「考える」って具体的に何をするのか、知ってますか?
キリトリ線の中身は、読まなくても大丈夫なようになってます。
「集めて整理し、比較して組合わせる。その中での発見を逃さないようにしつつ、可能性を導き出す。」ことこそ、「考える」という行為なのです。
ええ、御託を並べる前に、結論から入るスタイルです。とはいえ、これだけでは何のこっちゃなので、詳しく書いていくわけなのですが、その手前にちょっと、御託を並べさせてもらうのです。
「考える」という言葉は、すごく身近な存在で、しかも言いやすいし使いやすいので、けっこう簡単に言ってしまうものです。「どう思う? 考えてごらん。」って。けれど、そもそも「考える」って、何をどうするか、知らない人も多い気がするのです。
というより、知らない人の方が多いでしょう。試しに「考える とは」とグーグル先生に訊てみました。
答えは得られませんでした。皆さん「考える」という行為に対する哲学ばかりで、実際に、具体的に、どういうことをするのが「考える」という行為なのか、明確かつ簡潔に答えてはくれなかったのです。ただ、他の物事とは異なって、「考えるとはどういうことか」という問いが、すでにトートロジー(「鬼とは鬼ごっこの鬼」のような、再帰的な同語反復)で、教えてもらったか、奇跡的に気付いたか、どちらかの過程を経ていない人は解答不可能なのです。
ですから、ここに書き記しておこうと思ったのです。これからかみ砕いていくのです。
■「集める」
「集める」という行為は、例えば辞書や図鑑、小説でも良いですし、インターネットを使ったりして、情報を調べるという行為や、名探偵なら現場や関係者から証拠を得ようとするでしょうし、研究者なら実験をしてデータを取る行為のことですね。
「考える」という行為は、「情報を集める」ところから、始まるのです。逆に言えば、「情報を集め」なければ「考える」ことは出来ない。ということになりますね。これはすごく重要なことで、何かに疑問を持つにも、自分が知っていることと違うだとか、集めた情報に食い違いがある、といったことが無ければ難しいのです。
■「整理する」
「集めた」情報は、分類したり、分解したりして、扱いやすいようにしてあげるのです。この、一見すると面倒で、必要かどうかわからない行為が「考える」行為の質を高めますし、今、自分がどのくらい「考える」力を持っているか、測ることも出来るようになるのです。
実は、このエッセイを書くにあたって、事前に「考えるとは具体的に何をすることなのか」という宿題を、何人かに投げかけたのです。返ってきた答えの中に「新たに認識し直す事」というものあったのですが、私は、この言葉を「対象を見て、今までとの違いに気付き、どちらが正しいのか判断すること」と分解したのです。
基本的に「集めた」情報は、そのままじゃ使えないという場合が多いのです。初めのうちは、「集めた」情報を分解することは難しいかもしれないのですが、情報を砕いて扱えるようになると、良いのです。ちなみに、発言の一部を切り取って、あげつらってヒステリックに叫ぶ方は、この情報を分解することが出来ないことが多いですね。
■「比較する」
このあたりから、「考える」という行為っぽくなってきますね。これは例えば、「AとBという仕事の賃金が違う」みたいな、「整理した」情報の意味付けの行為なのです。
そう、ここにきて、ようやく情報に意味をつけていくのです。それは「整理した」情報のランキングでも良いですし、情報同士の関連を見つけ出すことでも良いのです。並べた情報から、何か基準となるようなものを見つけだす作業なのです。重要なことは、今まで集め、整理した情報は「既存の情報」でしかなかったのですが、この「比較」という行為によって「自ら創造した情報」が得られるようになるのです。これは、とても重要なことで、鍛えると「何でもいいから新たな基準を用意する」状態から、次第に「物事の裏にある本質的に重要な基準の発見」になるのです。洞察力が高い人というのは、前述の情報を分解できる方で、かつ、情報の比較が上手な方のことを言うのだと思うのです。
■「組み合わせる」
情報を集めて整理し、比較する行為を繰り返すと、情報のグループをいくつか持っていることになりますよね。それら情報のグループによって新たに得られた情報の、順序を恣意的に決定するのです。前後関係の模索と捉えても良いですね。この「組み合わせる」という行為と「比較する」という行為の中では、情報同士の関係が「矛盾する」ことが多々あります。そういった「矛盾」の関係にある情報の「矛盾」する部分の抽出には「整理する」行為の、情報の分解まで戻る必要があるかもしれません。
実は、この「組み合わせる」という行為は「考える」行為の中でもかなり難しい部類になります。なぜなら、これはさらに創造的な行為だからです。
料理に例えてみましょう。
今ここに、すべての食材と、古今東西の料理がすべて載っているレシピ本があるとします。フランス料理や中華料理、トルコ料理や日本料理のコースなど、その活用方法も網羅しています。
では、オリジナルの夕食をお願いいたします。
どうしましょうか。コース料理にしますか? それとも一品料理にします? BBQやビュッフェみたいな形式でも良いですよね。
ほら、難しいでしょう? 夕食を饗する方は何を好むのでしょうか。嫌いな食べ物や、アレルギーなどはあるのでしょうか。夕食に求めるものは何なのか。また、今は何曜日なのか。お酒は嗜まれるのでしょうか。わからないことが多いですよね。ですから、「考える」人が、自身で何らかの恣意的な基準でもって、情報の方向を決めてあげないといけないのです。
■「発見する」
これは、実は作業というよりは、天啓に近いものがあります。「考える」という行為を続ける中で、ある時、ふと段階をすっ飛ばして、何かを得るときがあるのです。それが「発見」です。ですから、これは意識して行うことと捉えるよりも、起きた時に大事にしたい事柄なのです。
