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静かな犬

作者: マツダシバコ
掲載日:2019/08/12

 その犬は鳴かなかった。

 まるで銅像のようにとても静かな佇まいだった。

 犬の最期は悲しいものだった。

 自分をかわいがってくれた飼い主の老人は死に、彼の子供たちは残された犬を殺してしまおうと相談した。

 犬もまた、飼い主と同様に老いぼれだった。

 首の皮は長く垂れ下がり、口元からはだらしなく涎が流れていた。

 若い頃は黒毛の美しい犬だった。

 でも、それは昔の話なのだ。

 犬は飼い主の子供たちに、棒切れで撲殺されて死んだ。

 そして、老人の眠る暮石の下に放り込まれた。

 死ぬ瞬間ですら、犬は声を上げなかった。


 次に生まれ変わったとき、犬はやはり静かな犬だった。

 番犬にならない鳴かない犬は、生まれて間もなく箱に詰められて、教会の門の前に捨てられた。

 犬は神父の忠実な相棒として、その生涯を閉じた。


 何度生まれ変わっても、犬は鳴き声ひとつ上げなかった。

 犬は声を持たないわけではなかった。

 犬は鳴く機会を待ち続けていた。

 けれど、それにふさわしいきっかけが訪れなかっただけのことだ。

 

 あるとき犬は、ここは声を上げるべきではないか、という場面に出くわした。

 けれど結局、犬は吠えなかった。

 助けを呼ぶよりも、自分で動いた方が早いと判断したからだった。

 犬は急流の中に、飛び込んでいった。

 赤ん坊は危険を知らせる警報のように、大きな鳴き声を上げていた。

 犬は赤ん坊を包んだ衣類をくわえ、赤ん坊を陸地に引きずりあげた。

 間一髪のところだった。

 一息ついたとき、若い夫婦が上流の方から駆け下りてきた。

 彼らは赤ん坊が無事だったことを知ると涙し、よろこんだ。

 衣の中で手足を動かしている赤ん坊を抱きしめ、頬ずりをした。


 犬は彼らの家で飼われることになった。

 夫婦の妻は、犬が家に来ることを内心、快く思っていなかった。

 彼女の夫が、家に犬を連れて帰ろうと言ったので従ったまでのことだ。

 

 赤ん坊を川に流したのは、彼女だった。

 夫が目を離している隙にこっそりと川に捨てたのだ。

 彼女は赤ん坊を殺したいのではなかった。

 ただ、疎ましいのだ。

 その証拠に、彼女は赤ん坊が死ななかったことにほっとしていた。

 再び、その温かいかたまりを胸に抱いた時、愛おしさがこみ上げてきた。

 しかし、時間が経って落ち着いてみると、彼女はやはり憂鬱になった。


 犬は用心深く、彼女を監視していた。

 彼女がたびたび赤ん坊を捨てに出かけるからだ。

 そのたびに犬は、赤ん坊を探しあて、何事もなかったかのように家に連れ帰った。

 時には足や腹に傷を負うこともあった。

 赤ん坊は度重なる恐怖のために、声を失ってしまった。

 

 赤ん坊と犬はいつもぴったりと寄り添うように眠った。

 赤ん坊は少し大きくなると、かわいい両足を犬のお腹の上にのせて眠った。

 少年になると、犬を背中から抱え込むように。

 そしてさらに成長すると、犬は彼の脇の下にすっぽりと収まった。

 赤ん坊は立派な青年になった。

 彼の直線的でシャープな体躯に、犬の美しい流線を描くフォルムがぴったりと沿っていた。

 

 大人になった今でも、彼らは一緒にいた。

 彼の母親はずいぶん年をとって、彼を捨てにいくことはもうなかったが、彼は未だに声を失ったままだった。

 耳は正常に機能していた。

 ただ、言葉が口から出ないだけなのだ。

 彼らにはすでに声を口に出したいという欲求は無いようだった。

 それは、十分過ぎるくらいの会話を互いに交わしているからだった。

 犬には青年の考えていることがわかった。

 青年もまた犬の気持ちを理解した。

 彼らは完全なる信頼の元に関係が成り立っていた。

 これ以上、何が必要だろうか?


 彼らは休日を居間のソファの上で静かに過ごしていた。

 窓からは暮れゆく夕日が差し込んでいた。

 彼は立ち上がると、窓辺に立った。

 犬はその後に続いた。

 間もなく窓のフレームに、一台の赤い車が滑り込んできた。

 埃だらけの古い車だ。

 車から降りてきたのは、彼の母親だった。

 彼女はトランクから、大量に買い込んだ食料が入ったスーパーの袋を取り出すと、重そうに両手に下げた。

 彼と犬は顔を見合わせた。

 それから庭に出ると母親に駆け寄って、彼女の手に持ったスーパーの袋を引き受けた。

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