16 常識の違い
60階も踏破し、後方にも前方にも誰かの気配はなく、気持ち良く先へ進む。61階から突然景色が変わったことも、アオの気分を上げていた。
正直なところ、1階からずっと、青いような石の壁、少し薄暗く、ただただ淡々と続く、まるでどこぞの古の都のように、碁盤目状に区画整備されたかのような迷路。単調で、アオが自分で、紙にマッピングしてみてはいるが、直ぐに方角を見失っては、ギルに訂正されていた。
どこぞの古の都のように風情があり、美しいと思える景色でもあれば別だが、華も何もない石壁だけで気が滅入りそうだった。いっそ魔王に筆等を送ってもらい、絵心はないが、落書きでもしてやろうか、とさえ思ったくらいだ。
61階からは、突然ジャングルになった。木々が生い茂り、草木が歩くのを邪魔している。天井が異様に高く、下った階段とは距離が合わない。だがそれは、ダンジョンの仕様だと言われれば、この世界を知らないアオは納得するしかない。
空ではないが、白っぽい光を放ち、まるで天井自体が巨大な白色灯のようだ。木々の隙間から光が差し込み、ちょっとしたジャングル探検に、外の景色に飢えていた(頭の中身が)お子様な二人がご機嫌になるのも無理はない。
シズカが送ってくれる食事も、肉ばかりで疲れてきたというのも、昨今の気分低下の要因かもしれない。最もそれは、アオ達が肉しか渡していないのだから当然なのだが。それでも大量の肉は、アオ達で消費するには難しい量で――例え美味い料理ならギル以上に食べるアオがいても、本来の姿はグリフォンの為、ギルの四倍は食べるのが普通のグズがいても――一年で食べきれない量を既に送っており、調理してもらった量も驚きの量。余った肉は魔王城で使ってもらっている。そのお礼か、近頃は菓子がついてくる。材料の関係か、クッキーやマフィン系が多いが。
「あぁー。……ゼリー食べてぇー……」
「ゼリー? アオはあんなん食べるんすか?」
驚きに声を上げるグズ。顔をしかめ、何か信じられないようなものを見る目。それもそのはず。この世界でゼリーと言えば、スライムの魔物バージョン。
スライムなら魔族。意思の疎通ができ、文字を読むこともできる。知性のある一種族を指す。見た目は緑色の水ようかんのような半円形で、子供の掌サイズ。ぷるんとした何とも言えない可愛らしいフォルムをしている。動く時も這うような動きもするが、ぽいんぽいんと跳ねる姿も愛らしい。最も、トイレ関係の話を聞いているので、絶対に触れたいとは思わないが。
しかし、ゼリーは魔物。知性はなく、プラナリアのように動く者に襲い掛かり、体内に取り込み、溶かして捕食する。不定形で、常に酸のようなものを出しており、燃やす以外で倒す方法はない。見た目もどろりと腐った卵の中身のように垂れ、這いずりながら周りを巻き込む姿は、どう贔屓目に見ても醜い。
ゲテモノ喰いか、という表情にアオは手を振る。
「違う違う。私達の世界にはゼリーという名前の食べ物があるんだ」
「食べ物? ゼリーが?」
「そうそう。ゼラチンてのが必要だから、この世界にはないんだと思うけど……プルプルしてて、冷たくて、甘くて美味い。同じ系統にプリンもある。食べたい」
「ほへー……なんすかそれ。なんか美味そうっすね!」
「美味い。滅茶苦茶美味い」
食べ物の話となると盛り上がる(見た目)子供の二人が、きゃっきゃと楽しげに話している。
アオの世界の料理がうまいのは、シズカが証明済みなので、異世界の料理に、グズは興味が尽きないのだ。アオが語る異世界の料理にはすぐに反応を示す。そして想像を膨らませるのだ。
アオ自身には料理スキルが一切なく、放っておくと肉さえ生で食べかねない。ニンジンはまだしも、ジャガイモにさえ生の状態にかぶりついたのを見た時には、流石のギルもあせった。何が生で食べられて、何が食べられないのか、それさえも分かっていないのだ。異世界とはいったいどういう教育がされているのか、ギルが悩むのも無理はない。
