39 昔話
蒼は無口な子供だった。聞けば、赤ん坊のころからあまり泣かない子供だったそうだ。不快感や、空腹で泣くことも少なく、母は気が抜けなかったという。それはそうだろう。子供――赤子とは言葉を持たない。故に、泣くことで自分の気持ちを伝えるのだ。
オムツの中が不愉快な状態なら、泣く。お腹がすいてミルクが飲みたいなら泣く。抱っこしてもらいたくても泣く。兎に角、泣く。それは当然で、当たり前な事。母親はその泣き声を聞いて、子供の気持ちを察する。しかし、蒼は殆ど泣かない。静かな子供だった。
最初のうちは大変心配していたが、既に2人の子供を育てた経験があるせいか、蒼が泣かなくても、だんだんと蒼の状態を先回りして察せるようになった。父親や兄達も母の姿を見、だんだん蒼の事を理解した。
泣かなくても可愛い娘――兄にとっては妹――。目に入れても痛くないほど可愛がり、沢山話しかけ、触れ、甘やかす。そのせいか、少々無口な子供になってしまった。それでも短い単語や視線だけで家族はわかってくれる。更に無口に拍車がかかったのも仕方のないことだったのかもしれない。しかし、それは家族間であれば問題なかったが、世の中とはそうもいかない。
保育園、幼稚園はまだ、周りも幼すぎてそう大した問題はなかった。いや、あったが、子供が大声で癇癪おこし、大人が早期に発見できたのだ。小学校からが問題だった。知恵のついた子供たち――主に女子――は、集団で蒼を取り囲み、悪口を言ったり、見えないように手を出す。蒼の持ち物を隠したり捨てたりするのも日常だった。教師は自分のクラスでいじめが起きているのは困る。大人数であるいじめっ子達の方を選び、蒼を否定した。
大人で、クラスを支配している教師が味方に付いた。その事実に子供達はますますエスカレートする。この頃を境に蒼の生傷が絶えなくなり、道具の紛失が続き、着て行った服を汚して帰ってくるようになった。それでも教師は見て見ぬふりをする。
怒り狂ったのは蒼の家族。
腫れた頬を、擦りむいた手足を、鼻血を、隠しもしないで帰ってくる蒼。本人は気にしていないらしいが、大切な娘が、大好きな妹が、傷つけられて黙ってなどいられるわけがない。
兄達は徹底的に相手を調べ上げ、その情報を基に両親が笑顔で作戦を立てる。所詮大人と子供の知恵比べ。いや、比べにさえなっていない。大人による子供の蹂躙。しかし、実行しているのは蒼の兄二人。子供同士の喧嘩でしかない。
まず、両親はいじめの現場と、担任の言動を証拠として、音声映像に記録するよう兄達に助言した。そして、高性能の小型カメラ――携帯電話ともいう――をそっと手渡す。兄達はそれをいい笑顔で受け取る。今時子供だって携帯電話を持つのは当たり前だ。子供を狙った犯罪から子供を守る為、登下校を心配する親が持たせるのだから。――残念ながら、そういったアプリは一つもなく、機能も備えていない携帯だったが、その代わり、カメラの性能が最も良い機種だっただけで。
兄達は一月かけ、証拠を集めた。
集められた証拠を見た両親は警察に通報しようとしたが、兄達がなんとか押しとどめた。可愛い蒼の仇を自分達の手で討たず、他人に任せるなどありえない、と。その兄達をも止めたのは蒼自身。
必要ない。そのたった一言で止めた。
でも、と言い募る家族を、齢7の子供が止める。
「必要ない。反応するのを待ってるらしいから、反応しなければいい。ただ、皆が心配なら、ちゃんとやり返す」
「大丈夫なの? 蒼」
「大丈夫。とりあえず、先生黙らせるからそれ、音だけ頂戴」
兄達の集めた証拠動画。何に使うのかわからないが、父がすぐにダビングする。
「お父さんたちに手伝えることがあるかい?」
「大丈夫。これ、すっごく助かった」
くふふふ、とにんまり笑う蒼。おおよそろくでもない使い方だろうと想像つくが、父はいい笑顔を浮かべた。
「そうか! それは良かった。もし、他に何かあったら、いつでもお父さんをたよるげふっ」
言葉途中に全力の笑みを浮かべた母が、父の脇腹に強烈な肘鉄を入れる。そして、思わず真横に吹き飛ぶように倒れた父には目もくれず、蒼を振り返った。
「蒼ちゃん。パパもいいけど、ママの事も頼ってね? 口での口撃なら、ママの方がぜぇったい、役に立つわぁ」
