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「これ懐かしいね」
「ああ~この本よく読んでたな」
「見てみて樹、こういう本もあるよ」
「きてきて奏多、宇宙関連の本がこんなにおいてあるよ」
「こっちこっち樹、見て、いかがわしい本がいっぱい」
久しく訪れていなかった夢・未来堂書店は彼女の直観通り、開店していた。店内に迷いなく入る。やはりというか当然というか人気は少なく、どこか現実から切り離された異空間のように感じた。店内に埋め尽くされている本たちは大晦日の静寂のせいか穏やかに眠りについているようにも、主をじっと待っているようにもみえる。いくつかの新刊を手に取り彼女と一緒に店内を見て回った。
初デートの場所が書店というのもなかなかロマンチック感に欠けると思うが、付き合い始めた当初、彼女が「橘さんの事いろいろ知りたいので、映画とかデートスポットとかじゃなくていつもいくところを教えてください」というものだから、僕がよく出かけている場所に行く、というのが最初のデートになった。
「奏多は何か本買わないの?」
「うん。樹が読んだ本を借りるからいいの」
彼女も本を読む、が断然僕のほうが読書量が多い。お互い仕事をしている。けれど比較的仕事に追われていない僕のほうが自分の時間を作りやすいのだ。だから、彼女は僕より読書量が少ない。それでも彼女は僕が読む本に興味を持ってくれる。彼女も本を愛する一人なのだと、嬉しくなる。
「そいえば」と僕が会計を済ませ店を出ようとしたとき彼女は何かを思い出したのか踵を返すと店の奥へと小走りした。僕は後を追いかける。ついた先は「旅行」をテーマに扱ったコーナーだった。
「今度、有給使ってゆっくり旅行でも行きたいと思ってさ」
陳列されてる旅行に関する雑誌類を眺めながら、彼女は微笑んでいた。その旅行のお供するのは言わずもがな。と思いたい、から確認する。
「誰といくのかな?」少し意地悪に聞いた。
「内緒~」と言って彼女は舌をだして悪戯な笑みを浮かべる。
「えっ!? 僕とじゃないの?」不安が押し寄せ情けなく確認する。
「他の人と行って欲しいわけ?」
「まさか!」
「あとで候補地を検討しましょ」
ああよかった。僕のことを考えてくれていたんだ。温かいものがじんわりと広がる。
夢・未来堂書店を出たあと、次は何処へ行こうかと二人で頭を悩ます、ことはなく、自然と足は行きつけのあるお店へと向かっていた。初デートの夜、最後に訪れた「bar和子」である。オカマのママが切り盛りする人気のbarだ。初めて彼女を連れて行ったとき、彼女は相当訝しんだ、と付き合ってしばらくしたあとに告白された。僕が実はそっちの気があるのではなかろうかと。いやいや、僕は女性(しかも君)が大好きだよ、とすぐさま反駁した。これでもかというくらい言葉にして、どれほど君を想っているかということを伝えた。伝えて伝えて伝えすぎて(何度も同じことを繰り返していたけど)「もうわかったから」と彼女の方がたじろぐほどだった。最初の頃はそんなんだったなあ、と懐古しながら歩く道のりは二人だけの世界に染まっていた。人気がない道をぼんやりと街灯が照らす。オレンジ色をしたその光は、夜の闇を朧げに照らしつつもきちんと温かみを孕んだ落ち着く色合いをしている。
「奏多」突然の僕の呼びかけに彼女はビクっと身を震わせた。
「どうし・・・・・・」
言葉を遮り僕は彼女にキスをした。彼女の唇は柔らかくほんのり甘い香りと味がする。何度も唇を合わせてきても、こんなにも気持ちの良いものなんだ。頭も心もそして体も痺れる。二人だけの世界。彼女の唇からゆっくり離れる。視線を唇から彼女の目へと移す。
「もう、恥ずかしいよ」彼女が目を細めて俯き加減で照れ隠ししている。それが僕にも伝わりほんの少し照れ臭くなる。
「さて、お店に入ろうか」
「うん」
オカマのママが経営している「bar和子」は地下一階にあり、路面から下るように階段が作られている。階段を降りきるとモダンな木造の扉が「お前が来る場所ではない」と言わんばかりの主張をしている。
やや重い扉を開けるとそこには年末を満喫するお客がワイワイとやっている、という雰囲気はなく、大人な雰囲気を保ちつつも華やかで少し羽を休めた大人たちの憩いの場所となっているように感じた。
「あら~、遅いじゃない」オカマのママが早速気付いたのかカウンター越しに手を振る。
「カズちゃん、お久しぶりです」と僕が言う。
「ママ、こんばんは」と彼女が続いて言う。
手招きされるがまま、オカマのママ、カズちゃんの指定したカウンターの端の席へと座った。
「もう、遅いじゃない。来ないと思っちゃったわよ。うんもう」そう言いながらちょうど良く温めてあるお絞りを僕と彼女に手渡して、言葉を続けた。
「あなたたちはいつも一緒なわけ? いつもアツアツで羨ましいわ」とウインクをくれるオカマのカズちゃん。
「いつもなわけないじゃないですか」とは彼女。
