失恋のトラウマは未だ消えず…
ハプニングとは言え意中の相手に押し倒された仁乃は瞼を閉じて唇を自分から差し出していた。そして互いの唇が触れ合う直前まで距離を縮めて来る加江須。もう少しで口付けがなされようとする直前、何故だか加江須の動きが突如として止まった。
仁乃からすれば完全に受け入れ体制を整えていたので加江須が日和ったのかと思い内心で意気地なしと罵りながら閉じていた瞼を持ち上げる。だが視界に移り込んだ彼の表情を見て思わず息を呑んでしまう。
「加江須…どうしたの…?」
眼前に映り込む彼の表情はキスをしようと顔を真っ赤にしていた直前とは打って変わり青ざめていたのだ。突然の対極的な表情の変わりように戸惑っていると加江須は小さな声でこう言って来た。
「ごめん…勢いに任せて俺最低だな。忘れてくれ」
「え、ちょっと…」
腰に回していた彼女の手を解いて体を起こす加江須。その表情はどんよりと陰鬱さを貼り付けておりまるで生気が一気に抜け落ちたかのようだ。
「ね、ねえマジでどうしたの?」
数十秒前までの胸のときめきなど完全に消え去り彼の身を案じるが彼は『何でもない』とはぐらかすだけ。何でもない訳が無いのは一目瞭然だと言うのに。
もしかして私のせい? 私が少し強引に迫って嫌がられた?
そこまで思考がいくと彼女の表情に焦りが芽生え始める。
「ごめんなさい。こんな強引な迫り方…最低よねわたし。まるで発情した犬みたいで……」
「ち、違う! 別に仁乃に対して不満なんてない! 俺はただ黄泉の事を思い出し……っ!」
「黄泉…?」
仁乃が少し悲しそうに謝罪を述べると加江須は慌ててそれを否定する。実際彼女に不満を持った訳ではない。だがその際に反射的に幼馴染の名前を口に出してしまい不審がられてしまう。
彼が直前で彼女との口付けを躊躇ったのは彼の耳に響いたあの忌々しい幼馴染の幻聴が原因であった。だからと言ってその事実を目の前の優しい少女に打ち明ける気にもなれなかった。これはあくまで自分とあの元幼馴染との間のいざこざなのだ。
くそ…もうあんな奴なんてどうでも良い筈なのに。どうして今でも捕らわれ続けてるんだ俺は……!
「悪い。今日はもう解散でいいな。また後で学校でな…」
早口で捲くし立てるようにそう言うと加江須はその場を急いで立ち去る。そのまるで逃げるかのような別れ方に仁乃は無言で去り行くその背中を呆然と眺める事しかできなかった。
◆◆◆
まるで逃げかえるかのように自宅へと戻った加江須はシャワーを浴びながら公園での出来事を振り返っていた。
自分を受け入れようとしていた仁乃との接吻直前の最中に耳に聴こえて来たあの場に居るはずのない幼馴染の罵声が聴こえて来た。それはつまり、未だに自分はあの教室での告白をトラウマとして引きずっている裏付けでもあった。
その真実をより一層強く自覚すると次々とあの幼馴染の罵声が脳に直接聴こえて来る。
『あんな可愛い娘がアンタと釣り合う訳がないじゃない』
『押し倒してキス迫ってマジでキモいんだけど?』
『あーあ…あの伊藤って娘に同情しちゃうわ。こんな気色の悪い男に惚れられちゃうなんてさぁ』
「五月蠅い五月蠅い五月蠅い! どこまで俺に付き纏えば気が済むんだよ!?」
耳を塞いでもまるで脳に直接囁いて来るかのような罵声に耐え切れず意味も無く耳に両手を当て怒号を上げる。
加江須はこの瞬間に理解した。自分は仁乃のことが本気で好きになったのだと。そしてだからこそ失恋のフラッシュバックの記憶がここに来て強く蘇ってきたのだろう。
「くそ…俺はどこまで臆病なんだよ。もう斬り捨てた女から受けた古傷に悩まされるなんてヘタレもいいところだ」
長年自分を貶し続けて来た愛野黄泉と自分に何度も好意を示している伊藤仁乃は完全に別人だ。そんなことは頭では理解できていても仁乃と親密な関係になろうとするとあの女は野次を飛ばしてくる。まるでお前には恋をする資格、いや幸せになる資格すらないと言わんばかり。