うふふ、と笑う母に蒼はしっかりと頷く。そんな蒼を左右から取り合うように抱きしめるのは兄達。
「父さんと母さんは大人だから僕達より役に立つけど……」
「俺達だって役に立つからな!」
「大丈夫。兄達が格好よくて強いのは知ってる」
そう言えば、もっちゃりと抱き着いて離れない兄達が、嬉しそうに、照れたように笑う。可愛い妹に強くて格好いいと思ってもらえているのがとても嬉しいのだ。何しろ、蒼がこんな状態なのに、まったく何も出来ていなかった。役立たずなうえ、格好悪い兄像になっていないか心配だったのだ。だが蒼は知っている。この動画を撮る為に、兄達が授業中等々抜け出し、懸命に、確実に、証拠を集めていたのを。自分の為に頑張ってくれる兄達を格好悪いなどと、誰が思うのか。そんな事を思う奴は、最低だと思う。
蒼の事を心配する家族にもみくちゃにされた翌日、蒼は報復を始めた。といっても、特に何もしない。あえて言うのならば、『何もしない』それが報復。自分に突っかかってくる全員を、いないものとして扱った。
取り囲んでくるなら、敢えてぶつかりながらその囲いを抜ける。まるで、目の前の存在が見えないかのように。教師が授業中に指名しても、まるで聞こえないように。何もかもを無視した。
当然、教師は蒼を呼び出す。職員室で蒼の態度を詰った。
アオは平然と教師の言葉を聞き流し、ゆっくりとポケットに手を入れる。取り出したのはテープレコーダー。小さな手が、そっと再生ボタンを押す。
響き渡る子供たちの声。
蒼を障害者と断定し、そうであることを罵るのが当然といった様子で紡がれる言葉。大変に不愉快な言葉が得意げに子供たちによって怒鳴り散らされている。
ぎょっと目を見開く教師。
『てゆーかぁ、せんせーあそこにいるのに止めないってことは、せんせーもそう思ってるんでしょ?』
『そうだよー。青木先生、マリ達が日下ちゃん叩いてるの見てたけど、何も言わなかったもん! マリちゃぁんと、先生が見てたけどあっち向いたの見てたんだから!』
途中でアオが音量を調節し、職員室中に響き渡った。当然、職員室にいた教師の全員が蒼達を振り返る。担任である青木の顔色は真っ青だった。そんな青木に、蒼は首を傾げる。
「先生が私を無視するのに、私が先生を無視したら怒るのは何故だ?」
純粋に、真っすぐに見つめる双眸。提示られた疑問。子供からの質問に、教師である青木は答えねばならない。しかし、答えられない。答えられるはずがない。淡々とした蒼に怯える青木。しかし、救いは別な場所からあった。
近づいてくる蒼年の男。教頭の松田。松田はさっとテープレコーダーの音声を止め、取り上げた。
「学校に不要な物を持ってきてるようだね。これは没収だよ」
「教頭先生……!」
思わぬ救いに、歓喜して声を上げる青木。しかし、蒼は平然と頷いた。
「かまわない。それはダビングだ。動画は、家にあるから」
「ど、動画!?」
「父さんたちも見ている。そちら次第、と伝言も預かったぞ」
とんでもない事実に、青木は再び顔色をかえ、教頭は顔をしかめた。そして、伝言内容に、内心頭を抱えた。
「それで? 先生は私を無視するのに、私が先生を無視すると怒られるのは何故だ? 私は先生がやっているようにやっているつもりだ」
「そ、それは……」
救いを求めるように辺りを見渡すが、既に職員室にいた他の教師達は、次の授業が、と言って逃げ出していた。まだ残っていた教師も、トイレだなんだと言い訳を並べて外へ出ようとしている。
「これは、青木先生の問題なようですね。青木先生、子供からの質問に答えてあげてくださいね」
「きょ、教頭先生……!」
蒼を黙殺はできない、と判断した教頭は、青木に全責任を擦り付ける。いや、もともと青木のとった行動が問題なのだから、自分達は関係ない、そう判断した。
青木の初手の判断は、ある意味学校としては正しかったはず。いじめが自校であっては自分達の評価にかかわる。だからこそ、教頭はテープレコーダーをとりあげたのだ。証拠を握りつぶそうと。握りつぶしてしまえば青木の行動を褒めるつもりだった。