「そうですね。 ほとんど一緒に居ますよ」とは僕が言った言葉で、ほとんど同時だった。
「あらあら。息までぴったし」おほほと、わざとらしくカズちゃんが笑う。
ここには、悩み相談や気分転換、愚痴を言いたいときや彼女と喧嘩して家に帰りづらいとき、それから嬉しいことがあった時や祝い事があるときに来る。ある意味、第三の居場所なのだ。自宅と会社とそして『bar和子』。僕も彼女もここに通う善良な常連なのだ。
「いつもので良いのかしら?」
「ああ、注文忘れてました、ごめんなさい。いつものでいいです。奏多は?」
「私もいつものでいいです。ママのカクテル美味しいから、ここにきたらそれしか飲まないし」
二っと笑う彼女の横顔を尻目に見ながら、ふと今朝考えようとしていた彼女とのこれからを思った。二人ともいい歳だし、同棲生活もすでに三年目を迎えている。自然と“結婚”の二文字が頭に浮かぶが、なかなかどうしてそれがあまり具体的に想像できない。結婚とは今のままの延長線上なのだろうか。単に名前が変わったり戸籍が変わったりするだけではないのだろうか? 結婚とは何なのだろうか? 好きだから結婚するのか? 一緒にいたいから結婚するのか? この人じゃないとだめ、と思ったら結婚するのか? いや待て、結婚は必ずしなければいけないものなのか? 誰かに取られないために結婚をする人もいるのか? そんな考えでそもそも結婚ができるのか? いや、できないだろう。じゃあ、僕はなぜ結婚を考えているのだろうか? 彼女と結婚したいからだろ? 結婚していなくてもいつもの変わらないのではないか? 仮に結婚して生活が大きく変わるなんてことはおそらくなにだろう。じゃあ結婚する意味あるのかな? そんな堂々巡りを脳内で繰り返していたら、いつものドリンクをカズちゃんが持ってきた。
「今日は何に乾杯するのかしら?」僕と彼女の二人の顔を確認したカズちゃんが片手にロックグラスをもって乾杯の準備をしている。
「奏多の誕生日に」と僕が言うとママはニヤッと笑ってコクリと頷いた。さすがカズちゃん。去年の彼女の誕生日もここで祝杯したのを覚えているようだった。するとカズちゃんは店内に反響するほどの声をあげた。
「さ~て皆様あたしにご注目」カズちゃんの演説が乾杯の音頭とは思わず、彼女と二人で顔を見合って目を点にした。カズちゃんは僕らを気にすることなく続ける。
「今宵はbar和子にお越しいただきありがとうございます。今日は一年最後の日。ゆく年くる年をここで祝い、新年を気持ち新たに出発して頂戴ね。あ、それから今日はどんどん飲んでお財布を空っぽにしていって頂戴ね。新年を迎えるための大切な行いよ。さて、今日はあしたの友人の彼女のお誕生日なの。せっかくだから皆でお祝いしましょう。お歌はなし。その代わり皆で乾杯しましょう。準備はいいかしら。グラスはもったかしら? それでは、親愛なるかなたんに、かんぱ~~~い」
どっと店内が沸く。彼女は恥ずかしいのか頬を赤らめていたが嬉しそうな面持ちだ。あちらこちらからお祝いの言葉が飛んでくる。そのたびに彼女は「ありがとうございます」とカクテルグラス片手に会釈をしながら歩き回る。指笛も飛んでくる。何歳になったんだーという声も聞こえる。綺麗だね、という声も聞こえる。祝福に包まれている彼女を僕はカウンターの席から微笑ましく眺める。好きな人の大切な時間を僕は共にしている。感慨にふっけていると、突然背後から「こんばんわ」と声を掛けられて、少し驚いた。
「こんばんわ・・・・・・えっと」
「急に話かけてごめん。私もここの常連なんだ。幾度かここで君たちを見たことがあって一度話をしてみたいと思ったんだ」
「常連さんなんですね。ええっと、ってことは初めましてじゃないということですね」
見るからに誠実そうな男だった。手にはロックグラスを持っていて、中身は茶色の液体が入っている。
「とりあえず、乾杯しておきましょうか。彼女さんの誕生日に」
軽く合わせたグラスはかちんという音を響かせたが、すぐに店内の喧騒に吸い込まれた。少しだけアルコールを舐める。彼女がこちらに戻ってくるのが見えて男から視線を外した。
「すごい祝われようだね」
「うん。初めてだよこんなの。うん、悪くないね。今度は樹の誕生日にここへ来よう」
「あっそうだ。こちら常連さんの」と言いかけて言葉を止めた。
「常連さん?」
「あれ? 今しがた声をかけられたんだけど、おかしいなあ」
「女性?」
「ううん。男の人」
気のせいじゃない? と彼女は言って最初に注文したカクテルのおかわりをカズちゃんに注文した。
その後、アルコールをそれぞれ五杯程飲んでほろ酔いになったところでお店を後にした。ほろ酔いなのは僕だけで酒に強い彼女はケロッとしている。
外の空気はさすがに冷たかったがお酒が回っている体には丁度よい心地よさを感じた。薄い黒色の空は満月が煌々と光っていて夜道を照らすランプになってくれていた。時刻は二十三時ちょっとすぎ。二年参りのために近所の神社へと足を運ぶ。手を結ぶ長い影が月光によってどこまでも、どこまでも長く続いていた。