47 私刑
足元に転がる物体に目をやり、アオは深々と溜息零した。黒塗りか、モザイクになりそうな、元が何だったかわからない、そんな赤黒い物体。2年間、アオが絶対殺す、と目指したモノの慣れの果て。
ソレは幽鬼のような女だった。
白い、病的なまでに白い肌はところどころ爛れ、醜く引き攣っている。足元に届く長い髪は、もともとは違う色だったのがわかるが、何色だったかはわからない。既に色素は完全に抜け、真っ白だった。頬はこけ、目は落ちくぼみ、元が美しかった分だけより恐怖を煽りそうな、そう、日本のホラーでありがちな美女が変わり果てた姿、そう表現するのが最も正しい。そんな姿の女だった。
金色に輝く雲の上に立つ神殿。その奥で、寝台に横たわっていた。沢山の輝く布が垂れさがり、影だけが見える。
「誰……?」
しわがれた女の声がする。老女という声ではない。疲れ果てた末に枯れた声。そんな声だった。「その声は、憐れみを誘う程」自分が小説に記すならまさにそれだろう、とアオは考える。
声には答えず、アオはゆっくりと近づく。
誰、と声が再度問うが答えない。影がゆらゆらと揺れながら起き上がった。長く骨ばった手がゆらりと伸び、寝台との境界になっている布を払う。
幽鬼のような女が姿を現した。まるで生気のない目が揺れ、室内をゆったりと見渡し、近づいてくるアオで止まる。上から下まで見るその動きは緩慢で、アオは10歩以上近寄っていた。
くつり、と女が皮肉げに口許をゆがめた。
「ほんと、嫌な女達。わたくしがこのような姿になったのを笑いにでもきたのかしら? それとも、現状最も力を削がれたわたくしを傘下に収め、発言権でも増そうというのかしら? まぁ良いわ。誰の使い? ベレヌスお姉さま? それともロウヒ? あの人たちってば嫌がらせをするためだけに醜い使者を創るのよね……ホント、不愉快だわ……そんな醜い顔でわたくしの前に立たないで。それだけで気分が悪くなるわ」
鬱陶しげに呟く。今まで虚ろだった目には忌々しそうな光。不快そうにひそめられた眉根。ただでさえ幽鬼のような女だ。迫力だけはどこかの皿屋敷よりもあるのではないのだろうか。
しかし、何を言っているのだろう、と首を傾げる。アオは誰の使者でもない。そんな事も分からないのか。それとも女神とは盲目なのか。そのような疑問が駆け抜ける。しかしその間もアオの歩みは止まらない。
「止まりなさい! 貴方ごときがわたくしの寝室にいることさえも無礼に値するのよ! ふん! こんな無礼、お前、ロウヒのシモベね? 礼儀知らずの妹らしい。シモベの躾さえもできていないなんてね」
「お前はさっきから何を言っているんだ? 私は誰の使者でもシモベでもない。あえて言うなら、私自身の使者だ」
淡々と答えながら、女の間近まで歩み寄った。
見下ろせば、忌々しげに睨みつける目。醜い顔だな、と素直に思い、そのまま口にした。途端、女の顔が怒りに歪む。けれども、女は怒鳴りつけたりはしなかった。
「お前ごとき下等な存在に何を言っても無駄ね。そんなことより、さっさと言伝でも言ったら? お前の存在理由なんてその程度。お前達シモベはたった一つの用事を伝えるためだけに創り出され、消される存在。さっさと用事を済ませて消えなさい。わたくし、醜いものは嫌いなの。見るのも嫌。生きていると考えだけで虫唾が走るわ。醜いものに生きる価値なんてないの。早く消えて」
「随分勝手だな」
アオは目を細める。黒いざんばらな前髪に隠れた目が細められたところで、女は気づかない。
「勝手? わたくしは水の女神なのよ? わたくしの言は当然の言葉。はぁ……あなたのような下等な存在に言ったところでわからないのでしょうね」
「わからないし、わかりたくもない。バカの考えなんて」
「バカ? バカですって? このわたくしが?」
眉尻が跳ね上がる。
表情も感情も豊かで、目の前の存在が神だとは思えない。まるで同じ人間を相手しているようだった。
「バカをバカと言って何が悪い。お前は身勝手で我儘でバカなガキだ」
「本当に礼儀のなっていない……いえ、この件を盾にロウヒを責めるのも一興ね。ほんと、愚かなシモベを創ったものねぇ……」
「バカなうえに耳が遠いのか、老化で記憶力が低下しているのか……救いようのない女だな。いいか、もう一度だけ言ってやる。私は誰の使者でもない。あえて言うなら、私自身の使者だ」
「何を言っているの?」
理解不能な事を言うアオに、女は顔をしかめた。しかし、見下ろすアオの顔に表情はない。ないように見受けられる。少なくとも、女から見える鼻から下の顔には。
「わざわざ本来の姿できてやったというのに……たった2年しかたっていないぞ? それで忘れたのか?」
女の胸元を無造作に掴み上げる。
軽かった。
抵抗を想定して強めに引き寄せたその体は、骨と皮だけだからだろうか、兎に角軽かった。おかげで勢いのあまり、無理矢理引き寄せ、頭突きをした形となってしまった。
