妖狐への覚醒
「はあ…はあ…このクソカマキリが……」
荒い呼吸と共に加江須は目元まで垂れさがって来た血を拭いながら眼前で余裕を感じさせるゲダツを睨みつけていた。
今までヤツはどうにも加減して戦っていたようだ。さながら得物を弄んでから捕食する食物連鎖の頂点に立つ王者の様に。しかしスイッチが切り替わってからの目の前のカマキリ擬きはもう動きが別物であった。
移動速度も攻撃力もスイッチが切り替わる時と比べて速く重い。次々に繰り出される連撃の直撃を避けるだけで手いっぱいであり完全に加江須は圧倒されていた。
「ぐっ…加江須…!」
雁字搦めにされてしまい身動きが取れない仁乃は苦しそうに目の前で傷つく加江須を見て歯噛みする事しか出来なかった。
こうして何も出来ず縛られている間にも加江須はただ一人で立ち向かいそして傷ついている。
「グガァッ!?」
大きな悲鳴が聞こえて目を向けるとゲダツの振るったカマが加江須を弾き飛ばしていた。しかも僅かにカマの切っ先が横腹を切り裂いたのか鮮血が舞っていた。
自分の友人が血を撒きながら吹き飛んでいく凄惨な光景に仁乃は口から小さな悲鳴が漏れる。
「グシャアアアアアッ!!」
加江須が吹っ飛んでいく様を見てゲダツはまずは身動きが未だ取れそうにない仁乃を優先的に捕食しようとしてくる。だが彼女に迫りくる魔手を迎撃しようと加江須が事前に神力で生み出しておいて人形が行く手を遮る。
しかし人形は所詮は神力で作りだされた木偶、本体である加江須と比べるまでもなく完全な下位互換。ゲダツの振るう鋭利なカマによって一瞬で上下を分断されてしまう。
「さ、せ、る、かぁぁぁぁぁ!!」
だが壁としてしか役に立たずとも一瞬相手の動きを止める事は可能である。
雄叫びと共に起き上がった加江須は狐火による火炎弾を連射し背後からゲダツにお見舞いする。
「グシュルルルル……」
煩わしそうにしながら動きを止めて再び加江須へと振り返るゲダツ。
何度も何度も食事をお預けを喰らったゲダツはギチギチとまるで歯ぎしりの様な奇怪な音を口元から奏でながら加江須へと飛び掛かる。
自分以上の巨躯であるにもかかわらず凄まじい大跳躍をして邪魔者である加江須の始末を最優先するゲダツ。
4本のカマを振り下ろされている加江須を縛られたままの状態で見つめる仁乃は悔しそうに歯噛みする。
私は何をやっているのよ!? 蘇生戦士としては私の方がキャリアがあるのよ。それなのにこうして無様に縛られて加江須1人だけに任せっきりなんて……!
視線の先では加江須が必死にカマキリ擬きと肉弾戦を繰り広げている。だがどう考えても戦況が不利なのは加江須の方であった。今もなお加江須の体は浅く切り裂かれ続け赤い線が服の外に露出している彼の肌を切り裂き続ける。
そして遂にカマの刃が加江須の横腹を抉ってしまう。
「あ…がはっ……!」
今までで一番深く入ったその一撃に苦悶の顔を浮かべる加江須。
幸い臓腑が飛び出すほどではなかったがそれでも深手、加江須は咳き込むながら血の塊を吐き出す。
自分を庇って単独で戦い続け血反吐を吐く加江須を見ていられなくなった仁乃は反射的に叫んでいた。
「いい加減にしなさいよこのクソカマキリ!!」
全身を絡んでいる針金の様な糸は未だに仁乃の肉体を雁字搦めにして身動きが取れない。両腕も縛られているので糸を出す事も出来ない。そんな状態で自ら注意を引くような怒号を上げるなど愚の骨頂とも言えるだろう。だがそれでも自分の目の届く場所でいたぶられている友人を見て居られず感情が先走り大声で叫んでしまっていた。
背後から怒号をぶつけられたゲダツは目の前の加江須をカマの柄の部分を使い吹き飛ばすとクルリと首だけを背後に向けて仁乃を見つめる。
まるで昆虫の様な巨大な2つの複眼で射抜かれて仁乃が一瞬だけ息を詰まらせる。だがそれ以上に加江須をいい様にいたぶり弄ぶ異形に怒りの目を向ける。
「ぐっ…やめ…ろ…」
全身を幾度も切り刻まれ体中に赤い線を浮かばせながらも加江須はゆっくりと起き上がる。
体中に痛みが駆け抜け続け血も大分流して視界がふらつく。さらに抉られた脇腹の痛みは徐々に大きくなっており脂汗が浮かび上がる。
くそが、痛いだけじゃねぇ。目もぼやけるし何か吐き気までしてくる。
内心で弱音を吐き続ける加江須であるがゲダツの視線が仁乃に向けられている事を眼前で見せつけられるとどれだけ切り裂かれても倒れるなんて選択は無かった。かつて自分はゲダツに襲われそうな窮地を彼女に救ってもらっている。その大恩を今返さずしていつ返す?