■「可能性を導き出す」
実は今まで「疑問を見つける」ことについて、何も説明してきませんでした。普通、「考える」行為を行うときは「疑問を見つける」ことが重要だと、言われる場合があります。さて、どのように「疑問を見つける」か、ご存知でしょうか。そしてなぜ、「疑問に思わなかったの?」などという言葉で叱られるのでしょうか。
「疑問」には2種類あるのです。一つ目は「矛盾」。もう一つは「可能性」です。そう、先ほど出てきた「矛盾」、そしてここで説明する「可能性」。この二つによって「疑問」は支えられています。「疑問に思わなかったのか?」という言葉は、この「矛盾」を発見する能力が低いぞ、という指摘だったのです。
さて、この「可能性を導き出す」という行為ですが、これは普段「~~と考えられる(だと思う)。」なんて言っていることなのです。「考えられる」なら、それを検証しなくては確定しないので、「事実」ではないですよね? そう捉えると、「考える」という行為は「新たな疑問を作り出す」行為なのではないかと、感じてきます。
たぶん、それで正しいのでしょう。
「考える」行為は「答えを導く」行為だと捉えている方もいらっしゃるかもしれないです。ただ、その「答え」の正しさを「考える」だけで担保するのはとても難しいことなのです。もしかしたら「証明する」ことだって「考える」ことなのだから、「答えを導く」行為で正しいのだ、と反論されるかもしれません。ですが、そもそも「証明」とは「命題が真であるか否か」ということを確かめる行為ですから、「証明」が終われば、その命題に基づいて新たな「疑問」が現れるので、決してそこで終わり、などという事態にはならないのです。手段と目的を取り違えていなければ、このような反論は生まれないでしょう。
と、長々と書いてきましたが、元々は「考えることとは連想ゲームだ。」とか「自問自答だ。」とかを見かけまして、「それは違うでしょう?」と思ったからなのです。例えば連想ゲームは、同調圧でしかないのです。叩かれたら気持ちいいかもしれないですし、「ぴょっ!」としか思わないかもしれないのです。自問自答は、知識が無ければ解答不可能なので、考えることとは違うのです。
そして、今まで書いてきたことは、すべて小学校から何度もやってきていることでもあるのです。調べもの学習とか、あったと思うのです。ただ、その意味を何度も何度も教えられていないので、「調べる」という行為そのものが「考える」ことの起点だったということすら忘れてしまうのです。
いいですか? これから誰かに何かを「考え」させようと思っている方は、まず、「調べ方」を教えるところから始めてください。これを知ってるか知らないかが大きいのに、考えるという言葉が、あまりに一般的で、考えるという言葉を使っている本人が、よくわかってないから、曖昧なことしか言えないのです。時代を経るごとに知識はアップグレードして、さらに効率化を図れないなら、それは人類としても敗北なのですから、「考えるとは具体的に何をすることなのか」ということを、広めて欲しいのです。
----キリトリ----
実は、こういう「調べる」ことが得意な方がいらっしゃるのです。それは、アンチの皆さまです。アンチと呼ばれる方って、どういうわけか一作品だけでなく、作者を丸裸にするように、細かいところもしっかりと、すべて、たっぷりと舐め回すようにご覧になってくださるのですよ。
そして、重箱の隅を突くように、厭らしい視点で切り込んでくるのです。そういう方はいらっしゃいませんか? 私は募集中なのです。
あ、えっと、話を戻しますと、そういう方の、そういう視線ってかなり興奮できるという話は置いといても、情報を集めて精査して、かなり独自の解釈に基づいた基準で以ってまとめてくるじゃないですか。こちらの弱いところを、さらに弱くするような、ああいうの。それって、適当な言葉を並べても、罵詈雑言にしかならないから、少なくともイチャモンくらいには格上げしないといけないってわかっているからでしょうし、相手がリングに上がってきてもらわないと、アンチの方も労力を払うだけの見返りを得られないですからね。煽り文句だけでは済まさないのですよ。
だから、私の書いた小説やコメント、ツイッターの1ツイートに至るまで、舐め回すように読み漁り、私の牙城を切り崩す発言を見つけてきて、そして私を嬲りたいというような方を、愛してやまないのですから、誰かいないです?
----キリトリ----
■おまけ。
高校生や大学生の方で、これからレポートや卒業論文などを書こうと思っている方は、以下のことに気を付けて書いてみてくださいな。
「結果、明らかなこと、示唆されること、考えられることの違い。」
例えば、とある調査をしたとします。
◆結果 :平均初婚年齢が年々上昇し、出生数が年々下がっているという結果が得られた。
◆明らかなこと :それらのグラフには相関があった。
◆示唆されること:今後も平均初婚年齢は上がり続け、出生数が減少し続けることが示唆された。
◆考えられること:ワーキングプア率が年々上昇しているという別の報告と併せると、若者は生活するだけで手いっぱいであり、子育てどころか結婚することさえできないことが考えられる。または、それによる将来に対する不安から、避妊を選択しているのかもしれない。
と、このように、段階的に蓋然性が低くなっていることがわかると思います。明確に違うのは、示唆されること以降は完全に可能性のお話で、ほぼ間違いなくそうなるだろうということに対しては示唆を使い、こういう追従実験をするのも面白そうだと語るのが考察ですね。
例えばフランスみたいに事実婚が広く一般的になったから、平均初婚年齢が上がったのでは? という可能性だって、指摘して構わないのです。ただ、そう指摘したいなら、そういうデータが必要になりますよね。