女が痛みに呻く。アオも痛かったがぐっと堪える。それだけ間近でアオを見ても、女から怪訝な表情は消えない。覚えていないのだ、と気づく。もしくは、アオを認識していなかった可能性がある。一度、人の胴体を真っ二つにしたくせに。
苛立ちが募る。
拳を握りしめた。
「お前が召還した勇者様だ。宣言どおり殺しにきてやったぞ」
「!!!??? ひ、ひぃいいいっ!!!」
極限まで開かれた目。恐怖に彩られ、せわしなく眼球が動いている。
幽鬼のような女の顔に浮かぶ恐怖は、壮絶なホラーのようだった。
もうこれ以上の会話はいらない。そう判断した。だから、握りしめた拳で女の顎を全力で殴る。これはギルからの教えだった。手に武器もなく戦う時、相手が人型且つ、自分の2倍までのサイズの相手なら、まず、顎か目を狙え、と。男なら股間でもかまわないが、男でも女でも、目や顎ならば間違いなく戦闘不能に落とせる箇所。ただし、目は多少の技術がいるので、素人のアオでも一発入れやすい顎を推奨された。
別に武器を持っていないわけではない。ただ、アオが女神を殴りたかっただけ。それだけの理由で武器ではなく、拳を振るった。
下から斜め上に向かって全力で顎を殴り上げる。それだけで脳が揺れ、相手は立っていられなくなる。もしくは正常な判断ができなくなる。視界も揺れ、戦闘の続行は不可能。あとは、相手が回復魔法等で意識を取り戻す間を与えず、ただひたすらに殴れ。主に頭を。それで100%勝てる。
そう聞いた時、それは勝つというより、殺すというのではないのだろうかと思ったが黙る。どうせ自分は殺すことにためらいがない。確実に勝つ、という事と、殺す、ということに大差を感じなかったのだ。
女神がよろけたところで突き飛ばし、寝台に伏せればその上に馬乗りになった。
ギルの教えどおりに両手で、全体重をかけ、殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。
女神が必死になって両腕で頭を庇えば、その腕ごと殴りつける。腕が折れ、だらりと垂れさがれば再び顔を、殴る。
殴る。殴る。殴る。殴る。ただひたすらに殴る。
ごきり、と音がして白いものが飛んだ。それが女神の歯だと認識する前に次の一撃を。再び白いモノが飛んだ。
気にしない。
鼻が折れ、醜く歪む。そんな事になんの感情もわかない。それよりも、女神が鼻血女かよ、と思わず笑いが零れた。
続けて拳を振るう。ごがっと音をたて、顔が変形する。あごの骨が、頬の骨が、折れ、みるみる顔は腫れあがり、見るに堪えない顔になっている。それでも流石は女神なのか、それとも、人間でもこの程度、まだ耐えられるのか、げぶ、とか、ごぶ、とか歪な音のような呻き声と、ヒューヒューと荒い呼吸が繰り返されている。
そろそろ拳が痛くなってきた。治癒Lv1をかけて癒す。そして再び拳を振るった。
まだ女の顔と腕以外は傷一つない。血まみれで醜く歪んでいるのは顔と、それを庇った腕だけ。それでもただひたすらに顔を殴り続け、やがてその体が失禁し、痙攣しだしてようやく顔を殴るのを止めた。
最早どんな顔だったかもわからないほど腫れあがり、変形した顔。血と痣塗れで汚い。だがそれでアオが止まるわけない。白い髪を掴み、寝台から引きずり下ろす。まるで投げ捨てるように床に放り出した。
どさりと落ちた体は、一度僅かに震えただけ。ヒューヒューと聞こえる呼吸音がなければ、生きているなどと思わないだろう。そんな状態の女神に、アオは全力の蹴りを入れた。
能力向上を使い、強化した身体。それで繰り出す蹴りは、女の身体を宙に浮かせる程強かった。
ポンと上がった体は拳で叩き落し、再び蹴りを入れる。踏みつけ、踏みにじり、骨をへし折りながら息が切れるまで殴り続けた。全く動けない者相手に悪いとか、そんな気持ちはない。ただただ表情を変えることなく、淡々と繰り返す。
アオの呼吸が乱れた頃、足元には赤黒い肉の塊があった。それは、元が何だったのか想像するのも難しい塊。それでもアオは、どこが首か理解していた。既に事切れて久しいソレの、何かを掴み上げる。元は白かったのだろうそれは、ところどころ白いところを残してはいるが、その多くは赤黒く汚れている。
髪。
女神の髪を掴み、持ち上げた。ついてくるように持ち上がった頭を確認し、辛うじて顔かな? というそこから少し下へと視線を向けた。先程奇妙な方向へと曲がっていたそこに、ストレージから取り出した魔剣を押し当てる。ゆっくりと手を引いた。
素晴らしい切れ味を誇る、日本刀のような形をした魔剣。それはアオの望みを叶え、首を落とした。
アナライズでずっと確認をしていた。女神が何かと入れ替わったり、と逃げていない事は確認済みである。
ふぅ、と零れる溜息。血まみれの魔剣を持った手で、顎の下に垂れた汗を拭う。ようやく、アオの復讐が、望む通りに果たせた瞬間だった。




