっと」

 しかし、それを気にしたのは他でもないルーウェンの方だった。


 サーシャを受け止める直前に気付いたのか、全身で受け止めることをやめ、彼女の脇に手を入れて抱き上げる。


 ぷらん、と宙に浮く体。

 予想外の対応に一瞬呆けたサーシャだったが、慌てることはなかった。


 自信の脇に差し込まれた手は驚くほど大きく、そして温かい。

 ゴツゴツとしているのに、優しさに包みこまれているような安心感があった。


 森を逃げ回っていた時の恐怖と不安が嘘のように晴れる。

 後ろから迫ってきている暗い魔力さえ薄れてしまうほどに。


「……来る」

 そう一言呟くとルーウェンは自身の背後にある、膝丈ほどの高さがある腰掛け用の石の上へとサーシャを下ろした。


 石は上面に平らな部分が多く、その上の座らされたサーシャに不安定さは無い。

 ただ、ルーウェンの手が離れることだけが不安だった。


 咄嗟にルーウェンの片手を両手で掴む。

 絶望的な状況で突然得られた安心に縋るように、強く握る。


 すると、お返しとばかりにルーウェンが自由な方の手をサーシャの肩へ乗せた。

 肩から全身にじんわりとした熱が送られてくるように感じる。


「大丈夫だよ」

 鋭いのに優しい視線がサーシャをまっすぐに捉えていた。


 不安で胸がいっぱいのサーシャを安心させるように。

 肩に置かれた手が、今度はサーシャの手に重ねられる。


「きみに魔法を掛けてあげよう。

 この石の上でじっとしている限り、きみは誰にも見つからないよ」


 ルーウェンは口の前で人差し指を立てる。

 聞き分けのない子どもをあやすように、優しい声音で言い聞かせる。


 もしサーシャが魔法をろくに知らない子どもであったなら、そんな魔法もあるんだと簡単に信じて頷いただろう。


 しかし、幼い頃から両親に魔法を教えてもらっていたサーシャは知っている。

 かつて賢者によって考案された魔法の中に、そんな魔法が無いことを。


 それなのに、ルーウェンの言葉はなぜか信じられた。

 魔法だと言いながら詠唱もしていないのに何故か、大丈夫だと。


 頷くサーシャから手を離して背中を見せたルーウェンはとても大きく、自信に満ちているような力強さを感じた。


 大きな背中に阻まれて、サーシャには来た方向がまるで見えない。

 しかし、分かってしまった。


 この大きな背の向こうで、森から出てきた暗い魔力が近づいてきている。

 サーシャは温もりの残滓に縋るように、両手を強く絡めて身を縮めた。


「……なんだお前は?」

 男性の声が聞こえた。


 ルーウェンを警戒しているのか、それとも威嚇しているのか。

 低く掠れた声が攻撃的に飛んでくる。


「見ての通り、ただの修行中の剣士見習いだ。

 あんたは魔法使いか? こんな森に一人で?」


 対するルーウェンはそんな攻撃性をものともせず、飄々と受け答える。

 サーシャを隠していることに対して、微塵も後ろめたさを見せない。


「一人ではない。さっきここに子どもが一人来ただろう」

 しらばっくれるルーウェンの態度に苛立ちを隠さず、怒気も含ませる。


 男性からしてみれば、サーシャが逃げた方向に居たルーウェンを怪しまない理由はなく、幼いサーシャをその背中に隠していると勘づいても不思議ではない。


「あぁ、あの子か。

 あんな子どもを連れ立って森に入るのもどうかと思うけど」


 人のことは言えないけどな、と小さく呟く声が聞こえる。

 後ろからはルーウェンの表情は見えず、その意図は分からなかった。


「お前には関係のないことだ。命が惜しければそこを退け」

 無駄な会話に耐えかねたのか、男性の攻撃性が牙を見せる。


 さっきまでルーウェンが素振りしていた長剣は地面に置いたままだ。

 あの男性が魔法使いなら、長剣を拾うよりも先に魔法が飛んでくる。


 もしこのまま戦いになってしまえば、ルーウェンが圧倒的に不利だ。

 サーシャは不安と心配の視線をルーウェンに送る。


 しかし、ルーウェンはすいっと体を横に移動させた。

 まるで背中に隠しているサーシャのことを忘れているかのように。


 ――……え?