子供だから取り上げられる場所に出してきた。親が騒いでも、中身を消して、そんなものはなかったと言ってしまおうとしていた。しかし、それが無駄だと知った現在、教頭は青木を切り捨てる決断をしたのだ。問題になったら青木の独断だった、自分達は報告されていなかった、と矢面に立たせる。そう決定して。しかし、教頭は気づかなかった。そっと隠れて動画をとっている子供の存在に。蒼が職員室に呼び出されたのを知ってすぐに駆け付けた、直ぐ上の兄。教師達に見つからないように死角に隠れ、ずっと動画を撮っていた。もし、何かあったら、間違いなくこの動画が火を噴くだろう。
「先生。教えて下さい。どうしてですか?」
蒼は一歩にじり寄り、尋ねる。席に座っている青木に逃げ道はない。なんの感情も見せないその眼が、ただただ青木を見つめている。
誤魔化しが効かないという極度の緊張と、教頭に見捨てられた絶望に、呼吸が乱れ、ヒュ、ヒュ、とせわしなく零れた。早く何か言わなければならないのだが、自分の所業を正しく理解している子供が、純粋にぶつける疑問。子供達に教える立場として教壇に立つ者として、沢山の目に見つめられてきた。質問を受けてきた。その中で、初めて子供に、質問に、畏怖した。既に教師として教壇に立って20年以上。子供を甘く見ていたのかもしれない、とその時初めて知った。
結局青木は蒼に答えることができず、答えられない以上、蒼のすることに文句を言う資格はない。そう断言され、それを受け入れざるを得なかった。教頭もまた、自分達の立場が危うくなる危険性があるため、蒼達の事に関わる気はない。むしろ、蒼が勝手に解決するならその方が良いだろう。
教師たちが目をつぶったので、蒼は全力でクラスメイト達を無視した。叩こうが引っ張ろうが、道を塞ごうが、耳元で喚こうが、まるでいないものとした。存在しないかのように扱われ、かまって欲しいだけの子供の精神がいつまでも続くわけもなく、大泣きし、自分の親たちに訴えた。
家に押し掛けた親たちは、蒼の母親に、どうぞとリビングに通された。そして、BGMならぬ、BGMとして、自分達の子供達の所業を流されながら、何か御用? と笑顔で尋ねられ、引きつった笑みを浮かべ、あやふやに言葉を濁し、逃げ帰る。そして、家に帰り、恥をかかされた、と自分達の子供達に対し、怒った。
蒼が大人に怒られると思っていた子供たちは、何故ひどい目にあったはずの自分達が叩かれ、怒鳴られるのか理解できない。けれども、証拠を押さえられ、問題となったときに勝ち目がない事を理解している親から、蒼と関わるなときつく言われ、困惑する。だが、やるなと言われてやめられないのが子供。当然、蒼へのいじめは続いた。しかし、そのことごとくを無視され、また、担任が自分達の行いだけでなく、蒼の行いさえ見て見ぬふりをするのに気づいたとき、自分達の味方ではないと気づいた。そして、一人、また一人と蒼から手を引く。結果、一年が終わる前に、蒼は蒼以外を、蒼以外は蒼を、いないものとして扱うようになった。
担任の青木はこれに困り果て、蒼の自宅を訪れるが、両親に笑顔で撃退される。心労の果て、担任を持ち上がりで、と学校から押し付けられ、身体を壊し、春休み中に入院した。退職願を提出したが、どうしても青木に押し付けたい学校側の意向で受理されなかった。結果、青木は姿をくらました。困ったのは学校。何事もなければ良いが、何事もないわけがない。頭を悩ませ、新任の教師に押し付けることを決定した。おかげで、蒼の通う学校は毎年教師が姿をくらます、と曰く付きの学校になってしまったが、蒼はあずかり知らない話だった。
蒼は家族が大好きだ。いつだって、蒼を愛してくれる。蒼の為に全力で行動してくれる。無条件の愛情を与えてくれる家族。家族がいれば他はいらない。そう言えるほど、家族だけが大好きだ。それ以外の人間がどうなろうとも知ったことではない。何をしようとも気にならない。蒼の判断の基準は、あくまでも家族がどう感じたか。ただそれだけ。家族が悲しむなら、悲しまないように。家族が怒るなら、怒らないように。その対象を潰すだけ。
家族さえ笑っていれば、それでよかった。そして、家族もまた、自分の家族が幸せならそれで良いという極端な人間の集まり。蒼の思考が修正されることはない。