シャワーを浴びて汗は全て流れたはずなのに心の方はスカッと爽快にはならない。それどころかより一層の憂鬱感に苛まれる。
その後は母に用意された朝食を食べると一度自室に戻り制服へと着替え少し早めの登校の準備を始める。その際に机の上のスマホを取ると仁乃からメッセージが送られていたことに気付く。どうやらシャワーを浴びている間に送信されていたようだ。
『あんた本当に大丈夫? もし何か悩みがあるなら学校で時間のある時に相談しなさいよね。それから今日もお弁当作って行くから』
送られてきたメールを見て加江須の瞳は情けない事に僅かに潤んでいた。
わざわざ心配して気遣ってくれる仁乃の心遣いに改めて自分は彼女が好きである事を自覚できる。それと同時に失恋のショックの記憶まで強くぶり返して来て嫌気がさす。
「俺はこれからどうすればいいんだろうな…」
そう言いながら加江須は『何でもない』とメールを送り返しておく。あれだけ露骨に意気消沈していながら何でもない訳がない事なんて彼女には見抜かれているに決まっている。にもかかわらずそんなつまらない返信しかできなかった。
あれだけ自分を好いてくれている少女に煮え切らない態度を取り続ける事が本当に正解なのだろうか? 何より自分も彼女が心の底から好きになっているのにその想いを告げずにいる事が辛くて仕方が無かった。
結局加江須はそのまま悶々としたまま家を出て行く。何となく仁乃とは顔を合わせづらくいつもとは別ルートを使い登校した。
「またメール来てる…」
自身のクラスに着くとまたしても仁乃からメールが送信されていた。
『昼休みに屋上に集合! すっぽかしたら頬肉を引き千切るから!!』
何やらかなり物騒なメッセージに少し肝が冷えてしまう。もしかしたら登校前に返したメッセージが気に入らなかったのかもしれない。
「はあ……」
好きな女の子からのお誘い、本当なら歓喜するはずなのに今は不思議と気が重くなる加江須だった。
◆◆◆
「よしメール送信っと」
自身のクラスから脅しに近いメールを送った仁乃が小さく鼻息を鳴らしスマホを仕舞い込む。
「何が何でもないよ。あんな辛そうな顔して問題ない訳ないでしょうが」
自分に接吻する直前に見せた加江須の怯えた顔が仁乃の瞳に焼き付いて離れてくれなかった。それに気になるのは彼の口から出た幼馴染の名前。
彼の幼馴染である愛野黄泉はハッキリ言って蛇の様にしつこい女だと仁乃の中では認識されている。昨日に見た他の男子と楽しそうにしていたやり取りだってもしかしたら裏があるのかもしれない。
「もしもあの娘が陰でまだ加江須に陰湿な嫌がらせをしているとしたら」
自分にだって脅迫文染みた置手紙をする相手だ。もしかしたら自分の与り知らぬ場所で今でも加江須を精神的に苦しめているのかもしれない。
「おはよー仁乃。今日も豊かに実ってますなぁ」
いつの間にか背後に立っていた友人の愛理が後ろから自身の胸を鷲掴みにしてスキンシップを取ってくる。
いつもならばここでチョップの1つでも繰り出されるところだが不思議と仁乃からの制裁は来ないので首を傾げる愛理。
「あれなんか今日は大人しいぞ。もしかして何か悩み事かな~?」
「はいはい、おはよ愛理。そうね…悩み…ね…」
もしかしたら今も加江須は幼馴染との関係で悩んでいるのかもしれない。だがいつまでも過去に囚われ続けても彼にとってプラスになるとは思えない。
だからこそ今日の昼休みにいい加減に決着をつける必要がある。彼がもし一人で抱え込もうとするならそんな事は許さない。たとえあのバカが意地になったとしても必ず救い上げてやる。
独りで背負い込み続けるなんて許さないわよ加江須。こう見えて私は結構押しが強い女なんだから。