全身から痛みを訴えかける肉体に鞭打ち起き上がる加江須を複眼でゲダツは見つめる。
「へっ、俺はまだまだ元気だぜ。おら、仁乃を喰う前に俺を喰って見せろよ」
そう言いながら手首をクイクイと曲げて煽ってやるとゲダツは口から何やら大きく息を吐き出す。それはまるでしつこい宗教勧誘に疲れている人間のようであった。
そして次の瞬間、ゲダツはまたしても口から大量の糸を吐き出したのだ。
「えっ、な、なに!?」
だがゲダツが糸を噴出した先は加江須ではなく離れた位置で縛られている仁乃の方であった。
もうすでに拘束されている自分に更に糸を巻き付けて来るとは思わず戸惑う仁乃だが次の瞬間に彼女の体が宙を舞っていた。
「……え?」
ゲダツが吐き出した糸は仁乃の体にさらに巻き付けられるとすぐさま硬化する。だがゲダツの口元からは糸が伸びたまま仁乃に付着しておりゲダツは繋がった糸を器用に4本のカマで挟むと繋がっている糸を通して仁乃の体を持ち上げたのだ。
そのままゲダツは持ち上げた仁乃の事をすぐ近くの川の中へと放り捨てた。
大きな水しぶきを立てながら仁乃の体はそのまま水中へとドボンッと言う音と共に沈んでいく。
「な、何やってんだテメェ!!!」
人語が通う相手とも思えないがゲダツの取った行動に加江須が大激怒する。
水中に目をやると仁乃が沈んだ付近からはブクブクとあぶくが立っている。全身をガッチリと縛られている仁乃があの真下で苦しんでいるのだろう。
このカマキリ擬きは多少は知恵が回る。仁乃を狙おうとしても加江須が邪魔をしてくる事が目に見えていたのでならば仁乃が自動的に死に至るように水の中へと送り込んだのだ。この方法ならば加江須との戦いに最後まで集中でき、尚且つ戦っている間に仁乃を自動的に殺す事ができる。
自分の狙い通りに事が運んでいる事を理解できたゲダツはよほど嬉しかったのだろう。まるで人間が嘲笑するかのような奇怪な鳴き声を口から吐き出した。
仁乃を冷たい水の中に沈めて起きながらまるでゲラゲラと笑っているその振る舞いは加江須の中の何かをブチリを音を立てて引き千切る。
「このくそカマキリがあぁぁぁぁぁ!!!」
自分の友人を、恩人を苦しめて殺そうとする害虫の行いに加江須の血液はまるで沸騰したかのような感覚に囚われる。怒髪天を衝く激情により全身の節々から送られ続けていた痛みは消え、さらに不可思議な現象が彼の身に起き始める。
「ガアアアアアアアア!!!」
天向けてまるで獣を連想させるかのような咆哮を上げたと同時であった。
加江須の全身にくまなく付いていたカマによる切り傷や裂傷はまるでビデオの巻き戻しの様にみるみると癒えていき彼の肉体は元の綺麗な状態へと戻っていた。
独りでに傷が治って行く事も異常な事だがさらに加江須の肉体に変化が現れる。
加江須の髪の毛はまるで雪の様な真っ白な色へと変色しており瞳は思わず見惚れる様な金色となっていた。しかしそれ以上に変貌している部分は彼の頭部と臀部にあるだろう。何しろ彼の頭部と臀部からは真っ白な獣の耳と9本の尻尾が生えて来たのだ。
目の前でまるで別の生き物の様な変貌を遂げた加江須の姿を見てゲダツは本能的に後ずさっていた。今までは自分が圧倒的捕食者だと思い込んでいたゲダツだが、今の加江須の風体を見てゲダツは自分が喰う側から食われる側へと立ち位置がすげ変わっている事を本能で理解できた。
ゲダツが本能でそう理解したとほぼ同時であった。いつの間にか加江須はゲダツの眼前まで迫っており狐火を纏った拳を大きく振りかぶっていた。
「うせろ虫けら」
拳に纏わせている炎とは対照的に凍てつく絶対零度の視線と声色を出しながら加江須は拳をカマキリ擬きの腹部へと穿つ。今までは攻撃すれば自分の拳が逆に傷ついていた筈だったが今回放った拳はもう完全に別物であった。
加江須の繰り出した拳はいともたやすくゲダツの腹部を貫いたのだ。
「キュ…ガ……!?」
腹部が肘の当たりまで貫通したゲダツは口から小さな鳴き声と共に紫色の血液を零す。そのまま貫いた腕から狐火を発火させゲダツの全身は一瞬で火だるまとなる。そのまま妖狐の業火で炙られたゲダツはすぐに絶命し光の粒となって散った。
「くそ、今助けるぞ仁乃!」
ゲダツを討伐した加江須だが喜ぶ暇もなくすぐに仁乃の沈んだ辺りの水面を見つめる。だが今はもう気泡は上がって来ておらず彼の顔色は一気に真っ青になる。
今しがた変身したばかりであるにもかかわらず加江須は9本の尻尾を伸ばすと仁乃の体を一気に水中から引き上げる。
「………」
「に、仁乃!?」
引き上げた仁乃の全身を縛り上げていた糸は完全に消えていた。恐らくは本体を討伐した事で能力で作り上げた糸も解除されたのだろう。
だが今はそんなことはどうでも良い。尻尾でくるんでいる仁乃の体を自分の元へと引き寄せるとすぐに彼女に必死に呼びかける。
「しっかりしろよ仁乃! おい、おいって!!」
体を揺さぶり懸命に呼びかけるが仁乃は瞼を閉じたまま返事を返さない。
「ふざけるな。こんな所で死なせるかよ!!」
そう言いながら加江須は彼女を引き戻そうと奮闘し始める。
懸命に何度も呼びかけ続ける。気が付けば加江須は涙声にまでなっていた。
「戻って来てくれよ仁乃ぉぉぉぉ!!」