 サーシャの視界に、あの男性の姿がしっかりと映り込む。


 一瞬で頭が真っ白になった。

 あまりの驚きで身じろぎひとつ出来なかった。


 ルーウェンは自分を隠してくれていたのではないのか。

 あの男性から守ってくれるつもりではなかったのか。


 嘘をつかれた?

 裏切られた?


 そんな考えがよぎったのも一瞬。

 まだ温もりが残る手と肩から、心配いらないと伝わってくる。


『大丈夫だよ』

 その言葉を信じて、サーシャはきゅっと目を瞑った。


「い、いないっ?」

 男性の困惑した声だけが聞こえてきた。


 そっと目を開けて男性の方を確認しても、彼と目が合う事はない。

 ルーウェンという障害物が取り除かれてなお、男性にはサーシャが見えない。


 なにが起きているのかサーシャにも分からなかったが、男性の様子とルーウェンの言葉を信じて、サーシャはじっと動かずに耐えた。


 男性が近くまで寄って来ても、訝しんでルーウェンの周囲を回っても、じっと。

 そのうち男性は諦めた様にルーウェンから一歩距離を置いた。


「どういうことだ?」

 そして恨みがましそうに問いかける。


「そう言われてもな」

 対するルーウェンは変わらぬ態度で答える。


「見てのとおり、俺はあまり人相が良くないし、今はこんな格好だ。

 さっきの子は俺を見るなり、方向を変えて走り去ったんだよ」


 こんな格好だから追いかけも出来ないし、と付け加えながら左の方へと視線を流した後、地面に置いていた荷物から脱いだ服を取り出した。


「追いかけるんなら協力するよ。一人より二人のほうがいいだろう」

 愕然と肩を落とす男性に、こともあろうに男性への協力を言い出すルーウェン。


 なにか考えがあってのことだろう、とサーシャは沈黙を貫く。

 ルーウェンの申し出に男性は首を横に振る。


「結構だ。こちらで何とかする。

 邪魔をしたな」


 そう言って男性はルーウェンが視線を向けた方へと足を向けた。

 ここにサーシャがいることなど気付いてもない。


 男性は魔法使いで、魔法使いだからこそサーシャと同じ結論に至った。

 人族のあいだで、姿を見えなくする魔法は無い、と。


 男性を見送り、その姿が見えなくなってようやく、ルーウェンはサーシャの方へと視線をやり、しかしもう一度人差し指を口の前に立てた。


 まだ喋ってはいけない。

 もしかしたら男性が引き返してくるかもしれないから。


 ルーウェンは飲み水を入れた筒をサーシャに手渡す。

 声が出なくなるほど疲れていた事に気付いていたのだろう。


 筒を受け取ってから、サーシャはふと気付く。

 自分は見えなくなっているとして、受け取ったこの筒は?


 男性が戻ってきた時のことを考えて少し心配になるが、余裕に満ちたルーウェンの表情を見て、余計な心配だと理解する。


 筒に口をつけて、干し肉のように渇いた喉を潤す。

 分けてもらった水を飲み干さないように、少しずつ大切に飲む。


 その様子をしばらく見ていたルーウェンはひとつ頷くと地面においた長剣を拾い、また素振りを再開した。


 その様子を見ていると、サーシャは疲れと緊張、そこからの急激な安心感からくる強烈な眠気に襲われる。


 森の中は本来、いつ魔物と遭遇してもおかしくない危険な場所。

 それなのに、今はとても安心できてしまう。


 出会ったばかりでまだ互いの素性も、名前すら知らないのに。

 ルーウェンの傍はどういうわけか、とても心が安らいでしまう。


 彼が長剣を振るたびに風切り音が規則的に耳を刺激し、陽気な日差しと心地よいそよ風を感じながら、サーシャは筒を抱きしめて眠りへと落ちていった。

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