この世界では一般的に、4~5歳から働き始める。村なら畑と家畜の世話。町なら畑か店の仕事。都市や王都なら店の仕事や士官。生活に必要な知識は3歳から学び始める。食べられる物とそうでない物。魔物の脅威。夏や冬の過ごし方。日々の生活から学んでいく。そんな当たり前の知識がない異世界人。
疑問に思い、異世界の話を聞いたギルは瞠目した。
赤子は、ほぼ自宅で生まれることがなく、病院、こちらで言う診療所、で生まれ、一定期間はそこで管理される。母子ともに自宅に帰れるようになると、親が働くため、親の両親に面倒を見てもらったり、保育園、幼稚園に入り、集団生活を学び始めるのだとか。集団生活の基本や行動の仕方を、運動や音楽で学ぶらしい。そして6~7歳になると小学校というところに入る。小学校が6年間、その後中学校に3年間。この間は義務教育といい、学校から逃れられないのだとか。15歳までは働くこともできず、ひたすらに勉学に励み、義務教育が終わったからと言って、15歳では殆ど雇ってくれる場所もなく、高校というところに3年間学びに行くのが基本だと聞いた時には、流石に頭を抱えた。知識を吸収できるのは子供時代が殆ど。その間に仕事を覚えなくてどうする、と。
言葉なんてものは、日々の生活から学べる。わざわざ学校で習う必要もない。古語を学ぶ必要なんてどこにあるのか。知りたい者だけが学べばいい。そもそも、一つの世界で数多の言語があることさえ理解できない。文字も言葉も一種類ならば、どこに行っても、誰とでも言葉が通じて不便がないではないか。何故わざわざそんな面倒な状態を放置しているのか、ギルから言わせてもらえばさっぱり理解のできない世界だ。
算数に数学、計算方法を学ぶことが悪いとは言わないが、この世界において、殆どの人間が必要としない。殆どの平民は数さえ数えられれば生きていける。計算が必要なら、その時に学べばいいし、仕事をしながら覚えていけばいい。学ばなければどうしようもないのだから、自然と身に着くものだ。アオから聞いた円周率だの三角関数だの、なんだ、それ、である。一体人生のどこで使うのか、ギルには皆目見当もつかなかった。
社会? 論外である。世界情勢の殆どを知らなくても、人は生きている。殆どの人間にとって知っておくことは、魔物は脅威で、人族と魔族は争っている、という事実のみ。戦争がどの場所で行われているのかさえ知っておけば、ほぼ問題はない。自分の住んでいる場所のルールなんてものは、生活さえしていれば、わざわざ学ばなくとも理解しているはず。変更があれば、都度、領主なり、王なりがおふれを出す。他の町や都市なんて、入り口で衛兵が犯罪になることを注意するし、そもそも、犯罪になることの多くは、わりと世界共通なことがおおい。人殺しはダメだ、とか、盗みはいけません、とか。歴史も専門の者に任しておけ。一般人は知らなくても生きていける。
理科については最早意味不明である。炎色反応、リトマス紙、そんなもの、どれほどの人間が生活で必要としているのか。ギルの結論として言わせてもらえば、必要ない。この一言につきる。塩水につけた塩の塊は、時間を賭ければ大きくなる。そんなこと必要な知識なのか。理解に苦しむ。塩なんて、塩水を火にくべれば手に入る。それの程度の知識で十分だ。卵をわざわざ浮かせて何になるのか。
その他にも音楽や美術、保健体育といった謎の科目もあるらしい。それらに関しては、金持ちの嗜好。お遊び。ギルにとっては聞く価値さえなく、右から左へと流してしまった。
そんなくだらない事を、何故高い金を払って学んでいるのか、ギルには理解できなかった。それでいて肝心な食べ物に関して教えていない。否、家庭科という勉学があり、そこで裁縫や調理の基礎知識を学ぶ、とは聞いた。だが言わせてもらおう。それは親の仕事ではないのか? 異世界の親は随分と楽しているんだな。子供の世話をまるっきり他人に丸投げか、と。しかし、それでも子供を連れた親に優しくない世界と、言われていると聞いた時には、開いた口がふさがらなかった。子供を他人に丸投げして許されているのに何故、と。
曰く、子供が泣くと文句を言われ、子供を連れて行くと顔をしかめられる。子供連れなのに椅子を譲ってもらえない。ベビーカーなる乗り物に子供を入れて押していても道を開けてくれない。子供の声や足音で殺人事件が起こる。等々の不平不満が詰まった世界だと聞き、呆れた。その程度! と。
子供が泣くのは仕事だ。顔をしかめる理由がわからない。顔をしかめられる場所とはどこだと聞けば、電車――ここでは馬車だと思ってほしいと言われた――の中や、診療所、音楽や劇の舞台とか様々な場所だとか。馬車の中なら子供の仕事なのだから、不快に思う理由がわからないし、舞台だと聞けば、よくそんなところに行けるな。異世界人は皆王族か貴族か? という疑問しか浮かばない。そして、そんな場所に泣くのが仕事の子供連れて行くな、と思った。あれだけ他人に丸投げしているのだから、その時も丸投げしろよ、と思ったのだ。
椅子やベビーカー、殺人のくだりは理解不能。そんなもの、そもそもが人となりの問題であって、社会に対する不満になるのか、と。ギルの感覚では、弱い立場に譲るのは当然だし、また、譲ってもらうのが当然と思うのも、どういう心理状態なのか。当たり前ではなく、他人の心に感謝して然るべきではないのか、と。更に、子供の声や足音で殺人になるなら、そんなものは大人の話し声や道を行きかう人間の足音でも殺人になるのでは、という疑問。それなら何か考えるだけ無駄。子供があまりに騒ぐのを諫められない親というのも謎だ。それは親の仕事を放棄しているのか、それとも、親ではないのか。
色々な疑問や感想は、所詮は異世界、と飲み込み、重要なことを尋ねた。
「お前、料理とか習ったんだよな? なんでできないんだ?」
不思議そうに首を傾げられた。
「習ったらできないといけないのか?」
純粋な質問に、いや、と思わず口ごもる。ギルもできないのであまり強く言えない。かろうじて火は通せるが、食べられるときに、食べられるものを、とりあえず食べる、という生き方をしていた。味付けを考えた事はない。腹に入ればいい、くらいの気持ちだ。美味しければ勿論そちらが良いが、影であるギルは、基本任務に赴いており、食事に関してはあまり頓着できていない。必要とあれば、飲まず食わずでも10日は常と変わらない動きができる。そんな事をした後に食べれば、味付けもされていない素材そのままの味も、ごちそうに等しい。なので、料理に関しては、とくに習おうとしなかった。
学ぼうとさえしなかったギルに、何か言うことはできない。
「……私の通った学校では、調理実習はほぼなかった。7~18歳の間にあった実習は全部で5回だ。小学で2回、中学で2回、高校で1回。それ以外は基本筆記。実習は5~7人のグループにわかれ、それぞれが分担して作業する。私の主な作業は洗い物だ。食材と、使った器具の洗浄を担当していた」
実際に調理現場に立った回数の少なさにも驚いたが、内容にさらに驚く。それでは料理はほぼ何も学んでいないと同じ。だからこそできないのだ、と。
「そもそも家庭科は進学には関係の科目だったから、殆ど寝てた」
「お前、何しに行っていたんだ?」
「特に考えた事はない。何となく、かな。行かないといけないから行って、とりあえず、行った方がいいから行っていた。勿論、そうではない者もいたが、多くの者が私と同じだったんじゃないのか?」
無駄金、という言葉が一瞬口をついて出かけるが、飲み込む。頭の中で所詮は異世界という言葉を繰り返し、遠くを見た。そして、きっとそんな考えでいたのは少数だ、と自分に言い聞かせた。
「……異世界というところは、面白いところだな……」
疲れたようなため息交じりのギルの声は、ジャングルの中に霧散した。
次回更新予定日は2018/08/27(月)です。